―――――アインツベルンの浴室―――――
男が一人、褐色の肌に湯を浴びせかけている。
ぱしゃり、ぱしゃり。さすがアインツベルン。温泉の質も最高級だ。すっきりしているのに、どこかとろつく。汚れを落とすのみならず、新たな汚れが付かないように身を守る―――――そんなイメージが脳裏に浮かんだ。
「おにいちゃん」
どん、と大げさな音を立てながらも少女の体は軽い。まるで羽根のようだ。シロウ、シロウとかつての懐かしい名前を連呼する彼女は、確かに男の姉であり、妹だ。大切な妹。大事な姉。命に代えても守るべきもの。
「んー? シロウ? どうしたの? 顔、暗いよ?」
「あ。ああ。ただ少し……考えごとをしていただけで、な」
「ふーん。……でーもー、つまんなーい! せっかく邪魔者ナシでイリヤのお城にいるんだから、おにいちゃんはイリヤのことだけ見てなきゃダメ!」
「そう。イリヤ、寂しがる」
「ッ!?」
「ああ、この子はリズ。さすがにシロウサイズともなると私ひとりじゃここまで運べなかったから、手伝ってもらったのよ。ねえリズ?」
「うん、イリヤ」
言われるが早いか、大開帳。かろうじてタオルが大事な部分を隠しているが、みっともない格好には変わりない。
「き、君……ッ!」
「? オトコは……度胸、女は愛嬌……でしょ?」
これのどこが度胸だ。これはただのセクハラだ。
「それとも、オトコも愛嬌? かわいくねだって、イリヤメロメロ?」
「――――な―――――!」
どうにも話がかみ合わないトンチンカンメイド。困って主人であるイリヤに顔を向ければ。
「♪〜〜♪♪」
鼻歌だ。
「イリヤ、どうする? ターゲット、結構頑丈。作戦変更?」
「大丈夫よ、リズ。体格に似合わず、心の内はそれはそれはもう弱いサーヴァントなんだから。……ねえ?お・にい・ちゃん?」
「―――――あ」
頭がくらくらする。立っていられなくなって、ぽすんとメイドに、否、メイドの胸に受け止められた。
「わお。熱烈なホーヨー?」
「あー。ずるーい、リズ! わたしも! わたしもやるー!」
「……ごめん。イリヤには、無理。と思う」
「なんでよー!」
「……サイズ……」
ぴし。あたたかいはずの浴室が一気に限界突破。赤い瞳をちらちらまばたかせ、ああ、そう、とイリヤはつぶやいた。
「それなら最後の手段に出るまでだわ」
「最後の手段? ……イリヤ、君?」
「しっかり押さえてるのよ! リズ!」
「おっけー」
いまいち気の抜けた返事とはうらはらに、万力のような勢いで体を拘束される。ま、まさかこんなか弱そうな女子が……!?
動揺時の思考はぐるぐる回る。そして体感時間もやけにゆっくりだ。すなわち、まわりはもっと早いスピードで動いている。
「おに―――――いちゃあああんっ!」
「っ、うぐ!」
天から少女が降ってきた。そんな生易しい話じゃない。確かに高いところから少女は降ってきた、が、ふわん、だのほわん、だのとかわいい効果音をつけられる落下速度じゃなかった。
そう、言うならアレだ。
くすくすわらってごーごー。
「あは、びっくりしたー? 心臓ドキドキしてる! かぁわいー!」
「ドキドキ? ワクワク?」
「一気に座に戻されるかと思ったわ! たわけ!」
きょとんと目を丸くするアインツベルンホムンクルスたち。その表情に罪悪感を感じない、感じな……感じないわけがない!
しかし、このまま甘やかしてはいけない。正義の味方とて時に苦言は言うのだ。
「イリヤ――――」
イリヤは下を向いていた。さらさらと流れる銀髪。見え隠れする赤い瞳。少し……潤んでいるような気が。
「あ、ああイリヤ……悪かった……」
「本当? 本当? お兄ちゃん! イリヤのこと嫌いにならないでくれる?」
「ならないさ。好きだよ、イリヤ」
「本当?」
「本当だ」
「本当の本当に?」
「本当の本当の本当に」
「わーい! だからシロウってだいすきー!」
一瞬の油断をついた犯行でした。はっと危機を悟り逃げようとしたアーチャーですが、もうすでに遅し。
腕力メイド・リズがその動きをがっちりと封じています。
さきほどまで健気な顔をしていたイリヤはにこにこと悪魔っこ笑いを取り戻しながらアーチャーに近づいていきます。
「ねえ。シロウ?」
「……イリヤ?」
「わたしねえっ、お姉ちゃんがほしいって前から思ってたんだ!」
「……は?」
お姉ちゃん?
お姉ちゃん、つまり姉的存在ならすでにふたりもいるじゃないか。いや、そういう問題ではなくて。
あくまでセラとリズはイリヤにとってはメイドでしかない。頼れるところはある。実際に頼ってもいる。だがしかし、本当の意味で彼女たちは姉ではないのだ。
「あ、姉なら……大河がいるだろう。藤村大河だ。君だってずいぶんと懐いていただろう?」
「タイガ? んー……そうね、確かにタイガのことは好きよ、わたしも。だけど言っちゃうと、タイガって妹的存在なのよね、わたしからすれば」
「なっ……」
なんておそろしいことを言うのだこの悪魔っこは!言うにこと欠いて妹!あの藤村大河に向かって、妹とは!
「オ……オレは言ってない。なにも言ってないぞ藤ねえ……」
とっさに脳裏に蘇るのは遠い過去の記憶。ちょっとしたトラウマだ。
告白すれば自慢じゃないがこの身と心、つつけばいくらでもトラウマが湧き出してくる。体は剣で出来ていても心は硝子……言うなれば壊れ物なのである。
誰とは言わないがもっと大事にしてほしい。
青い狗とか青い狗とかあかいあくまとか。
そして目の前のお嬢さまも。
「そう、そんなに大事にしてほしいの?シロウ」
「ああ…………」
はっ。
「い、今……!?」
「口から出てた。全部。きーいちゃったーきいちゃったー。わーいわーい」
言いながら手をぱちぱちと叩く無表情メイド。みーんなーにーいっちゃおうかな?続くイリヤは満面の笑みだ。
まずい。
「イ、イリヤ」
「なあに?」
「や、やめてくれないか」
「だから、なあに?」
「だ、だから、今のことは……」
誰にも言わないでほしい。
たったそれだけのことを言うのにも舌が上手く動いてくれない。なんなんだ。なんなんだこの状況は!?
「そうね、じゃあ……」
焦るアーチャーを置いて、イリヤは可愛らしく考えこむ。小さな頭をことん、とかしげると、銀色の髪がさらさらと流れて白い肌を彩る。
「わたしのお願い、ひとつ聞いてくれたら考えてあげてもいいわ」
「お願い……?」
「そう。今日だけのお願い」
一瞬すべてを忘れて見とれてしまうほど、花のように美しくイリヤは笑った。


「わたしのお姉ちゃんになりなさい! シロウ!」
「またその話題に戻るのかあああ!」


「なに言ってるの! あきらめるわけないでしょ! いい加減に覚悟を決めなさい、シロウ!」
「決められるわけがあるか! まったく君はいつもそうやって無茶ばかり……」
「無茶じゃないもん! やればできるもん! 根性根性ど根性! アインツベルンなめんなー!」
「そんな根性、さっさと森に捨ててきてしまうといい! 手伝ってやるから!」
「もー! シロウってば弟のくせに生意気なんだから! そんなことばっかり言ってるとお姉ちゃんにしてあげないからね!」
「望むところだ!」


「なんですか先程から騒がしい……!」
「あ、セラだ」
「あ、セラだ。じゃありません! リーゼリット! あなたがいながら一体なにをしているのです!?」
「んー……ねえ、セラ?」
「なんですか!」
「きょうだいあいって、難しいんだね」
「はあ……?」


思わず気が抜けたように肩を落とすセラに難しいね、ともう一度繰り返して、リズは首をかしげた。



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