恋の足音 since 2011.11.05 ※TOPへ戻る際は←のサイト名をクリックして下さい。


暖房なしではいられなくなったある冬の朝。その日の時間割を再確認していたトキヤは背後であがった、いて、と言う事に振り返る。
声の主は当然だが同室である一十木音也で、ベッドから起き出した状態のまま珍しくしかめっつらをして自らの唇に触れていた。
恐る恐る、といったような触り方に違和感を感じてトキヤが近づくと唇からうっすら血が滲み出ている。

「ああ、唇が割れたんですね」
「うん…あくびしたらプチって」
わざわざ見やすいように顔を上向かせた音也の下唇の中心が縦にすぱっと割れていた。
その周りの皮膚も冬の空気に負けてがさがさになってささくれ立っている。
下唇を内側に巻き込んで唾液でふやかし始めた音也を咎めるように軽く叩く。

「って!」
「舐めて濡らしてもその場しのぎにしかなりませんよ」
「分かってるけどさー」
なおも舐め続ける音也に大げさに溜息を吐いて、トキヤは自分の机へと足を向ける。
備品がしまってある引き出しから真新しいリップクリームを1本取り出し、音也へと手渡した。
「ん?塗れって?」
そうです、と返されてお礼を言いつつリップクリームのふたを開いた音也の手が止まる。
まだ角が立ったままの新品だ。一度も使った形跡が無い。

「ねぇ、これ新しいよ」
「ええ。差し上げますよ」
ふたを閉めて返そうとした音也の手がやんわりと押し返される。
トキヤの性格上、お気に入りのメーカーのリップクリームを何本か予備に持っているとは思ったが
一度も使っていない新品をもらうのは音也でも気が引けた。
リップクリームとトキヤを交互に見て、どうしたものかと音也は黙る。
「トキヤは今日使ったの?」
「まだですね。昨夜寝る前に塗ったのが最後です」
「それどこ?」
「鞄のポケットに入っていますが…どうしたんです」

不思議そうに首をかしげながら、トキヤが使いかけのリップクリームを取り出す。
促されるままそれを音也に渡すと、代わりに新品のリップクリームが手渡された。
「なんか悪いし、こっちもらうよ」
そう言うなり、トキヤが止める間も無くリップクリームをがさがさの唇に塗りたくる。
自分が使っていた時よりもさらに丸く削られていくリップクリームを見つめながら、止めようと差し出した手を引っ込ませた。

歯を磨いた後、食事の後、寝る前。日に何度も己の唇をなぞっていたものが今は音也の唇をなぞっている。
気にするほうがおかしい、とトキヤは必死に頭の中の考えを振り払う。
音也が使ったものをまた自分が使うのであれば、こういうものは共有できないからと突っぱねることも出来たが
リップクリームをあげると言ったのは自分であり、今使われているものは再び自分の唇に触れる事は無い。
そう理解していても、自分の唇が音也と重なっているような錯覚は消えなかった。

音也がクリームをなじませるように唇を擦り合わせているのを見て、無意識に真似をしてしまった瞬間、ばちりと目が合う。
ひゅっと息を吸い込んで、思わず一歩後ずさる。
自分の顔は今赤いだろうか?それとも青いだろうか?体の血液がどこに集まってるかを探す余裕は無かった。
音也はそんなトキヤを見て何を思ったのか、何も言わずにベッドから這い出し床に立つ。

「トキヤ、唇突き出して」
言いながら音也が見本のように唇を突き出す。つられて控えめに突き出すと、顎を固定されてトキヤはぎょっと目を見開いた。
ぬる、と唇に触れたのが音也に渡したリップクリームだと気付くまで数秒。
じんわりと赤く染まっていくトキヤの様子に驚きもせず、音也は楽しそうに唇をなぞる。
「はい、おしまい」
霞み始めた思考が弾むような声で一気に晴れ、トキヤは冷静を装ってありがとうございます、とお礼を言った。

何を思っているのか、音也は嬉しそうににこにこと笑っている。その奥に少し意地の悪い光を見て、トキヤの唇がひくりと動く。
「妹たちがお化粧ごっこしてるの見て何が楽しいのか分かんなかったけど、こーゆーの何か良いね」
「…私は女性ではありませんし、これは化粧ではありませんよ」
突拍子も無い音也の発言に、トキヤが不穏な空気を漂わせながら反論する。
そんなトキヤの様子には慣れきっている音也は少しも怯まず、笑顔も消えない。

「俺が使ったのをトキヤに塗ってるのが楽しいから良いの!」
ぱっと花が咲き誇ったような笑顔で述べる音也に湧き上がった怒りは一瞬でへなへなと萎えてしまう。
分かっててやっていたのか、とせめてそれだけども確認したいがトキヤはすっかり気力を奪われてしまった。
きっと唇をリップクリームでなぞられている間も頬を染めて素直に受け入れる自分を見て楽しんでいたんだろう。
音也に悪気は無い。それは今まで一番近くで生活してきた自分が一番良く分かっている。
それが一番性質が悪いという事も。

その証拠に当の音也はすでにけろっとした様子で時間が無いと言いながらジャージをベッドに脱ぎ捨てている。
つい数秒前まで自分を振り回しておいてこれだ。
ばさばさと制服が引っ張り出される音、がさがさと教科書が乱暴に詰め込まれる音。
音也のトレードマークでもあるヘッドホンがかちゃりと音を立てた瞬間、トキヤは我に返った。

「時間!!」
「ぎりぎりだよ」
「音也、準備は、…終わってますね!行きますよ!」
「はいはーい」
部屋の時計が指し示すのは8時半。朝のHRは8時45分から。
異様に広い早乙女学園の敷地内はいくら学生寮と校舎が近いとは言え全速力で走って3分ほど。息が上がらない程度に歩いて8分ほど。
どちらにしろ普段のトキヤからは想像もつかない選択だ。
そうこうしているうちに音也は走る準備か軽いストレッチまで始めている。
行くよ、目配せされた次の瞬間には音也はもう飛び出していた。
弾かれたようにトキヤも飛び出して、施錠するために慌てて立ち止まる。
その時まだトキヤは知らなかった。
翌日から広まる噂が、トキヤが遅刻したというものではなく
トキヤが音也に私物を使わせている、二人はただならぬ関係であるという噂だと。
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冬は狂ったようにメンソレータムを塗りたくらないと唇が毎日生まれ変わるんじゃ?ってくらい皮が剥けるので音トキで自分を潤そうとした結果がこれ。