螺旋の奏でる音楽
「あの方は、……元述殿は不思議な方ですね。でも、少しもろいところがおありのようだ」
久しぶりの酒精に煽られたのか、少し青い顔をした元述が席を立ったところだった。
元述の倍ほど飲んでいた阿志泰は対照的な涼しい表情で、彼の背中を見送りながらぼそりと呟く。無礼講だと騒がしい宴席で、すぐ隣にいた文秀にだけ聞こえる音量の、愚痴とも非難ともつかない独白のような呟き。
元述の姿も扉の向こうに消え、阿志泰の視線がこちらに戻ってくる。目を合わせて同意を求めるように微笑まれ、文秀は困惑する。なんと答えても、どこかで角が立つ気がした。
文秀にはよくわからないが、阿志泰も元述も、お互いに思うところがあるらしかった。部下たちの手前、上司たる文秀の手前、表立っていがみ合ったりはしないが、そこはかとなく、仲が悪い。
「ああ、そうだな。でも、奇跡というやつが起こせるなら、きっとああいう奴なんだろうよ」
神に愛された人間というのは、きっと彼のようなもののことを言うのだろうと思う。
彼の純粋や忠誠からくる恐ろしいまでの真摯さ真っ直ぐさ、融通の利かない頑ななところもあるが、それもまた不器用なまでの献身だと思えば得がたい人格だった。
きれいなものだけを集めて作られたような残酷。自らをなげうって、自分が存在しないくらいに他人のために尽くすその態度が、いっそ信仰にも似ていて。
彼の愛するものがまた神であったならよかったのに、生憎とその対象は人間だった。
「忠誠を捧げるのが王ではなく、自軍の将というのに問題はないのですか?」
阿志泰が眉間にしわを寄せて尋ねる。彼には元述の、その態度が鼻につくらしかった。たしかに阿志泰は、己の上司である文秀を過小評価もしなければ過大評価もしない、現実的で理性的な視点をもっている。彼には元述の信仰を理解することは、この先もずっとできないだろう。
「かまわんだろう。奴は軍人なんだしな」
死地へ赴くものとして、こころに支えがあるのは多分いいことだ。ぎりぎりで、這い上がれる力になる。そうでなければ死ぬのだから。
「そういうものですか」
諦め加減に阿志泰がため息を吐いた。なんて不器用なのだと、聡明な策士は呆れ果てる。阿志泰の明け透けではっきりと理路整然とした性格を、文秀は嫌いではなかった。
わかりやすいのは彼のうちにしっかりと一本通った芯があるからで、だからといって単純ではなく、堅牢なる論理の檻をこしらえ武装することもできる。戦場を駆ける兵士たちのように身軽ではないけれど、それを補って余りある知恵が阿志泰にはあり、参謀としては文句のつけようのない人材だ。
「お前は駄目だぞ。軍人じゃないからな」
「はぁ、将軍ご自身から言われるのもまた複雑なものがありますね」
からりと笑った文秀の揶揄を受け流し、阿志泰は肩を竦める。戦場に従っていようとも、阿志泰はあくまで解慕漱に仕える文官の立場であった。それを彼が煩わしく思っているのか、それとも幸運だと思っているのかは知れないが、少なくとも軍人になりたいと願っている風はない。
「戦場で死にたいと言うなら、話は別だがな」
戦いに参加した兵達の多くは、帰る場所を思い出す暇もなく戦渦に身を投じて失われていく。この戦場が死に場所だという覚悟や諦念が常にある。だからこそ、同じ場所で直接自分たちを率いている軍人に強く依存するし、またすることを許されているのだ。
お前にその覚悟がもてるのならば許そう。
問うた文秀が見据える透明な硝子の向こうの双眸は、凛として己の使命を揺るぎないものにする。
「それは遠慮したいですね。私は、国の行く末が見たいが為に、こうして戦争に加わっていますので」
そして阿志泰のこういう割り切ったところが、元述が阿志泰を是としない最大の理由でもあるのだろう。
阿志泰という男の最大の武器はこの折れない信念だろうと思う。どんな相手に揺さぶられようとも己を貫き通す頑なさは、いっそ元述の信仰心に似ていなくもない。描き出す答えが正反対でも、答えを導く過程の情動はきれいな同調をみせるのだ。
「そういう奴も必要なんだよ。もちろん、元述みたいな人間もな」
結局、同属嫌悪のようなものなのだろう。元述も阿志泰も、お互いの中に自分と同じ動きを感じながら、自分とはまったく別の生き方をするお互いが、不気味で仕方ないのだ。
「あの方と私が延々相容れないのはそのためでしょうか?」
空になった杯にすかさず阿志泰が酒を注ぐ。平行に保たれた杯になみなみと表面が浮き上がるほどに液体が蓄えられた。手も動かせないほど注いだのは、酔った振りをした嫌がらせだろうか。仕方なく頭の方を動かして分量を減らし、傍らの阿志泰を睨みつける。
「ちったあ仲良くしろよ、お前ら。周りになんて言われてるか知ってるか?」
言っても無駄だと知りながら、文秀は大げさに肩を竦めてぼやく。軍内部ではまことしやかに囁かれる噂の張本人たちは、元来周囲の目を気にする性質ではない文秀ですら、図太さに目を瞠るものがあった。片方は噂されていることにすら気付いていないのかもしれないが、事情通の阿志泰が知らないはずはない。
「将軍のご寵愛を巡って修羅場だとか」
他人事のように伝聞そのままを口にする阿志泰に、悪びれた様子はない。阿志泰は他人の機微には聡い奴だったが、得た情報を客観的に扱うのにばかり長け、共感するとか理解を示すとか、他人に寄り添う仕方は恐ろしく下手だった。軍事の参謀としては、感情に流されず戦局を読み作戦を立てられることは、誉めてしかるべきかもしれないが。
「知ってんなら自重してくれよ……ただでさえ元老院のジジイどもには俺が軍にハーレム作ってると思われてんだから」
間違っても男をはべらせて嬉しがる趣味はないというのに、たまたま顔のきれいなのが隊長格にそろっていたせいで、あまり名誉ではない濡れ衣を着せられることになってしまった。年若い元述も、出自に一癖ある元暁のときも揉めたが、特に阿志泰は城下で文秀が見初め強引に押し上げた人材で、適当な官位をくれてやるのには随分と権力の有効利用をしたものだから、殊更不興を買っている。
「それは、自重なさるのは将軍なのでは?」
まるで可憐な少女のように稚く無邪気に笑ってみせる阿志泰の、わざとらしいほどの仕草に、さすがの文秀も今度こそ頭を抱えたい気分になった。
「言ってくれるぜ……」
阿志泰の見た目からは計れない気の強さも傍若無人さも気に入ってはいたが、元述の何億分の一でもいいからしおらしくなってくれないだろうかと、おおよそありえない変質を願うのだった。