「おまえさ、必要以上にオレのこと神聖視してねえ?」
その言葉の意味を理解するのに、結構な時間がかかった。
「……は?」
「“は?”じゃねえよ」
わかってるくせに、と男は言う。けれどわからないのだ。だって、自分にとって男は眩しくて神聖な存在だから。真っ向から見たら目が潰れてしまうくらいに、眩しい存在だから。泥の中のような闇にいる自分なんか、傍にいられないくらいの。
「その目だ」
赤い瞳を細めて、男は言う。真剣な顔で。いつもは笑っているくせに。
太陽みたいに、笑っているくせに。
何だろう?自分の何が男をそんなに不機嫌にしたんだろう。考えると鼓動が乱れる。足並みがばらばらになる。自分が、ばらばらに崩れていく。
(どうして?)
「私の目が、何か」
「――――本当は」
欲しいくせに、と。
男は言って、手を伸ばしてきた。
思わず身が竦む。すれすれで、男の手は触れてこなかった。ただ瞳を細めたまま、真剣な顔で――――ふとすれば不機嫌ともとれる顔でこちらを見ている。
(いやだ)
「なあ」
(彼に、嫌われたくない)
「おまえ、顔に出すぎ」
(え)
今度こそ、男の手は触れてきた。温かい手だった。頭を撫でる。くしゃくしゃと髪を掻き乱されて、何だか落ち着かない気持ちになったけれど、嫌じゃなかった。男の顔は依然真剣なままだ。笑ってばかりのくせに。いつもいつも誰かの中心で、楽しそうに笑っているくせに。
(なのにどうして、私の前では)
……こんな顔を、しているんだろう。
心臓を鷲掴みにされて責められているような気分になって、眉間に皺を刻んだ。胸が痛い。穿たれた痕。
今でも残っている、彼の残した残骸。
ずっとてのひらの中に抱いて、何を失おうとも、忘れようとも、大事に大事に守ってきた痛みだったのに。なのに。
なのにその張本人は、私のことを?
「オレはさ」
低い声で、男は言う。
真剣な顔のままで。私に。私だけに向かって。
「オレはさ、おまえが思ってるほど大した男じゃねえから。惚れた相手の弱みにだって、平気でつけ込む男だし」
違う。
君は、そんな卑怯なことはしない。
「だから」
伸びてきた手が、唇に触れた。かさかさの唇に。そのまま中に入ってくる。唇を割って、指先が何本か。
「おまえも、覚悟しとけよ」
「な……にを」
「オレは」
不明瞭な発音で返した私に、男は言った。
ずっと崩さない、真剣な顔と、そのまなざしで。
「オレは、おまえにつけ込むよ」
平気で、何も悪びれることなくつけ込むよ、と。
男は言って、舌に指を触れさせた。あ、と反射的に声が漏れる。男は黙ってそんな自分を見ている。ぞっとするような顔。


私を殺した時のような顔だった。


「オレだって、おまえが欲しいんだ」
おまえだけじゃない。
「おまえが、オレを欲しがるように」
舌が引っ張り出される。あ、とまた声が漏れた。白い指先が糸を引いて、穢してしまったと反射的に思った。
「つけ込んででも、何をしてでも、オレはおまえが欲しい」
それは一種残酷な宣告だった。なんて。なんてことを言うのだろう。それに。
それに、悦んでしまっている自分は何なんだろう。
「おまえ、オレに惚れてるんだろう?」
男は言う。傲慢な態度で、だがしかしとても素直な、まるで親に問いかける子供のような口調で。ねえ。ねえ。
ねえ、おまえはオレのこと。
「オレのことが、好きで好きで仕方がないんだろう?」
――――オレもだ、と男は言って。先程指先に付着した唾液を、ぺろりと赤い舌で舐め上げてみせた。
「だから、オレはつけ込むよ」
おまえの心に。おまえの心の深い深いところに。オレは平気で踏み入って、荒らして、手に入れるよ。
犯すようにして。おまえの意思なんか関係ないって顔して。オレのしたいようにするよ。
男は言う。


「だって――――おまえ、そうされたいって顔してるぜ?」
だから。
だから、オレはつけ込むんだと。
男は震えが来るくらいの声でそう言った。
「だがな、覚えとけよ。オレだって弱いんだ」
嘘つき。
「惚れた弱み、って言葉、さっき口にしただろ? ありゃオレにも通じるんだ。だから……」
だから?
男の腕が伸びる。
男はだん、と壁に手をついた。それがそのまま檻になる。逃れられない。顔を寄せてきて、くちづけの距離で、けれど触れてこないまま、男は言った。
「おまえも、オレにつけ込めよ」
おまえのものになってやるから。
嘘つき。
繰り返す。繰り返す、繰り返す、繰り返す。
「嘘だ……っ」
「嘘じゃ、ねえよ」
君が私のものになどなるものか!
叫びは喉の奥に詰まって外には出ない。ひく、とその代わりにそこが震える。男の真剣なまなざしがそれを余さず見つめているように思えてたまらない。
「うそ、だ……」
「嘘じゃねえって」
男の顔が近付いてくる。ゆっくりと。だが、確実に。


「おまえが欲しい」


体も、心も。何もかも。
「だから、くれよ」
その代わりにオレをやるから。
男は言って、唇を重ねてきた。んんっ、と詰まった声を上げてしまう。けれどそのくちづけは、ひどく、ひどく心地よくて――――。
ああ、愛されているのだ、と。
「もらうぜ」
おまえをまるごと、と。
いったん重ねた唇を離してそう言って、男はまた唇を重ねてきた。その中で思う。ああ。ああ。


ならば、私にも君をくれないと。
身勝手な欲望。けれどそれは叶えられる。重ねた唇を薄く浮かせ、男はぼそりとこう言ったのだから。


「ああ――――好きなだけ、持っていけ」



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