どん、と壁が鳴った。思わず周囲を見回すが逃げ場はない。正面を見ればそこには端正な男の顔があった。
私を囲った男。ランサー。槍兵のサーヴァント。彼の白い腕は牢獄と化して私を囲っている。逃げられない。
「ランサー、」
呼びかけてその笑みにどきりとした。
「なぁ」
嬲るように声が呼ぶ。
「逃げられないっていうのはどんな気分だ」
「っ、」
楽しそうに尋ねてくる。ぞくり、と背筋を撫で上げられたような悪寒が走った。
「こんな。こんな、柔い戒めで。逃げられないっていうのはどんな気分だアーチャー? 嫌なら逃げられる。そう、本気で嫌ならな」
殺してでも逃げろ。彼は、そんなことを言う。
「嫌じゃない。……嫌じゃ、ないんだろ?」
なぁ、と声がささやく。低く甘い声。触手が這うようにランサーの声が私を縛る。
「嫌なら剣でも投影して、オレの腕を切り捨てて逃げ出せよ。……本気で、嫌ならな」
おかしい。そんな理屈通らない。なのにランサーは言う。彼こそが本気の目で。
「ぅあ、」
べろり、と耳朶を舌が這う。生き物のような温度に体中が強張った。
きっと口元からは犬歯が覗いているのだろう。それを突き立てて。望んでいるわけではないけれど。快楽という刺激と苦痛という刺激。それなら圧倒的に苦痛がいい。なのにランサーが与えてくるのは温い快楽だった。
「アーチャー……」
吐息のようなささやき。痛めつけてほしい。懇願したかった。
「なぁ、どうして逆らわねえ」
逆らえない。
「なぁ」
逆らえないんだ。
「どうして?」
だって。
「……くく」
ランサーが笑う。心からおかしそうに、潜めた声で。内緒話をするように彼は私の耳元で笑った。
かしり。林檎の実を齧るように、ランサーは私の耳朶に歯を立てた。
「ん、っ」
力はそこになく。あるのはただ柔く。かしり、かしり、とランサーは続けて私の耳朶に歯を立てる。
「嫌なら、逃げろよ」
その合間に無理強いを強いて。
「殺してでも。出来るだろ?」
無理難題を、私に強いて。
「殺せよ。嫌ならオレを殺してここから逃げ出せ。どこを切り裂いたっていい。何なら首にするか? サロメってあるだろ。愛しすぎて病んで、男の首を切り裂いた女だ。アーチャー。おまえはオレを少しばかりでも愛しているだろう?」
嫌だ。
「サロメになれ、アーチャー。首くらいくれてやる」
嫌だ。
「それが嫌ならどこをやろうか。腕か? 足か? それとも胴体をまっぷたつにして持って行きたいか。ならそうしろよ。抱えて持っていけ。下がいらないのなら捨てていけ。……オレは」
嫌だ。
「オレは、おまえになら」
嫌だ……!
「おまえになら、オレの全てをくれてやったっていいんだ」
泣きそうになった。耐えられない。与えられることなど耐えられなかった。享受することなど。誰かの全てを甘受することなど。なのにランサーは私を責める。オレを丸ごと喰らえと、喰って身にしろと迫ってくる。逃げられない。追い立てられる。白いてのひらが汗ばんだ頬を撫でた。
それは。当たり前の、熱を持っていた。
「アーチャー」
彼は笑っていた。ほとんど私は泣きそうになった。
どん、と体中で体当たりでもして、隙をついて逃げ出せば逃走は容易だったろう。それでも私は逃げ出せなかった。赤い瞳が恐ろしかった。見つめてくるその瞳が。
あまりにも美しいそれが。
「ああ――――」
思い付いたようにランサーがささやく。
「この目を。持っていくか」
さらり、と彼はそう言ってのけた。私は恐慌した。
「くれてやるよ、オレの目なんぞ。片方だけ残ってればいい。両方欲しいって言うならくれてやらないでもないぜ? それとも交換でもするか。おまえの見る世界が」
ランサーは何でもないように言った。
「おまえの見てる世界が。オレは、知りたい」
私はそれを知られるのがとんでもなく恐ろしかった。
醜い世界。守護者として殺しつくしてきた人々の顔。救ってきた人の顔。泣いた顔。笑った顔。怒りの顔。死骸。生き延びた人々。快楽。苦痛。断末魔。――――産声。
私は、産まれたばかりの赤子のようにぜえ、と喘いだ。頬に触れたランサーのてのひらが、急に大きさを増したように思えた。
「すげえ」
ランサーが言う。
「おまえの目、蕩けてる」
色様を増した、声で言う。塞ごうとした手は縛り付けられたように動かなかった。
「泣きそうなのか?」
ランサーが言った。
「いいぜ。見ててやる、泣けよ。おまえの一部始終をここから見ててやる。おまえがみっともなく泣くところ。人間みたいに泣くところ。普通に、感情を見せて泣くところがオレは見たい。なぁ、泣けよアーチャー」
喉が震えた。ふいごのように。どうしてだろう。どうして私の目は熱いのか。
どうして。私は、この男の言うがままに泣いてしまおうとしているのだろう。
「ぅ、うぅ、う――――」
引き攣った声が漏れ出る。目が見る見るうちに潤んでいくのがわかった。鋼の瞳が溶けていく。どろり、と鎔けて、頬に滴る。伝う。ひとすじの、ふたすじの、みすじの、いくすじもの線となって。
私は泣いた。みっともなく声を上げて。男の、ランサーの思うがままに。
ランサーは赤い瞳を細めて私を見ている。わんわんと手で拭う術もない涙を流して泣き喚く私を愛おしげに眺めている。赤子のように私は泣いた。産道を通って外界に産まれた赤子のように。新しい世界に怯える赤子のように。
「アーチャー」
遠くから声が聞こえる。自分の泣き声が一番近くて、とても耳にうるさい。白いてのひらがこぼれる涙をせき止めて、少し離れて私を不安にさせた後、びしゃびしゃに濡れたそれを舌で舐め上げるとTシャツでごしごしと拭ってまたそっと元の位置に添えられた。
私は。
私は、それに安心してしまった。
「おまえの泣き顔、すげえみっともねえ」
笑う声が聞こえる。
「でも、おまえも泣けるんだな」
ランサーも、安心したようにそうつぶやいた。
「そうやって、泣けるんだな」
淡く。私は、安心した。ランサーの手は熱い。私の体はどうだろう。いつものように冷たいのか。
剣の如く、冷たいのか。それを確かめたかったが、術はなかった。
けれどひとつだけ。瞳がひどく熱いのだと、それだけは知って取れた。
ランサーは抱きしめてなどくれなかった。私はそれにほっとした。抱きしめられたりなどしたら、きっと発狂していた。泣きながらきっとぐずぐずに崩れた。
距離感。囲われている。それでも触れているのはてのひらだけ。それとまなざし。だから安堵した。体全体で触れられていたら最後だった。おしまい。終幕。私は終わる。
「アーチャー」
ランサーは言った。
「今の気分はどうだ?」
私は答えられぬまま、ただ、泣いていた。



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