衛宮家の風呂はいつ入ってもいいものだ。
適当に取ってきたタオルで濡れた髪を拭きながら廊下を歩く。ぼたぼたと歩いたあとを雫がついてまわってきたが、ランサーは特に気に止めなかった。
(まあ、どうせ坊主が拭いてくれるだろ)だとか(マキリの嬢ちゃんが後片付けしてくれるはずだ)だとか。
自分より何歳も年下の子供たちに向かってそんな期待をしていたのだ。
ちなみにアーチャー相手に期待はしない。怒られるから。怖いし。眉間の皺すごいし。
なんて考えながら部屋の襖を開けると、思いがけない相手がそこにいた。
「……ああ。上がったのか」
というかなんだその顔は。
不満そうに言うのに、「びっくりして」と素直に答える。すでに敷かれた布団の上、その脇にいたのはさっきまでランサーの脳内でなんだか機嫌悪そうにしていたアーチャーだったのだ。そりゃランサーも驚く。素で驚く。
「なにやってんだおまえ。なんでここにいんの」
「悪かったかね。不法侵入だとでも?」
「そんなことねえけどさ。うん。つか、」
うれしい。
ぱちん、と鋼色の目がまばたく。一度、二度。三度目で開くことはなくて、まぶたを閉じたままアーチャーは眉間を指先で揉んだ。
顔が少し赤いんじゃないかと思う。もしかして日頃の概念武装のアレが目に焼きついてるだけかもしれないけれど。
あれはあまりにも鮮烈すぎる。放っとけばどこかへ勝手に消えそうになるくらい希薄な気配を漂わせているくせして、なんなんだ。
まあこの男はそんな風に言ってもきっとまともなことは答えない。なにを言っているんだとか、そんなわけないだろうとか嘘をつくのだ。 そうに決まっている。
「ランサー」
「ん、ああ?」
「だから、いい加減に腰を下ろさないかと言っているのだが」
聞こえなかったかというのに、聞いてませんでした。と頭の中だけで答える。
「聞いてた聞いてた」
それが気まずくてわざわざ近くも近く、密着するまで寄っていって座る。とたんにぼたぼたと雫が落ちて、アーチャーの服を濡らした。元々黒い服がさらに色濃くなり、水玉の模様がところどころにできた。
「―――――冷たい。充分に髪を拭いてから上がれと言わなかったか」
「さーあ? どうだったっけな?」
「君の記憶力に期待した私が馬鹿だった。……貸すといい。責任を取って拭いてやろう」
タオルを投げ渡すと大きく繊細な手がランサーの頭を包みこんだ。しばしどちらも無言で没頭する。二人の世界ってこういうのを言うのかもな、なんて恥ずかしげもなく考えたランサーの髪を、ふと後ろから伸びた指先が軽く掬った。
水に濡れるとアーチャーの服のように色の濃さを増す青い髪。それがアーチャーの指先に弄ばれている。
「おい、アーチャー?」
不快ではないが不思議だ。
あらかた髪は乾いたのか、首筋に触れる感触は先程よりも軽い。おい、ともう一度呼びかけようとしたランサーは、突然首筋に押し当てられたものに奇妙な声を上げた。
「うへっ」
……本当に奇妙な声が出た。
それを聞いて驚いたのか、また鋼色の目をまばたかせてアーチャーが真正面からランサーを見ていた。なんだこいつ?今、したのか?
オレの首筋に、
「いまキスしたの、おまえか?」
「あ」
「おまえだろ。つか、おまえしかいないよな? なあ?」
「あ……」
赤い。
褐色の肌、赤い頬、白い髪、黒い服、唯一異質の青い髪。
ほどかれているせいでいつもより長く見えるそれをしかし決して離さずに、アーチャーは悪かったかね?とたずね返してきた。
「悪かねえけど。意外なことするもんだなと思ってよ」
「い、いけなかったか」
「だから悪くもいけなくもねえっての。で、なんでだ」
「は?」
「なんでこんなことした?」
まるで蛇に睨まれた蛙だ。日頃飄々としているアーチャーだけにこの反応は面白い。ランサーは口端に笑みを浮かべると、なあなんで、と悪びれない子供のようにたずねた。
わざとらしく絡みつくようにしてたずねる。
鈍い音がして、気がつくと覆いかぶさるようにアーチャーと二人、布団の上に転がっていた。干したばかりなのか布団は陽の匂いがする。
その上で身をよじって焦るアーチャーの首元に鼻先をうずめながらなあなんでだよ、なんでだって、としつこく繰り返した。
どのくらいそうしていただろう。
ついに折れたのか、アーチャーは口を開いた。憮然とした表情で、眉間だけではなく鼻の頭にも皺を寄せて。
「き、君の」
「オレの?」
「……後ろ姿が。というか、首筋が、その、思っていたよりも、」
うつくしかったものだから。
「…………」
ぽかん、とランサーは目を丸くする。
だがそれも一瞬だ。
「ばっかやろう!」
「な!?」
力のかぎり布団に押しつけられ、アーチャーが陸に打ち上げられた魚のように暴れる。
「い、言うにこと欠いて馬鹿とはなんだね! 確かにおかしなことを言った自覚はあるが!」
「そうじゃねえよこの馬鹿! 無自覚! 鈍感! ああもう言ってるだけで恥ずかしいんだよ! 聞いてるだけで頭が沸騰しそうになるっつの!」
「ね……熱でも出たか?」
「だからそうじゃねえっつの、この阿呆が!」


どたばたと布団の上で繰り広げられるプチレスリング。その数分後、般若のような形相で襖を開け放ったのは誰か。それは言わぬが花というものである。



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