命の取り合いがしたい。ぎりぎりの生と死の狭間で戦いたい。奴と。
煙草のフィルターをがじがじと噛みながら槍兵は内心でつぶやいた。答える者など誰もいない夜のビルの屋上。だから槍兵は無言でいる。答える者など誰もいないから。無言でいる。
「…………あいつがいいなあ」
いたはず、だったのに吐きだしていた。紫煙が空に溶けていく。ニコチンの味がそろそろ薄くなってきた。間に合わないと思う。なにがどう間に合わないのかは知らない、けれど焦燥感はいつでもあったのだ。早くしなければと思っていた。そうしないと、自分はどうにかなってしまうと。
「あいつがいい」
もう一度つぶやく。口に出してみるとそれは意外にはっきりとした思いだった。
あの赤い弓兵がいい。あれがいい。
あいつと死ぬほど真面目にぶつかりあって、血の味を舌に乗せて大笑いしたい。そうだな、あれがいい。
「あいつがいい」
三度目。
これまでで一番しっかりとつぶやくと、槍兵は立ち上がった。
律儀に持っていた携帯用の灰皿に半分以上残った吸殻を押しつけて、唇を舐めまわす。軽く噛んでみた。違う。
舌打ちして、槍兵は己の血がまじった唾をコンクリートに吐き捨てた。今あいつとキスしたのなら、きっと煙草臭いと罵られるのだろう。その眉間の皺と嫌そうな目つきを想像して槍兵は一人笑った。
そして、誰もいない屋上から音も立てずに消えた。
そこにはただ風だけが吹いていた。


「なあ、いいだろ?」
「少しだけだ」
「ほんの少し、やり合うだけだ」
「ほんの少し、殺し合うだけだ」
「なあ、いいだろ?」


冷たく、しんとした居間で、柱に押しつけて切々と訴えると弓兵は槍兵の思ったとおり、無表情になってから大いに嫌そうな顔をした。それが嬉しくて声を立てて笑ってしまうと睨みつけられる。
「なにを言っているのかよくわからんな」
「これだけ噛み砕いてもまだ足りねえか? ならオレがもっとよく噛み砕いてその口に移してやってもいいんだぜ」
「……なにを」
戯言を、とため息をつく唇を奪いたくて、うずうずした。いろいろと奪ってしまいたいと思ったのは久しぶりではないだろうか。
眉間に寄った皺を見て思う。真剣になったことはあった。だけれど、奪いたいくらい欲しいものは槍兵にはそうなかった。
今までは向こうの方から来ていたから。
「弓兵よ」
少し上から見下ろしたその唇を一瞬だけ奪う。くち、と音を立てて離れると鋼色の瞳がまったく揺れずに槍兵を見ている。澄んだ湖面のように、その底のように、そこに沈んだ死体のように弓兵の表情は死んでいた。
槍兵は思った。これを生き返らせたい。
「なあ」
足のあいだに足を入れて、強く押しつける。条件反射で後ずさった弓兵は後がないことに気づき動きを止めた。
その代わりにじっと槍兵を見つめてくる。
「おまえ、どうしたらオレとやり合ってくれる?」
「どうしても出来ないと言ったら」
「無理矢理にでもやり合うだけだ」
「―――――」
弓兵はまたため息をついた。
目線がさまよって、槍兵に定められる。鋼色の瞳が、燃えた。
「無理矢理にでもやられるのならば、自分から歯向かおう」
その宣言に槍兵は狂喜して、もう一度深く弓兵の唇を奪った。そこから戦いが始まったのだろう。入りこむ舌に弓兵は応え、噛み切らんばかりに歯を立てたのだから。


「―――――避けるなよ弓兵!」
「ほざくな駄犬!」
吠える。互いに徒手空拳だというのにびりびりと大気が震え、家が軋んで鳴いた。狭い庭で弓兵と槍兵は互いに素手で戦っていた。
もっと、もっと楽しめるように。間違って殺したりなどせずに、あっさりと終わってしまって泣くことのないように。
「…………っ」
弓兵は宣言通り正面から槍兵の拳を受けた。呻き、口の中に溢れる鉄の味を感じながら蹴りを打ちこむ。宙にいた槍兵は体勢を崩したが軽々と着地をし、にやりと笑む。何度か同じように攻撃を食らっていた弓兵は仁王立ちになってそれを見る。シンクロするのかのように痛む胴。手を当てずとも熱を持っているのがわかる。じんとした。体も、心も。
「やるじゃねえか」
赤い瞳が弓兵を見つめる。弓兵は思った。ああ、もっとこの男と遊んでいたい。今この男は自分だけを見ている。
他の誰でもない自分を。見ているのだ。
ああ。
「……あ?」
はっとして飛んできた拳を腕で受け止める。なんだ、今のは。今の雑念はなんだ?遊んでいたい。雑念。今この男は自分だけを。雑念。他の誰でもない自分を見ている―――――雑念?
嘘だ。
誰かが心の中で叫ぶ声がした。弓兵は拳を振り上げて槍兵の顔面を殴りつけた。端正な顔が歪んで、殴った方の拳にも血が滲む。頑丈な男だと思っていた槍兵は吹っ飛び、庭を転がっていってそのうちに体勢を立て直した。まったく、バランス感覚に優れた男である。
弓兵は吠えた。
「ランサー!」
その名前を呼んだ。真名ではなく単なるクラス名だったけれど、それは間違いなく槍兵の名だった。その証拠に槍兵は起き上がり、赤い瞳で弓兵を見ている。見据えて、睨みつけている。
笑っている。
「アーチャー!」
叫びが返ってきた。とたん背筋に走る感覚を振り払うように弓兵は走り出す。衣服が風に流れてそのまま軌跡になった。
槍兵の元まで到達し、殴られ、殴り、しりもちをついたところを胸ぐらを掴んで引き起こし、くちづけた。
だらだらと槍兵の鼻から流れる血のせいでそのくちづけは呆れるほど鉄臭く物騒だったが、弓兵は離れることができなかった。まばたきをする度に惜しいと思う。
見ていてほしい。見ていたい。この男のどんな表情の一コマも逃したくないし、己のそれもひとつたりとて逃してほしくない。
犬が主人の顔を舐めまわすように傷だらけの顔を舐めて、くちづけをして、熱い吐息を吐き出す。
だけどきっと知らない。
この槍兵は知らない。弓兵の気持ちなどかけらも。
開いた瞳孔を見つめて弓兵は思う。つぶやいた。
「たわけが……!」


時は、ゆったりと流れていた。先ほどまでの昂ぶりが嘘のようで、だがそれは真実でしかない。
互いに引きずりこまれるかのように居間に戻った槍兵と弓兵は粘膜と粘膜でつながっていた。糸を引き濡れた音を立てる。
吸って、齧って、歯を立てて、髪をかきまわして、傷を探って、またくちづける。痛みが走ったがそれもまた快感になった。たやすく。
ん、と声を上げる。腕を覆う黒い袖をたくしあげられて腕の付け根までをあらわにされた。
弓兵の顔がかあと何故だか熱くなる。もっと淫らな場所もさらしているというのに、だ。
槍兵は接続を解除すると筋肉の中のやわらかい部分に音を立ててくちづけていった。
跡を残した。
跡を残した。
跡を残した。
跡を残していった。
その淫蕩な表情に弓兵はうっとりとしてしまう。頭を押され、ずるずると畳の上に膝をついてくずおれた。
革ズボンのジッパーを下ろす音が聞こえるが動けない。グロテスクな、自らにも存在している熱の塊を見ても、動けない。必要がないと思う。証拠に、槍兵が弓兵を動かせてくれた。ぐ、と力をこめて頭を押される。
「―――――ほら、飴だと思ってしゃぶってろ。出来るだろ? 弓兵」
うながされた。
そう言われて懸命に舌を這わせた。出来ないと思われるのも癪だったし、なにより弓兵自身がそれを欲していたのだ。
「…………ふっ」
槍兵は自らの熱を咥えこませながら鼻血の跡を手の甲で擦っている。無言で、時々荒い息を漏らす。
その姿に弓兵は背筋がぞくぞくとするのを感じた。もじもじと体が動いてしまう。そのたびに口の中で熱が大きくなる。支配欲と、その逆のものが同時に顕現して存在していた。不思議なことだったがありえないことではなかった。こんな状況下だ。なにがあってもおかしくはない。
「……なんだ。どうした? もう我慢できねえか」
「やっ」
負けた。そう思った。いやだ、と言えなくつたなく、や、と声を漏らしてしまい、糸をつないでしまい、ひどく熱っぽい息を吐いてしまった時点で負けだった。殴られて切れた口の中がしみたが、それでも弓兵は槍兵のその熱を含んでいたいと思ったのだ。
槍兵はその声を聞くと男くさく笑ってみせる。顎を掴まれて睨みつけた。上手く出来ただろうか。あれも、これも、それも。
弓兵は霞がかった思考で考えた。
「なにがいやだ」
「…………っ」
「なにが、いやだ、そう聞いてる。耳はついてるんだろ、弓兵?」
口もついてるんだろう、なにしろいままで、そう隠喩された。それなのに何故口がきけないのかと槍兵は問う。弓兵はそれに思い立ったように槍兵の熱を求めだした。体液にまみれた唇が動く。
「…………いやではない」
「へえ?」
「けれど、いやだ」
「どういうことだ」
「わかっているんだろう、それでもまだ言わせるのか」
「ああ、言わせてえな。おまえの口から聞きてえよ」
「…………そうかね」
ろくでもない。
どちらのことか、弓兵はひとりごちるとぬるりと唇を舐めた。わざとらしく煽るように。上目遣いで、槍兵を見た。
見上げた。
「君をくれないか」
そう、はっきりと口にした。
「君が、欲しい」


ひなたに四角く切り取られた畳は白い、そこだけがまぶしい。ぼうっとしながら弓兵はそれを眺めていた。
「おい、なに呆けてるんだ。ちゃんと立てよ」
揺さぶられて口から涎が垂れた。ぽたりと裸足の甲に落ちる。
「―――――あ、ん…………」
虚ろな声に、槍兵は小さく舌打ちをして弓兵の腰を抱え上げた。位置を確かめるように己の腰を近づける。
「だらしねえぞ弓兵。……仕方ねえ」
一度抜かれて虚脱感に襲われる。あ、と震える声が出たと思ったらまた突き入れられて、悦びの声がこぼれた。
「……ほら、ちゃんと立て。最後まで付き合ってやるからよ」
そう言われてもとろとろにとろかされてしまって弓兵は上手く立っていられない。槍兵の熱は口で味わうよりも何倍も質量があり、硬く、重かった。それだから抜き差しされると自然と声が出てしまってされるがままに体が揺すられてしまう。みっともない事実だった。
「おい」
「…………」
「おい」
「…………」
「聞いてんのか」
ねじこまれ、苦鳴を上げる。まだ入ってくる余地があったとは。だって熱はあまりにも大きくて、それが己の体内にあることでさえ弓兵には信じられなかったのに。たぎるほど熱くなった体にまだ熱がねじ入れられる隙があったとは、とてもじゃないけれど。
考えられなかった。だって、とてもじゃないけれど信じられなかったのだ。
だってだってと繰り返していると女々しすぎて、それでも繰り返さずにはいられなくてその隙にも弓兵は喘ぐ。体が跳ねて、踊る。
先刻の互角だった戦闘からは思いつかない劣勢と思えた。なにしろ、自分は槍兵を翻弄する術を知らない。互角だなどと口が裂けても。
言えない。
「んん……っ」
「馬鹿野郎、それ以上噛み締めるな」
ついでにこっちも緩めろ、と腰骨と前の熱を直接掴まれて今度は悲鳴を上げた。とろりと粘性の高い体液が確かに槍兵の手を汚した。
体が弛緩する。
「食いちぎる気かよ、本当に風情も余裕もねえなてめえは……」
「っふ、」
首を振る。誰が、と吐き捨てたかったがその通りなので言えなかった。欲しがりすぎている。体も、あるいは心も。そうでなければこのようにぼろぼろになってもどろどろになっても熱を欲しがったりしない。吟持を、余裕を失って、まともに喋れなくなってまでも。
「あ……っ、奥…………深すぎ、るっ、」
「ああ?」
「深い…………!」
伝えたいことしか伝えられない。深すぎる。
いっそ暴力的なそれは凶器で、弓兵の体内を深く抉る。どうしてだろう。露出した内臓である舌をなぶられたときはこんなにも感じないのに、隠された臓器を蹂躙されるとここまで興奮するのは。
「おまえが欲しがってるからどこまでも飲みこんでくんだろ。オレのせいにするな」
勝手な言いざまに少し笑う。ふ、と息が漏れて、背後から槍兵が怪訝そうにする気配が伝わってきた。
「…………なんだ?」
「…………なんでも」
「ちっ」
あからさまに舌打ちをすると、槍兵は弓兵の腰をきつく掴んだ。そのまま、またも奥までねじこむようにして自らの腰を密着させた。
悲鳴を通りすぎた、すでに嬌声を上げようとする弓兵の口を手で押さえて深く腰を何度も打ちつける。体を揺らす。踊らせる。
「―――――んっ、う、んっ、んん、ん―――――!」
「っは…………!」
先に果てたのは槍兵だった。のしかかった弓兵の背中に崩れて、荒い息を耳元に吹きかける。どくどくと遠慮なく濃い精を注ぎこんだ。 そのめくるめく熱さにたまらずに弓兵も達する。
生理的な涙が口を覆った槍兵の手に流れ落ちる。
はあ、は、と、二人はしばらくつながったままでそうしていた。断続的に極めながら、弓兵は耳を食みながら槍兵が言う言葉をぼんやりと聞いていた。
「こういうときは…………こう言うのか? “愛してるぜ、弓兵”…………」




「…………ったくよ、オレってもんが…………だらしねえな」
ビルの屋上に座りこみ、販売機で買った煙草をくゆらせながら槍兵はつぶやく。フィルターをがじりと噛んで思った。もっと強いものがいい。もっと強い刺激が欲しい。たとえばあの、赤い弓兵のような。
「―――――はっ」
吐き捨てた。なんて女々しい。あの男も大概女々しいが、それに付き合う内に自分も女々しくなったのか。
「…………」
がじりがじり、と続けてフィルターを噛んだ。紫煙はまるで水のような味がする。欲しい。もっと強いものが。もっと激しい。引き裂くような。叩きつけるような。あれが、あれが欲しい。あれが抱きたい。あれを抱きたい。今すぐだ。今すぐ。
「……ったく」
行儀悪く、吸殻をコンクリートの上に吐き出した。それはまだ燻っていて、まるで槍兵の心境のようだ。
「抱きてえなあ」
つぶやいた言葉は、むなしく夜の空に溶けて消えていった。



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