「アーチャー」
アーチャー、と高い声が呼ぶ。まるでカルガモの雛のように後をついてまわって。
「…………」
空になった洗濯籠を抱えアーチャーは振り向いた。と、後をついてきていた雛も足を止めてきょとんとアーチャーを見上げてくる。赤い瞳の雛。
「……イリヤスフィール」
自分でも理由がわからず、なにやら苦い表情を浮かべてつぶやくアーチャー。なあに?と言うように唇に指を当てて首をかしげるイリヤスフィールのそのいとけないしぐさを見て、ますますアーチャーの眉間に皺が寄った。
完全に廊下で足を止めて向き合う。昼下がりのひなたの差しこむ場所で。
「その……なんのつもりかな。一体」
言葉を探して、ようやく出てきたのはそれ。当然イリヤスフィールは目を丸くして、次いでぷうっと頬をふくらませた。
「なあに、その言い方。まるでわたしがなにか企んでるみたい」
「いや……そういうつもりではないが」
言葉を濁して目を逸らすアーチャー。明らかに気まずいと鋼色の瞳が語っている。だがそれを許すイリヤスフィールではない。眉を吊り上げると腰に手を当てて、ぷりぷりと。
「うそ。なにか理由がなければそんな顔しないわ。さあ、話しなさいアーチャー。わたしの言うことが聞けないの?」
かわいらしく怒ってみせた彼女だったが、アーチャーはそれに意外な反応を見せた。
先程のイリヤスフィールのように目を丸くして、それからほっとしたような顔をしたのだ。驚くことに。
驚いたのはイリヤスフィールもだ。まさか、怒ってみせてほっとされるなんて思うはずがない。大きな目を丸く丸く丸く―――――して、それから戸惑ったように問いかけてきた。
「アーチャー?」
どうしたのと。心配そうにたずねたイリヤスフィールに、アーチャーは我に返ったような顔をしたがもう遅い。言い辛そうに視線を下に落として、ぽつぽつと語りだした。
「君は……私に対して姉のように振る舞うだろう? いつでもだ。それがまるで、妹のような行動に出たのでその……違和感を持ったのだよ。ああ、その、済まない。悪いと言っているのではない、君は私の姉であり妹だ。何もおかしいことはない。気分、というものが人にはあるものな?」
選び選び話すアーチャーの言葉にイリヤスフィールはぽかんと呆気に取られたような顔をした。彼女にしては珍しい。いつも余裕を持ち、いたずらできまぐれな子猫のように振る舞うのがイリヤスフィール・フォン・アインツベルンである。
その子猫が―――――ぎらり、と牙を剥いた。
「シロウったら!」
突然前触れもなく、ばっと手を広げてアーチャーに飛びかかる。足にしがみつかれたアーチャーはあからさまにうろたえて固まる、戸惑ってはみせるが振り払うことなど出来るはずもなく、姉であり妹である少女の名を呼ぶ。
「イリヤスフィール!?」
それにふふ、と喉の奥で笑ってみせて、しがみついたままでイリヤスフィールはアーチャーを見上げた。その表情はいつものいたずらなはつらつさに満ちていて、アーチャーはそんな場合ではないというのに安心してしまう。
「かわいいのね。おねえちゃんに見捨てられたみたいで寂しかったの?」
「そ、んなことは」
「安心して、そんなことない。わたしがシロウを見捨てるなんてこと絶対ないわ。だって、わたしはシロウのおねえちゃんだもの」
だけどね、と小声のままイリヤスフィールは言う。
「今日は、わたしはシロウの妹なのよ」
「今日……は?」
怪訝そうにつぶやいたアーチャーの耳に足音が届く。きた、とイリヤが小さくささやいた。曲がり角を曲がってやってきたのは―――――


「あー、やっと見つけた! アーチャーさんにイリヤちゃん、一体どこにかくれんぼしちゃったのかと思ったわよう」
わたしひとりで置き去りにされちゃったのかと思ったわ、と両手をばたばたさせて訴えるのは藤村大河だった。
「ふふ、あながち間違いじゃないかもしれないわよ? タイガ。わたしのお城ほどじゃないけどこの家だって広いもの、かくれんぼして遊びたくなったって全然不思議じゃないわ、ね、アーチャー?」
ぱっと態度を切り替えて笑ってみせるイリヤスフィール。その突然の変化についていけずに反応が遅れるアーチャー。
「ずるーい! あのね、仲間はずれはよくないのよ。いじめなんだから! いじめかっこわるい! って言うじゃない?」
「さあ、わたししーらない! 遊んでたらなんだかお腹空いちゃった。アーチャー、わたしなにか食べたいわ。ちょうど時間みたいだし、お茶にしましょう」
言うが早いか駆けていくイリヤスフィール。その代わり身の速さに呆気に取られたアーチャーは、大河の呼びかけに我に返る。
「イリヤちゃんったら元気ねー。わたしだって負けないんだから。さ、アーチャーさん、行きましょ!」
「あ、」
あたたかな体温。ごく自然にアーチャーの手を取ると、大河はイリヤスフィールの後を追って駆けだした。
手を引かれ―――――それでも、決して無理矢理ではなく―――――アーチャーは、彼女に導かれていったのだった。


「んー、美味しい! 士郎の作るおやつも美味しいけど、アーチャーさんのおやつも最高ねー!」
ほっぺたが落ちちゃう、と頬を押さえてとろけそうな笑みを見せる大河。見るものを幸せにさせる笑顔というのはきっとこういう笑顔のことを言うのだ。
「タイガったら子供っぽいんだから。ねえ? アーチャー。こんなじゃお嫁さんにもらってくれる人も現われないわよね?」
「むむむ、それとこれとは関係ないでしょうがー! いくらイリヤちゃんでも許さないわよ?」
「きゃー! ぼうりょくはんたーい!」
きゃっきゃっきゃ、とかしましく騒ぐイリヤスフィールと大河。そのどちらに組することも出来ずアーチャーは中立を決めこんだ。
ひとしきり騒いだあと、乱れた髪を整えるとイリヤスフィールは席を立つ。
「あれ? どしたのイリヤちゃん?」
「そろそろシロウたちが戻ってくる頃でしょ。迎えに行こうかなって思って」
「えー。だったらわたしたちもついてくわよ、イリヤちゃんひとりじゃ危ないじゃない、ね? アーチャーさん」
「馬鹿にしないでタイガ。わたしタイガよりよっぽどオトナよ。シロウのお迎えくらい、ひとりでできるんだから」
ぷい、とそっぽを向くとふくれてみせて、すぐに笑顔を見せるイリヤスフィール。
「だからタイガはアーチャーとお留守番してて。この際だから、いろいろと家事を習うといいんじゃない? ね、アーチャー」
「え? あ……ああ、うん?」
「ひっどーいアーチャーさん!」
笑いながら大河がアーチャーの背を叩く。
アーチャーとてサーヴァントである。大河に叩かれたくらいではなんでもないが、動揺していたせいか大きくつんのめってしまった。
「やだ! アーチャーさんったら大丈夫? ごめんなさい、つい士郎相手にするみたいにしちゃって……」
ずきん。
「―――――いや。大丈夫だよ」
笑みを浮かべてみせたアーチャーに、大河は安堵の表情を見せる。よかったあ、と言って浮かべた笑みは、太陽のような笑みだった。
そんな大騒ぎの最中、イリヤスフィールはさっさと身支度を整えていた。
それじゃ、と言って襖に手をかける。
「行ってくるわ。どうぞごゆっくり。おふたりさん?」
居間を出ていくイリヤスフィール、その指先が軽くアーチャーの肩に一瞬だけ触れる。その瞬間、怒涛のように情報が流れこんできた。


“わたしはシロウのおねえちゃん。大好きよシロウ。だけどね、タイガもシロウのおねえちゃんなの。だからたまにはタイガにも、シロウを独占させてあげなくちゃ”
わたしひとりじゃずるいから。
ぷつん、と接続が途切れる。イリヤスフィール、と呼びかけたアーチャーに、イリヤスフィールは目を細めて微笑んで、しい、と人指し指を唇の前に立てた。
襖が閉まる。
しん、と居間は静かになった。
「どうしたの? アーチャーさん」
声に振り向くと、不思議そうな顔をした大河がいた。
「大丈夫?」
どこか具合が悪いのかとたずねてくるのに、首を振る。そしてそれでは足りないと思って、口にした。
「大丈夫だよ。何も問題はない」
「そう? よかった!」
元気が一番よね、と明るく笑う大河。ずきん、とまた痛む胸。
懐かしい。大切な人、血は繋がっていないが確かにこの人もまた、“エミヤ”の姉だった。告げることは出来ない。だが、思うことは、出来る。
「ねえ、アーチャーさん」
不意に大河が菓子をつまみながら口にした。
「何だろうか」
「あのね? 気を悪くしないでほしいんだけど」
少し迷う様子を見せて、けれどさらりと彼女は言った。
「時々ね。アーチャーさんと士郎を見間違えることがあるの。おかしいよね、全然違うのに。だけど、あ、士郎だ、って思うの。でも、よく見てみるとそこにいるのはアーチャーさんで…………」


あ、士郎だ、って思うの。


「アーチャーさん? ……アーチャーさん?」
はっと覚醒した。目の前には心配そうな顔をした大河がいる。
「やっぱり気を悪くさせちゃった? わたし気がきかないから、思ったことをすぐ口にしちゃって……」
小さくなってみせる大河。アーチャーは、ただまばたきをする。くすくすと幼い姉が笑う声が頭の中で響いた。
“ねえ、シロウ、そうだったでしょう?”
「ごめんなさい、アーチャーさ」
「いいや」
やわらかく表情が動くのがわかる。大河が、目を見張ったのがやけにゆっくりと確認できた。
「大丈夫だよ」
藤ねえ。
心の中でそうつぶやいて、アーチャーは何を飾ることもなく、何を偽ることもなく微笑んだ。
呆気に取られた顔をして、それからぱあっと明るく微笑んだ大河の微笑みは、昔からどこも変わることのない、愛すべき姉の笑顔だった。


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