早朝は戦いである。衛宮士郎は目を覚ますと慌てて布団をはねのけ、制服に着替えた。
隣室で寝ているセイバーを起こさないようにしかし慌しく部屋から出る。どこへ行くかと言えば台所だ。衛宮士郎の戦いの場。
―――――と。
「遅かったな。衛宮士郎」
遅かった。そこには既に先客がいた。
「なんでさ……!」
絶望する。いつもより三十分早く起きたはずなのに、どうしてこいつがここにいるのか。アーチャー。未来の、自分の可能性。
それがエプロン姿で。それも自分と微妙におそろいのデザインで。
「あああ! 今日は鮭の塩焼きとじゃがいもの味噌汁にしようと思ってたのに!」
「甘いな。鮭はまだ新鮮だ。それより昨日、凛がアジの開きが食べたいと言っていたのを聞いていなかったのか。それにセイバーが味噌 汁は豆腐がシンプルで好きですと言っていたのも忘れたか」
そりゃそうですけど。ていうかよく覚えてるんですね。敗北感でいっぱいになりながら、衛宮士郎はエプロンの紐を直した。
「……付け合せ。ほうれん草の胡麻和え、作る。手伝う」
微妙に単語喋りになりながら、衛宮士郎は包丁を持ってアーチャーの隣に並んだ。こうなったらもう、やらないと損である。
土蔵に行って朝の鍛錬をするのも、なんだか負けな気分だ。さてと。
「―――――やるか!」
気を取り直して腕まくりをし、衛宮士郎は戦いを始めた。


くつくつとんとん。鍋の煮える音と包丁の音。朝の幸せな光景である。―――――多少ギスギスしているけれど。
朝食戦争に参加している面子はいまのところ衛宮士郎とアーチャーだけなので、そういった意味では静かだ。補欠の間桐桜はいまごろ、自宅でゆっくり眠っていることだろう。 桜には。桜には、この過酷な争いに参加してほしくない。
衛宮士郎は涙をのみつつとんとんとぬか漬けを刻んだ。
と。
「―――――つっ!」
指先に痛みが走ってとっさに手を引く。見てみると、じわりと血が滲んでいた。
「やっちまったか……」
はっとして隣を見ると。嘲笑う、視線が。
「……あれ?」
なかった。アーチャーはやたらと静かな、湖面のような瞳で衛宮士郎を眺めるとおたまをガス台に置く。そして、衛宮士郎の手を取った。
「な、ちょ!」
舌を出してゆっくりと血を舐めて、吸い上げて、幼さを残す指ごと口に含む。第二関節までを飲みこまれて衛宮士郎は耳まで赤くなった。
ちょ、ま、あーちゃー!とひらがなしゃべりになってしまう。 一心不乱に指を吸うアーチャーは、そんな絶叫など聞いていない。ただ静かに小さく声を上げつつときおり舌先を尖らせて傷口を舐めているだけだ。抉るように舌先が入ってくると、ぴりりとした痛みが走る。痛い、けれどなんだか気持ちがいい。……気持ちがいい?
そんなわけあるか!と葛藤する衛宮士郎だったが、体は正直だ。反応してしまう、朝だというのに違うところまで。いや、朝だからか?
そんなわけあるか!
ん、とアーチャーが声を漏らした。鼓動が高鳴る。落ちてきた前髪をかきあげ、こめかみのところで固定して再び指を吸う。
日頃無機質な鋼色の瞳は、こんなときやけに淫蕩だ。冷たく澄んでいるのにどこか熱く、なにかを秘めているように見える。曖昧にしか言えないのはまともにそれを見られないからだ。けれど、衛宮士郎はそこから目が離せない。食い入るように見てしまう。
それからどれくらい経っただろう。
血が止まったころになって、ようやくアーチャーは衛宮士郎の指を解放した。ぬらぬらと濡れたそれに、あらためて心臓が高鳴る。
「ちょ、な、おま、」
舌が疲れているのはアーチャーだろうに、衛宮士郎の方が上手く舌が回らない。
「なんで!」
「ふむ。……未熟だが、ないよりはマシだな。馳走になった」
「は?」
はっとした。そうか!体液!
「ただ、貴様の血は独特のくせがあるな。……調理に支障が起きたらそのせいだと思うので覚悟しておけ」
「俺のせいかよ!」
文句言うならそこまで味わうな!と絶叫しつつ、衛宮士郎は高鳴る心臓を必死に押さえ、濡れた指をエプロンで必死に拭いたのだった。
動揺したら負けだ、動揺したら負けだ、動揺したら負けだ。
呪文を唱えて戦争に挑んだせいで、衛宮士郎はまた指を切ってアーチャーの指吸いの洗礼を受けることになるのだが、それは後の話だ。
さわやかに雀が窓の外で鳴いた。



back.