■Conturbatio

 あの人が疎ましい。この身が裂けてしまいそうな程に。
 あの人をおもうと、己が裂けてしまいそう、それ故に。


 覇王であること。それはそれは素晴らしいことだ。
 書物こそが友であった頃の憧憬。
 相応しき力を備えた己の手に、握ってみたい覇権。
 飽く無き探求であり渇望。
 玉座はすぐそこにある。
 けれど、ソレを継ぐ者は自分ではない。
 眩さに羨望し。夜毎嫉妬に歯噛みする。


 その人は何も望まぬ瞳で統てを受け容れる。
 ある日突然目の前に現れ、彼が欲しかったものを見事に背負ってしまった。
 そう、無欲なその人には、彼が求めた覇権というものが少し重そうだった。
 それがまた、憎らしい。
 なのに白い羽根でも拡げるように、空を見上げて柔らかに笑う。健気で強い志。侵しがたくこの世のものですらないような清廉さに、多くの者は畏怖し、平伏する。
 剣を持つには、権を翳すには細すぎるのではないかと錯覚してしまう腕を、その人はこちらにのばす。
 白い手袋越しの微かな感触が、優しい温度を感じる抱擁がいつも欲しかった。会えない寂しさの分だけ、多忙なその人は困り顔で笑って、欲しいだけ与えてくれた。
 近付く事さえ、多くの者が躊躇うその人に、飛び込める。屈託なく呼び掛け、頬を寄せる。
 ぼやける程間近で見るその人の緑眼は、どの宝石よりも美しいといつも想う。
 陽の当たる窓辺で、家族である自分にだけ見せてくれる猫のようなまどろんだ顔は、とても愛らしいと思う。だから、どんな王子がやってきても渡すものかと意気込んだ。接吻などさせない。
 誰にも触れられたくない。
「……さない!」
「なに?」
「な、なんでもありません!」
 何も言わずに彼をみて笑って、目を閉じる。武人でもあるその人が、本当に眠ってしまうことなどないのだろうが、いつかは、そうなってほしい。背中を預けて欲しい。もっといえば、護りたい。
 ──兄様を誰にも渡さない。
 そして甘く絶望する。
 それだけならどれだけ幸せか。
 この人さえ、いなくなれば。
 この帝国は己の物。
 誰よりも欲しくて、消えて欲しい。
 憎悪と思慕で、心が裂けてしまう。


 ケダモノの王と書いて、狂う≠ニ読ませる。
 そんな異国の文字があった。
 巧いことを考えたものだ。
 例え禁忌とされる濃い血の繋がりを持っていなかったとしても、兄に抱く気持ちではない。
 奪い取りたい。
 いや、どうだろうか。
 本当に血の繋がった兄弟ならば、まだ諦めはついたかもしれない。
 両親、あるいはその片側でも、同じ者が親であれば、まだ納得がいったかもしれない。劣情も野心も抱かずに済んだかもしれない。


 我が魔力に叶う者在らず。
 魔導力学の最高学府を抱き、多くの魔導師を輩出してきたこの帝国にあって、帝国軍魔導師団の長であれば亜人供を除いては最強の名を欲しいままにして当然、表向きはそうである。
 誰もが己を敬い、恐れている。他国にもこの名前だけで影響を与えられる程に。
 それでも足りないのだ。
「さすがの師団長様も、皇子様には叶わないみたいだな」
「そりゃあ、泉の賢将=A無辺博士[Doktor-Glosbe]と呼ばれた先帝の御子だぜ、将来が楽しみというか頼もしいというか」
「いっそ魔導師団も任せるとかw?」
「いいねソレw」
 無様だ。
 許せるものか。
 圧倒的な魔力。忌まわしきその存在。
 何故帝は馬鹿正直に先帝の遺言を守ったのか。怨めしい。怨めしい。愚直なだけのあの男を据えたおかげで事は巧く運んだが、ソレで手打ちに出来る程暢気ではない。傷つけられたこの矜持、どうしてくれようかと、忠誠の底に隠して常に思う。
 密かに行ってきた研鑽も、いつ突き止められるか。簡単に掴ませはしない。ここまで築いてきた我が魔導の集大成を渡しはしない。
 だが、聡明というより底知れないあの眼が、いつ見透すのか、考えると背筋が冷たくなる。その感覚が最も恐ろしく、腹立たしい。この私が畏れを抱くなど。
 あってはならないことだ。
 亡き兄との約定に従い、陛下が御子を迎えたあの日から、私の心にはこの澱が降り積もっている。
 御子様。皇子。貴方にはこの泥の息苦しさ、知る由もないでしょう。


 先帝ヨシュアの妻は、灰翼教会の神官であり、敬虔だが質素だけが美徳と奉るしがない地方領主の娘であった。ただ魔力が高く若く美しいというだけで妃に望まれた。その結婚に愛は無かったが、結ばれた後に二人は強く惹かれ合った。という話である。
 馬鹿馬鹿しいとは思うが、事実、油断のならない先帝が、妻の前では緩んだ顔をしていたのを目にはした。生気の薄いあの娘が、花のように微笑む姿も見た。確かに、魔族共が望みそうな女ではあったとふと思い出す。
 だがそんな甘蕩けた日々は僅か2年で潰えた。
 あの時に腹子と共に滅びれば良かったものを。使えない女だ。
 もっと細工を施せば良かったのだろうか。それは愚策だ。これ以上はあの賢しい男に気取られてしまう。ヨシュアは恐ろしい男だ。
 あの日、その恐ろしい男が涙を流す姿をみた。
 鼓動の止まった身体を人為的に切り裂き、月足らずで取り出された仔、ソレが忌まわしき御子であった。
 愚かな第二皇子も、その父である尋常一様な帝も、煩わしかった先帝ヨシュアも陽光に輝く金の髪──代々そうであることが多い──であるが、その幼子は違っていた。
 あの慎ましい娘から譲られたひっそりと揺らめく黒い髪をしていた。
 陰気な小倅だ、と思ったのだ。
 未熟児とは思えぬ健勝ぶりをみせ育ちはしたが、泣き叫ぶ事の殆ど無い、大人しい赤子だったという。
 お人形さんのように愛らしいと誉めそやされたが、先帝と同じ色のあの眼が、眩いようでうすら寒く、嫌悪の対象にしかならなかった。
 母を恋しがる事もなく、激務の合間を縫って愛情を注ぐ先帝の膝で、アレは何を考えていたのだろうか。ものも言わぬ幼子が考えることなど取るに足りない。だが、あの姿が堪らなく疎ましかった。
 恐らく、あの親子が帝国の中枢でいる限り、自分が大成することはない。
 ああ、己が不憫だ。


 そんな時だった。隣国の魔力炉が暴走し、異形が漏れ出たのは。帝国内にも、我が魔導師団にも大きな被害は出たが、幸運だった。すわ世界の存亡か、という危機を止めたからでは決してない。滅亡の危機と引き換えに、先帝の膨大な魔力──生命が費やされたからだ。あっけないほど簡単に、あの男──ヨシュアはいなくなった。
 短命な者の多い一族ではあるが、若くして死した帝に国は沈んだ。だが、悼んでばかりいては列強に喰われてしまう。新たな帝を奉り維持していく必要がある。チャンスだった。そしてその機会を見事に利用し、のし上がった。
 ヨシュアの後を継いだのはその弟ニコル。戦略、魔導の才、政治手腕に於いて、申し分はなかったがこのエフタルの皇帝としては凡庸な人物だ。ただ引き継ぎ渡すだけで興すことのない王だ。まあ、思うところの多くある家臣には丁度良い存在。このまま、長生きしてくれれば良いと自分以外の者も思っていた。心地よく権力を握らせておけば執着する筈だと。
 だが、そうはならなかった。我の強い男ではなかったが、ニコルは一部の家臣達が考える以上に誠実だった。民衆の人気を集めるのには都合が良かったが、なんという不都合か。
 兄に託された御子を、灰翼教会の元より呼び寄せたのだ。
 両親より受け継いだ優れた魔力と聡明さを磨く為、また堅い守護のある御元にある方が、と自分達の派閥が奨めたあの清貧と古臭さに凝り固まった神の社に放り込んだというのに、帝は我が子として引き取り慈しんだ。
 そう、希望があるとすれば、下の皇子のあの暗く熱い眼差し。貴方こそ王道に相応しいと囁いて仕えた甲斐が少しはあって欲しいものだ。


「これからも、はっきり物を言って欲しい」
「何故ですか」
「帝国には、貴方のような方が必要です」
「これは面妖な。私が殿下に有利になる助言をするとでも?」
 貴方と私は対立するもの同士だと言っている。
「厳しいな。でもそれでもいい」
 頼りにしている、とクラインは言った。
「ハリストフォール。私は貴方のようになりたい」
「ご冗談を」
「陛下は時に優し過ぎる」
 それではいつか、周囲に喰われてしまう。あの眼が遠くをみている。
「弟は……ノルヴェールは酷いことをするには正直過ぎる」
 させたくない、というのが正直≠ネところか。
「クライン殿下。貴方にならお出来になると」
「多分」
「まあ、良いでしょう。気が向いたらご教授差し上げましょう」
「ありがとう」
「何故そのように私ごときに執心なさるのですか」
「何でって……チェスでコテンパンに負かされたの、お前だけだし」


 今の魔導師団長は油断のならない奴だ。彼は何か後ろ暗いことをやっている。ソレがナニかはまだわからない。分かればどうとでも出来るのに。
 本当は、どうもしたくない。彼は素晴らしいと思う。何も咎がなければこの先も魔導師団長でいて貰いたい。
 はっきり言って自分は嫌われているが、ソレでも必要な人員だ。
 だから、出来るだけ不和を起こしたくない。
 少し苦手なだけだ、いつかは、本当の主君になれる。と、思いたい。
 疲れる。こんなこと、いつまで続けなくてはいけないのだろうか。
 いつまでって、死ぬまでだ。ソレが自分の仕事だ。
 後悔や迷いはない。ただ時々疲れるだけだ。大丈夫、少し休めばまたやれる。頑丈なだけが取り柄だ。
 もしも、ノルが、と考える事がある。そう、弟の方が政治に向いているし。でも、辛いかもしれない。まだ、父は元気だ。いつか相談してみよう。
 先の事は、先の事。
 なのに、最近ソレばかり考えている自分がいる。
 多分、俺たちはこのまま流されて、俺は陛下の後を継ぐ。
 重圧はあるが、不満はない。期待に応えなければ。
 父が死ぬわけでなし、ノルがいて、アミが手を握っててくれれば、大丈夫な筈だ。
 アミはかわいいし、守ってあげたい。でもあいつの矜持はソレを許さない。多分俺の方が守られそう。でもソレもいいかも。そして、国と一緒に、彼女も護る。
 俺の妻だからだ。
 家族になれるのに、思ったほど嬉しくない。
 父と弟に触れた時はあんなに暖かかったのに。何なんだ。俺は何に引っ掛かっているんだろう。俺はアミを特別な女の子だと思っている。それなのに、なんだ。
 この期に及んで結婚に躊躇いでもあるというのか。
 確かに、ノルはアミに気があるっぽかったけど、ソレじゃない。
 もしかして、深層心理のどこかで政略結婚に反発でもしてるんだろうか。ソレならソレで、結構な事だ。俺にもロマンチストっていうか、人間らしい所があるって思えるし。
 まあソレでいいか。


 空間ごと切り裂くのはとても疲れる。
 息が上がってしまって、副官に肩を貸して貰った。
 この頃、人為的な形跡のある異形が多い。
 早く報告を済ませて、眠りたい。
「兄上、よくご無事で」
 ノルヴェールが飛び込みそうな勢いでやってきた。
「……ご気分が優れないのですか?」
「大丈夫」


「撫でてはくれないのですか?」
「え」
 少し固まって、二秒してクラインは笑い出した。儚い笑顔だ。
「撫でるって、ノルはもう私の背を追い越してしまったし」
 子供ではないし、と遠慮がちに手をのばす。
 あんな異形を屠って来たとは思えないたおやかな手は、いつもと変わらない。
「なに」
「大きくなったでしょう」
「……そうだな」
「兄上は、また少し痩せましたね」
「そうかな」
「そうですよ」
 こんな間近にあっても動じない瞳に告げる。
「貴方には休息が必要です」
 ご無理なさらないように、ともう一度抱き締める。


 閉じたドアの向こうの惨劇を見られなかったのは残念だ。あの人の動揺する仕草は、どれ程甘美だっただろうか。


 帝とその側近を、召喚した異形で殺し尽くした咎で、第一皇子クラインは幽閉された。


 疲れ果てて前後不覚だった自分の落ち度だ。何度悔やんでも、悔やみ切れない。
 目隠しに部屋中に張り巡らされた法陣と声を奪う為の戒め。魔導への警戒だ。因みに手足も微妙に自由にならない。


「兄上、気分はいかがですか」
 楽しそうに告げて喉元に触れる。
「失礼、この無粋な首輪を外して差し上げなければ」
「ノ……ル」
 お前が、無事で良かった、かすれた声でささやくクラインを突き飛ばす。
「まだわからないのですか兄上」
 目隠しを剥ぎ取り、胸ぐらを掴む。
「どうして……」
 愉悦。この場に相応しくない弟の表情に、何かを悟って呟く。
「欲しいからですよ」
 真剣な表情で、ベッドへ押さえ込む、うっすらと恐怖も滲ませて、それでもノルヴェールは凄惨に微笑んだ。
「……恐ろしい人ですね貴方は」
 息を上げながら告げる。
「この状態で私を殺そうとするなんて」
「俺はお前が恐ろしいよ」
 どこか投げやりな皮肉に、嘲りを返す。
「歯牙にも掛けていないくせによく言えますね」
 悔しさを枕にぶつける。抜刀して切り裂く。
「どこまで私を小馬鹿にすれば気が済むのですか!」
 舞い散る羽毛は、千切り取った羽根に見える。
「そんなつもりは……」
「……ないでしょう。わかっています。私は貴方の弟でしかない」
 他の何があるというのか、とでも言いたそうなそぶりでクラインがノルヴェールを見る。
「質問に答えましょう」


「帝国が欲しいのですよ」
 王になりたかった、とノルヴェールは言った。
「だからずっと貴方が邪魔でした。貴方さえいなければ、父を手に掛ける必要など無かったというのに」
「……っ! お前」
「初めてですね。貴方がそんな顔を私に向けるのは」
 慎重に、手を離して、そしてクラインの頬を撫でる。
 とても、嫌な感触だった。ノルの手は、こんなに熱かっただろうか。
「月並みですが、怒った顔も魅力的ですよ」
「ふざけるなっ!」
 起き上がろうとしたところを押さえ付ける。
「もう観念なさって下さい」
「!?」
 熱いような、冷たいような、恐怖を感じる。
 不快だった。
「ん……っ……」
 息苦しい。でも、身体に上手く力が入らない。
 朦朧としたところで解放される。
 重ねていた唇を今度は耳元に這わせて、ノルヴェールは告げる。
「言ったでしょう。欲しいと」
 嫌悪としらない感覚に震えてしまう。
「貴方は私のものです」
 もう一度、唇を重ね、押し開く。隙無く肌を覆った詰襟の留め具を外す。
 弟と心を許して無防備に着替えなどしていたが、どれ程理性が飛びそうになったか。この人は今も何も分かっていない。
 わからせてやりたい。なにもかも。
「クライン」
 何を想っていたか、知るといい。その肌に刻んでやる。
「っ……!」
 頬と、みぞおちが酷く痛んだ。
「こ……の、不埒者……!」
 はだけそうだった上着を握り締めて、クラインは震える声で言った。
「……私が」
 一歩近付くと、突き刺しそうな視線で、壁に寄る。
「おぞましいですか、兄上」
 快感だった。自分の言葉に、あの強い人が、酷く傷ついた顔をして、戸惑っている。
 こうなってさえ、まだ弟の自分を慮っている。優しく、美しい人だ。
 だから、残念だった。
 惜しいが、仕方ない。
「今宵はこれで」
 剣を拾い、鞘に収める。
「時間切れまで、夜毎愛でて差し上げます」

 (1stup→200520wed)


Story? 02(小話一覧)へもどる
トップへもどる