没落は華の如く

 窓の向こうに海を一望する。風と波の戯れる音が不快だった。 湿った空気が、今の自分にはかなりの悪影響を及ぼす。 身体の腐食する音すら海鳴りに混じって聞こえてきそうだ。
 闇の落ちたがらんと広い部屋には、大きな窓から差し込む月明かりしかない。 床に壁に黒々と人影がふたつ。嫌な静けさだ。獣の息遣いや木々のざわめきだけが 聞こえていた森の中ならまだよかった。この、海の音だけは、がまんができない。
「生前は、考えたこともなかったんですけれど、」
 静寂に眉をひそめているうちに、いつのまにか自分の口がことばを紡いでいた。 自分から彼に話しかけることなんて、用事も無ければもうありえないことのはずだった。 昔は、なにかと理由をつけて彼と話をしようとしたこともあったけれど。昔の話だ。 もう戻れない遠い昔の。
 窓枠に腰をかけ俯いていた彼が、ゆっくりと顔をあげる。途中で話を止めてもよかったが、 自分から挑んでおいて逃げ出すみたいになるのが嫌で、半ば勢いだけで先を続ける。
「今になってふと思うんです。私はあのとき、快惰天の首を落とすべきではなかった、と」
 思い付きを口にして、やはり言わなければよかった、と彼の顔を見て思った。 不可解だというように眉根を寄せた彼の、奇異なものを見る目と視線が合う。
 数瞬の沈黙の後、彼は大仰なため息を吐いて、
「ばかなことを言うな、元述郎。お前以外の誰がそれを為し得たというんだ」
 あの化け物を倒さなければ、どんなことになっていたか。たしかにあのときそれができたのは 自分だけだっただろう。だけどそれは色々な要因が重なって生み出された偶然の産物にすぎない。 様々の幸運によって勝ち得た平和を、たくさんのひとに感謝され、賞賛され、賛美された。 そのことを後悔するだなんて、生きている間には一度だって思いも寄らなかった。
 だけどそんな偶然は、幸運は、ない方がよかったと、今なら思う。
「さぁ、それはわかりません。私はあのとき快惰天に向かって殺形刀を振るわなければ、 死んでいたのでしょうから」
 無形の剣。あの極限の状況下で、はじめて己の殺気を触れれば切れる刃に変えた。 それまでに積み重ねた鍛錬の賜と、ぎりぎりまで追い詰められた状況と、自分を奮い立たせた思いの数々を、 剣の形に混ぜ合わせることが出来たのはやはり幸運だったとしか言いようがない。いや、不運か。
「こうして生き返ることもなく、あなたと共に、永遠に」
 想像すると、それはとても甘美な夢のように思えた。 偽物の生を与えられてからは、眠ることもできなければ夢を見る事もない。 だからいつも、後悔ばかりしている。過去のことばかりが頭を巡る。まるで今際の際の走馬灯のように。
「冗談じゃねぇよ、あんなとこでくたばってたまるか、てめぇなんかと」
 少し怒ったように彼は言うけれど、そんなことはかの戦争が終わった今だから言えることだ。 あのとき、本当にその状況になっていたらきっと、私は、私たちは、 今より少しだけマシな幸福に浸れたのだろうから。

 これは恐らく一度死んだ自分でなければわからない感覚なのだろう。元述自身生きている頃は 考えもしなかった。生きて幸福になりたいと願っていた。生きて、彼と共にありたいと。
 その願いがもう叶うことはないのだと知っていたら自分は、あのとき快惰天に向かっていけたのか わからない。あのとき最後に力をふりしぼることができたのは紛れもなく彼のためだ。 彼が望んだから、彼と同じ未来を見たかったから、私は―――。

 その後に見たのは絶望だけだった。彼がいなくなったことも、国が滅びたことも、 憎むべき人間に魂を売ったことも。暗く深い絶望だけだった。

「それがお前の未練なのか」
 死にきれないのはそのせいか、と彼が問う。馬鹿げた質問だった。 今の元述が形ばかり生きているのは、己の意思ではありえない。彼とてそのことはよくわかっているはずだ。
「悔やんでも悔やみきれません。こうなるとわかっていたら、あんなことはしなかった」
 死ぬことも生きることも出来ずにこの世を彷徨う亡霊になるとわかっていたら。
 国を滅ぼした諸悪の根源に身をゆだねることになると知っていたら。
 彼が、自分の前から去ってしまうことが避けられないと決まっているのだったら。
「それによって世界が滅んでもか」
 世界なんてどうでもいい。
「だって、結局、国は滅びたじゃないですか。私のやったことは無駄だったんです。 守りたかったものはなにひとつこの手に残らなかった」
 あのときあの場所で、たしかに手にしたと思ったものさえ、幻のように消え去って。 そのことを思い知らされたときに自分は、もう後悔し始めていたのだろう。 生きている間は気付かないようにしていたけれど。 自分のしあわせはあのときに快惰天の首と共に地に転がり落ちたのだ。
「だが魔獣の手で死ぬ人間は減ったんだ」
 たくさんの犠牲の上に築いた平和は、泡沫よりも儚く、仮初の夢にさえ足りず、もろく崩れ去った。
「文秀将軍、私の世界は、それほど広くないんですよ」
 祖国がすべてだったあの頃には、わからなかったけれど。私の世界はもっと狭い。ほしいものはたったひとつだった。 そのことに気付けていたならあるいは、甘い夢を見ていられたのかもしれない。