シロウ。
甘い声はかつて呼ばれていた名前を呼んだ。
声の主は私の白い髪をブラシで丁寧に梳かしながら鼻歌を歌っている。彼女が常日頃使っているであろうローズピンクのつやつやとした小さなブラシが私の髪を梳かすのは少々居心地が悪い。
「あん。駄目だよシロウ、動いたりしちゃ」
「……イリヤスフィール……」
「それも駄目」
イリヤ、でしょ。
もしくは姉さんね、と促す彼女はにまにまと整った顔を笑みで崩している。見上げたその表情は愛らしかったのだけれど、いつの間にか両肩に置かれた細い手が重い。
「……イリヤ」
「はい、」
よくできました。
言って彼女は再び髪を梳かし始めた。いつも上げている前髪は下ろされて、さらさらと額に感じる感触が心許ない。……ねえさん、と心細い子供の声で、私は彼女を呼んでしまった。
「なあに? どうしたのシロウ?」
「あの、その……なんだ。その、これは……しばらくかかりそうなのかな?」
「そうね、しばらくはかかるわね。だからおとなしくしていないと駄目よ」
あえなく撃沈。私がこの姉に勝てるわけがなかったのだ。
彼女は知っている。私の弱い、脆いところを。隠しているつもりはないが、そうして見つけだして駄目よとささやく。甘い声。甘い香り。細い指先は私の弱いところに触れる。痛くはない。ただ、少しだけ。
くすぐったくて、せつなくなる。
シロウ。
雪降る中、彼女が歌っていた歌を思い出す。ローレライ。哀しい人魚のうた。

ずきり、と胸が痛んだ。

「! シロウ……」

床を転がるローズピンクのブラシ。
腕の中の姉は、駄目じゃない、まだ途中なんだから、と不満そうな声を漏らす。けれど私がその手折れそうな体を抱きしめれば、何かを察したのか一呼吸分、間を、置いた。
「……ねえさん」
「……もう。しょうがないな、シロウは」
背中に回されるか細い腕。とんとん、と子供を泣き止ませるリズムで彼女は私をあやしてくれた。
「シロウはいつまで経ってもシロウだね。変わらないね」
私は変わってしまったと思う。だけど彼女は、変わらないと言ってくれる。
それをそのまま飲み込むことは出来ない。だが―――――しかし。時には甘えてもいいと言ってくれる。
そんなほのかな優しさに、縋ってしまってはいけないだろうか。
「ねえさん」
「シロウ」
彼女は、私の髪を撫でてくれる。
胸が苦しくて、とすると息が苦しいはずなのに、心はひどく穏やかだった。とんとん、と私の背を叩く彼女の―――――姉の手。
目の縁があつい。
「シロウはいい子だね……」
姉さんはこんな私を……オレを、いい子だと言ってくれる。
普段のオレならば頑なに信じなかっただろうが、わずかな数瞬、今ならば。


温かい抱擁。薄く目を開けて見た景色は、奇妙に滲んで溶け始めていた。



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