覚醒する。目を覚ましてみれば、時間はほぼ正確。台所から気配はするが、慌てることなく衛宮士郎は着替えを済ませ、静かに目的地へと向かった。
さて、そこにははたしてアーチャーの姿。野菜の皮を器用に剥いている。
「はよ……」
「遅い目覚めといえるだろう―――――が、努力は認める」
主品は私が、付け合わせ諸々はおまえに任せた。任せた、などとそんな言葉はついぞ聞いたことがなかった。
よし、と衛宮士郎は見えないところでガッツポーズを取る。
「衛宮士郎?」
「はいはい、今行きますよっと」
二人で並んで、包丁やお玉を手渡しあい、時には相手の作ったものの味見。朝食戦争も長く続けてきたせいか、ふたりのエミヤシロウの仲はだいぶほぐれてきていた。最初は酷かったものだ。衛宮士郎が丹精こめて作った卵焼きを「未熟」の一言で切って捨て、「卵が哀れだ」などとまで言ってのけたアーチャーが、今は朝食の出し巻卵を全面的に士郎に任せている。
特訓の成果だ。
「……これは……」
それは何度目だったろう。嫌々といった顔でふわりとした卵焼きを口に運んだアーチャーは、軽く目を見開くと衛宮士郎の顔を見て、卵焼きを見て、衛宮士郎を見て、また卵焼きを見た。
「……なんだよ」
「……投影でも」
「するか!」
まあ、きっかけはそんな間の抜けた会話だったけれども。
それがあって、今や衛宮邸の朝食の付け合わせはすべて衛宮士郎の担当となっている。そのときは調子に乗って、また包丁で指を傷つけたりしたけれども今度はアーチャーが吸いつく前に自分で口に含んでしまい、それからアーチャーへと譲与する。拙くとも舌を使って、引きだして絡め、魔力をその体中に回す。
くちづけの技巧に関してはまだまだ要修行であるのか、アーチャーに大した動揺は見られない。けれど、衛宮士郎の心の余裕と言ったら。 ない。
それから、笑顔。笑顔だ。実はアーチャーの笑顔はそうめずらしいものではない、ただ種類を選ばずなら、なのだが。嘲笑・失笑・冷笑程度の笑いなら何度も見せてもらった。見せて、いただいていた。頼んでもいないが。
だが、最近アーチャーは違う種の笑みを見せるようになった。柔らかく、無防備な―――――それは一瞬であるけれど、安らかな笑み。
ここにいること、に安らぎを覚えている存在が生みだす笑顔だ。
衛宮士郎がぼうっと見とれているとすぐに消えてしまうけど、それでもよかった。衛宮士郎は部屋に戻ると、一人でにししと笑う。頬を赤くして。
あいつ、笑うように、なったんだ。俺の前で、笑うように、なった。
距離は確実に狭まっていた。そんなとある日の出来事である。
「……ふむ」
「どうした? アーチャー」
「小僧か。いや……味噌汁の具をどうしようかと迷っていてな……」
「なんだ、おまえにしてはめずらしいな。ほら、ちょうどここにワカメが」
ワカメが?
「小僧?」
「あ、ああ、うん、なんでもない。ワカメが!」
「ワカメが」
アーチャーが繰り返す。しん、と沈黙が訪れて、意識して二人、パッケージを覗きこんでみると。


ふえるわかめ


「増えるのか……」
「増えるのだな……」
「……ああっ、でもさ! これは単なるワカメで、俺たちが心配してるワカメとは関係ないと思うんだ、な? アーチャー。だから、安心して……」
「小僧。……いや、衛宮士郎。だからおまえは馬鹿だというのだ。戦士、何事にも準備と警戒を怠らず……とすれば、これはすぐに焼却処分してしまうべきだ」
「なんでさ!? もったいないだろ!」
「もったいない……? いいか小僧。貴様はこのワカメが日本全土を、世界大陸を、そして地球を覆い隠してもまだそんなことを言えるのか!? 増えるのだ。増えるのだぞ、こいつらは! あのろくでもないマスタ―――――ああ、記憶が混乱しているな―――――これは私の記憶ではない、だが、しかしだ!」
アーチャーは衛宮士郎に詰め寄ると、低く、甘い声でささやいた。
「増えるのだぞ。そうすれば、チャンスはいくらでもあるだろうな。倒しても倒しても倒してもやってくる彼ら。私は貴様の前から連れ去られ、拷問をくわえられるだろう。手酷くな、まさに人となどして扱われん。貴様はどうだ。捕まったあとで―――――自分がどうなるか。考えたことはあるか……?」
妄想開始。おーい衛宮―――――強制終了!
「衛宮士郎」
荒い息を吐く衛宮士郎の肩に手を置いて、しなだれかかるようにアーチャーは言った。
「貴様と私の朝食ライフを守るため―――――協力、してはくれないだろうか?」
「よし、わかった」
あっさりと答えると、士郎はゴミ箱の蓋を開ける。そして手にしたふえるわかめを力の限りたたっこんだ。
「これで―――――いいんだな」
「ああ。いいのだとも」
「俺たちのために―――――なるんだな」
「なるとも」
「そうか!」
衛宮士郎はにっこりと大輪の花が咲いたように笑うと、やや動揺したようなアーチャーの唇に音を立ててくちづけた。
「衛宮士郎……ッ!?」
「安心したら、キスしたくなったんだよ! 悪いか!?」
「……悪い、な」
「聞こえない」
「は?」
「もっと大きな声で、俺の傍で……」
そう言って、衛宮士郎はもう一度、アーチャーの唇に音を立ててくちづけた。そして、盛大に殴られた。
ワカメの取り持つ縁、というのだろうか。ふたりの仲はそれからもっと親密になった。遠坂凛などはなにか呪術でも使ったわけ?と首をかしげるほどの効果だった。
しかし、一度ワカメが出てくれば一触即発、阿鼻叫喚。だから、とふたりは誰かがうっかりワカメを買ってきたりしないように、今日もふたりで仲良く商店街へ買い物に向かうのだ。
「手をつなぐ必要はあるのか? 小僧……」
「こういうときはこうするもの、なんだよ」
「答えになっていないぞ」
「ま、いいだろ」
ワカメが取り持つ縁である。



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