「ランサーさん、俺、煙草休憩行きますけど一緒に行きませんか」
「ば……!」
名もなきウェイターは同僚が発した言葉に怪訝そうにそちらを見る。青ざめた顔。なんだろうと思ってランサーを見てみれば、
「ああ……オレはいいわ」
しばらくの無音。その場を救うようにドアが開き、ベルが鳴る。
カランコロンカランコロンカラン。
「お客さま何名様でしょうか?」
愛想よく女性客を案内していく後ろ姿を見ながら、哀れなウェイターは同僚と同じく青ざめて小声で彼を問い詰める。
「なんだよあの顔!? ていうかおまえ、知ってるんだったら教えろよ!」
「知らない奴がいるなんて思ってなかったんだよ! 最近入ったアルバイトだって知ってるぜ!?」
「うわ、手震えてきた……ちょっと一本吸って落ちついてくるわ」
行ってこい行ってこいと同僚は告げ、手をひらひらと降った。基本的に愛想もよく、面倒見もいいランサーだったが、今は少し危険だ。
“喫煙”“お煙草はお吸いになられますか”“火貸してください”エトセテラエトセテラ。
つまりランサーは禁煙中であり、煙草の話題は彼の前では禁句となっているのだった。


ことの始まりは本当にさりげないひとことだった。
くちづけを終えて体を離すと、銀色の糸が唇と唇をつないでちぎれる。それを指で掬いとって舌先で舐めながら、アーチャーは熱っぽくため息をついた。その腰に来るような吐息にランサーの中の衝動が疼く。
もう一度抱きしめて、薄く開いた唇を奪おうとしたときだ。
アーチャーがぽつりと漏らしたのは。
“君の舌はニコチンの味がするな”
腰に回した手が固まる。それきりアーチャーはなにも言わない。
目を閉じてくちづけを待つ、いつもはそう見えるそのしぐさがまるでランサーを仕方なく受け入れているようで、ぐ、と息を呑んだ。
まぶたにくちづけを落とす。そうして、ランサーは腰に回した手をほどいた。
「恋人が煙草臭いのはどう思うかって? そりゃあ、出来れば勘弁してもらいたいわね」
「え、その……本当に好きな人、なら……我慢できる、と思います……」
「煙たいのは基本的に好きではありません」
「料理をする者が吸うものではないとテレビで聞きました。ええ、わたしは許しません。他のなにを許しても、それだけは却下せざるをえないでしょう」
全否定。
よろめきながらランサーは自分の部屋へと戻る。そして机の上に乗った煙草とライターを、ゴミ箱に


「今帰ったぜ」
「おかえりなさい、ランサー」
セイバーが出迎える。壁に手をつきながら靴を脱いでいるランサーを見て、彼女は首をかしげ眉間に皺を寄せた。
「どうしたのですか?」
「あ? なんだよ、そっちこそ、んな顔して」
「あなたにつられたのです。まるで怒ったときのアーチャーのようですね」
機嫌が悪いのですかと直球にたずねてくるセイバーを手を払って遮り、ランサーは居間へと足を向けた。と、そこには洗濯物を畳むアーチャーの姿。そこで眉間の皺がなくなった。
「帰ったか」
「おう」
軽くハグするかのように手を広げたランサーは、ふとなにかに気づいたかのような顔になって立ち止まった。そして自分の匂いを嗅ぐ。
犬じみたしぐさにアーチャーとセイバーは怪訝そうな顔をするが、ランサーはひとり悟ったような顔になって。
「……風呂入ってくる」
言い残し、すたすたと廊下を歩いていってしまった。
「なんだったのでしょうね?」
「さて……」
取り残されたふたりは、顔を見合わせて首をかしげる。そのあいだも、アーチャーの手は黙々と洗濯物を畳み続けていた。
「…………」
「…………」
「なんでここにいるんだよ」
「バスタオルを置きに来たのだが」
そういえば置き場に在庫がなかった。だから仕方なく小さいタオルを腰に巻いて出てきたのだが。
「悪かったかね?」
淡々と問いかけるアーチャーに、いや、悪くはねえ、とすぐさま返すランサー。
そうか、とつぶやくとバスタオルを所定の位置に置き、アーチャーは踵を返して行ってしまった。
そして夜が更ける。
相変わらず衛宮家の食卓は騒がしい。セイバーと大河がおかずの奪い合いをすれば、桜がなだめ、士郎が追加分を持ってくる。
本当に騒がしい。
「ん? もういいのかランサー」
箸を置いたランサーに、慌てて追加分を皿に盛っていた士郎がたずねる。するとどこかむっつりとした顔で、
「ああ、もう腹いっぱいだ」
言って、食器を台所に持っていき、そのまま部屋へと行ってしまう。
その後ろ姿をアーチャーはじっと見ていた。


「…………」
突然部屋に入ってこられてランサーは目を白黒させる。このタイミングなら見られていただろう。
ばっちりと、イライラした顔で歯をぎりぎり鳴らしていたのを。
「……なんだよ」
「皆に君の様子がおかしいから見てくるようにと言われてね」
まあ、私自身も気になってはいたのだが、とつぶやいてアーチャーはランサーの傍に座る。
ランサーは少し離れた。アーチャーはちらりとそれを見て、下へと視線をやる。
「思い当たることは多々あるが―――――そもそも私のような存在が君に触れるなどおこがましかったのだろうな」
「は?」
「最近、触れてこないだろう? 求めてもこない。以前は私が嫌だと言っても触れてきたのに」
「ちょっと待て、アーチャー。おまえ、なに言ってる?」
「君が私を切り捨てたという話だ」
無言でランサーはアーチャーを見すえた。目が限界まで丸く見開かれて、アーチャーの顔を映している。
「なんでそういう話になんだよ」
「だから……」
「いいか、オレはオレなりにだな、おまえのために」
その言葉を聞いてアーチャーの目も丸く見開かれる。ランサーはしまったという顔をした。
「ランサー」
「…………」
「だんまりとは君らしくないな。どうやらお互い誤解をしているようだし、どうだろう? 話をしてはみないか?」
「おまえ、さっきまでしおらしくしてたくせに、」
「ランサー」
ラ・ン・サ・ー、と区切り区切り呼ばれては言葉を呑まざるをえない。ランサーは話し始めた。
黙って話を聞いていたアーチャーは、時間が経つごとに目を見開いていく。
そうすると目が大きく見え、童顔を強調した。
「ランサー……君……その、そんなことで?」
語り終えたランサーに“正気か?”と確かめるように、アーチャーは口を開いた。
そんなこと、と言われたランサーは前のめりになり、そんなことたあどういうことだ、とアーチャーに詰め寄る。
と、その至近距離に気づいたのか後ろに下がろうとするランサーを、アーチャーは腕を掴んで止めた。
「!」
唐突に唇を奪われ、ランサーは声にならない声を上げる。滑りこんでくる舌はなめらかにランサーのものに絡む。濡れた音を立てて絡むアーチャーの舌の動きはやや拙かったが、それでもひどく深かった。
やがてランサーも時を忘れ、粘膜同士が触れ合う心地よい感覚を味わう。絡んでくる舌を従わせ、絡めとって。
どちらのものかわからないほど混じった唾液を飲み下すと、アーチャーがつぶやく。
「あれは、ただの感想だ。だからどうということのものでもない、聞き流してくれてかまわない程度のものだったんだ」
“君の舌は―――――”
「それに、私は、君の味や匂いはその、嫌い、ではない」
かすかに声を小さく絞ったつぶやきを、きちんとランサーは聞いていた。
だからこれまで抱きしめていなかった分の目の前の体を、離さないとばかりに力強く抱きしめた。


「あれ、ランサーさん煙草やめたんじゃなかったの?」
「どうやら無理そうなんでな。禁煙の方をやめることにした」
「まあ、体を壊さない程度にならいいと思うけどね。それに禁煙中よりもランサーさん、すごくいい顔してるもの」
にこりと笑った女教師は、腕にはめた時計を見るとやば、遅刻遅刻と言ってそれじゃあねと駆けていった。
それに返すように、紫煙がゆっくりと青空に溶けるように消えていったのだった。



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