「……ふふ、シロウったら、かわいいのね」
そんな姉の声を、淡い意識の浮上の際に聞いた。


眠りに似た意識の喪失から浮かび上がってくると、目の前には小さな姉の姿。やけに上機嫌そうに彼女はにこにこと笑っていて、何だかそれが我が事のように嬉しくなる。
「シロウ」
もう自分のものではなくなった名前を彼女は呼んで、いっそう艶やかに笑う。
「おはよう。いい夢は見れた?」
「……うん……?」
目をこしこしと擦って不思議そうな声を出す。サーヴァントは眠らない。夢も見ない。ただ、あまりにも魔力が少なくなったときに似たような行動を体が取るときがあるが。
「ねえシロウ。どんな夢を見たの?」
「…………」
問われて考えてはみるがわからない。そもそも眠りに似た行動さえ覚えにないのだ。だから首をふるふると横に振ると、少し残念そうな声音と顔で小さな姉はそう、とだけ言った。
「でもいいの。あなたが擬似的にでも眠っていたときの顔はね、わたしだけの宝物だから」
両手の指を絡めあわせて言う。そんな彼女が愛しくなって、「ねえさん」とそっとつぶやいてみた。
「わからない。わからないけど、幸せだった気はするよ」
「そう? それなら良いのだけど。あなたが幸せであれば、わたしも幸せよ、シロウ」
「……私も……オレもだよ、姉さん」
小さな姉は目をぱちくりとさせると「ふふっ」と笑って胸の中に飛び込んできた。本当に本当に小さな体。回らない腕を一生懸命に回し、彼女は自分を抱きしめてくる。
そんな彼女を抱きしめ返すのを恐れて、代わりにその細く美しい髪に鼻先を埋めた。甘く、砂糖菓子のような匂いがする。自分は?
自分は血の匂いがしないだろうか?
血の匂いと、砂の匂いとが。ただただ乾いた匂いがしないだろうか。それが恐ろしくて自分は彼女を抱きしめられない。


他人の不幸にまみれた腕で、彼女を抱きしめることが自分には。


「シロウ?」
「……え?」
真っ赤で真っ赤に真っ赤な擦り切れた記憶を抱えて眉を寄せていると、不意に自分のものでない名を呼ばれてそれでも顔を向ける。そこには不満そうな彼女の顔があった。
「また、考えているのね」
「……何を」
「自分が汚れているって。自分が人とは違うんだって。幸せになってはいけないんだって、考えているんでしょう」
「だって、オレは」
「見なさい」
彼女は怒った声と顔で言った。
「幸せな夢を見なさい。そしてその夢を叶えると強く思うの。願うのよ、そうすればきっと叶うから。世の中の誰が叶えなくとも、願望機であるわたしが叶えるわ」
「! ……姉さん、それは」
「いけないって言うんでしょう? 冗談よ、わたしはあなたを残して逝きたくなんてない。それでもね、思うの。それだけの覚悟を持ち願うのよ。たとえこの身がわたしでなくなっても、わたしはあなたの願いを叶えてあげたい、シロウ」
「けど、だって、それじゃ」
切羽詰った思考で繰り返す。どの世界でも幸せになれなかった彼女のことを。そして。
そんな彼女を幸せにしてやれなかった、不甲斐ない自分のことを。
「それじゃ、姉さんは――――!」
天秤に載せて。
幸せになるのなら、自分ではなくきっと、彼女。
それなのに彼女は言う。自分に、幸せになれと。
いっそ暴力的な主張で、彼女は自分に幸せになれと言ってくる。あってはいけないのに、そんなことは。
「シロウ」
だというのに、彼女は微笑んで。


「幸せになりなさい。皆思っているわ、あなたの幸せを。皆願っているわ、あなたの幸せを」
そんな彼女の姿が、不意に薄れだす。
「え? ……姉さん?」
「皆、口に出さないだけで思っているの。自虐を繰り返すあなたのことをね、心配しているのよ」
リンなんて殴ってやろうかしらって言っていたわ。
言って、小さな姉はくすりと笑う。その姿はだんだんと薄れていって。
「あなたが幸せになれる世界がきっとある。あなたが幸せになれる場所がきっとある。わたしが宣言するわ、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンが宣言するわ。だから」
ほとんど見えなくなったその顔で、彼女はにっこりと微笑んで。
「幸せになりなさい、シロウ」


――――。
ゴウン、ゴウン、ゴウン、と音が鳴る。
ゆっくりと目を開けば、そこは見慣れた場所だった。歯車が回る錬鉄場。熱風が吹く枯れた場所。
甘い彼女の気配など、どこにもない。
(ああ)
夢を。
見ていたのか、と思う。
随分と自分に都合のいい夢を見ていたものだと思わず笑ってしまう。くくっ、と引き攣れた音が零れた。
幸せになる?この自分が?まさか。そんなことは有り得ない。ただ世界の汚れた掃除屋としてこき使われて磨り減っていくだけだ。磨耗して、疲れ果てることも忘れて落ちていくだけ。
さかさまに、夢の果てに。
落ちていくだけだ、と思いながら閉じていた目を開ければ。
「……姉さん……?」
うっすらとその姿を透かした、小さな姉の姿があって。
“シロウ”
「ねえ、さん」
“わたしはずっと、思ってるから”
「姉さん――――!!」
伸ばした手は空を切る。宙を掴んで彼女の残滓さえもぎ取れはしなかった。
「く、く」
それでも。
「ねえ、さん」
それでも、自分は。
「姉さん、姉さん、姉さん姉さん姉さん姉さん……!!」
今の彼女の笑顔だけで、乗り越えていける。
落ちてこいと手招く世界の触手を、振り払うことが出来る。
泣き笑いしながら思った。ああ、姉さん。
あなたも幸せであってくれ。どうか幸せで。そしてどこかの世界で、きっと出会えることをオレは信じています。



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