可もなく不可もなく。
なのに抉れたものばかりで、突出したのは負の方向。
憧れたはずの正義も真実ではないと知った。その末に自分殺しを夢想した。どんなにかそれは甘い夢だろう。
砂糖菓子にシロップをぶちまけたように消えていく己の存在。なんて魅力的な提案だろうか。甘くべとべととした提案。糸を引いて自分は自分ではなくなって、抱え込んだ全ての苦悩も消えるのだ。
ほら。
随分と後ろ向きな思いだろう?
なのに彼は自分を照らす、欠点だらけのこの身を撫でて、慈しんで。
時折馬鹿めと罵ってはそれでも笑う。
どうして。
問うた言葉に返ってきたものはと言えば。丸くなったまなこと、不思議そうな声。
――――どうして?
どう、して?
同じ言葉が返されて、思わず瞠目。どうして?どうして。それを初めに聞いたのはこちらなのに。何故同じ言葉を返してくるのだろう?
こんな身の、映し鏡でもあるまいし。
そう言えば手首を掴まれる。ぎり、と力を入れられて少し呻いた。何をするのか。聞こうとして視線を投げれば真顔があった。
…………。
息を詰めて凝固すると声が耳を、鼓膜を這う。
卑下するな。
何を言っているのだろう。卑下するなだと?こんな自分を?笑ってしまう。でも、その笑いは引き攣って。だって。どうして。なんで。問いが子供じみていく。
わからない。だって、わからない。わからない。どうして、わからない。わからない。なんで、わからない。
こんな自分、誰だって見下して笑うに決まっている。
そう言えば、彼の顔が、驚きと怒りと悲しみに満ちて。ああ――――、また自分は何か間違えたのだろうか、と。
思っている間に抱きしめられた。
な。
あ、あ、あ――――。
口からこぼれ出るのは驚異の言葉。あまりにも近すぎる体温、呼吸さえ感じる、髪を肌を首筋を、触れていっては湿らせる熱い吐息。
こんなにも。
彼は、熱い。
冷たい己の体が染み渡っていく体温で熱せられて溶けていく、それは望んだはずのことなのに。
絶望の果てに望んだ自分殺し。自分の消滅。溶けて消えてしまいたいと、思ったのではなかったか。なのに、だというのに、どうしてこんなに体が震える。
望んだことなのに。きえて、しまい、たい、と。
あんなにも、暗い闇の中で。
繰り返し、繰り返し、繰り返し。自分は。
望んだのでは、なかったのか。
こんな自分、消えてしまえと。執拗に。繰り返し。擦り切れるくらい。丁寧に。乱雑に。とにかく思っていた。願っていた。縋っていた。
それが、あっさり他人の体温で摩り替わる。
どうして。あからさまに摩り替わったもの。どうして。理解出来ない。どうして。……恐ろしい。
摩り替わった、塗り替えた、半ば暴力的に。
それでも痛くないから恐ろしかった。痛かったのなら耐えていられたのに。いや、違う。意識して耐えることなどしない。息をするかのように普通に出来た。
痛みには慣れていた。生前からこれまであまりにも傍に添っていたから、いっそ友のような存在だった。もしくは母のような。
包み込むようなそれだった。
だというのに彼は、正反対の心地良さで自分を取り込んでは犯す。知らないから対応出来ない心地良さでもって溶かしていきながら、いいかと笑う。いいか。
いいか?そんなことを聞かれてもわからない。苦しいばかりで息が出来ない。気持ちいいだろうと彼はなおも笑う。それが苦しくて仕方ないと訴えたい。だけど彼に向かって言えるものか。だから澱のように自分の中に溜まっていく。くるしい。
痛くしてくれたのなら、通り過ごせたのに。なかったことに出来たのに。
ちゅ、と音が鳴る。ちりちり首筋に残る感覚。
痕をつけられたのだと、遅れて知った。
戦慄する。傷跡ならいい。傷口ならいい。癒えなくていい。残ったままでいい。膿んだままで。だというのに痕を残されるのはこんなにも恐ろしい。ほら、さながら愛されてしまったようじゃないか。
耐えられない。
恥ずかしい。羞恥に悶える。馬鹿みたいだ。こんなにも心臓を高鳴らせてはしたない。
かつて貫かれた心臓を。
こんなにも、その相手の前で高鳴らせて。
包み込まれては怯えている。
逃げ出せばいい?力では負ける。無視をすれば?あまりにも眩しすぎて出来ない。殺してしまえば?なんてこと。
自らでさえ殺せない己が憧れた英雄を自分勝手に殺せるものか。


アーチャー。
呼ばわる、声。
震える体が余計に震える。芯から震えて、きっと相手に伝わる。それでも止まらない。止められない。いっそう強い羞恥に至る。
薄い紙を鮮烈な色水に浸せば貪欲に吸い上げていくように、己の肌は染まっていくことだろう。
呼べよと彼は自分に語る。口は動くが声は出ない。
ランサー。そうひとこと、彼を呼べばいいだけなのに。
彼は笑っている。でも、自分を逃さない。白い檻。青い鎖、赤い鍵。
秀麗なそれが、自分を閉じ込めて包んでしまった。
逃げられない。
彼の中で溶け切るまで、自分はきっと抜け出せないのだろう。



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