遠く波間に歪むまで
随分樹木が多いんだな、とさしたる興味もなしに呟いたのは、腹の探りあいにも疲れてきた頃合だった。
「さて、我が家の庭はときおり整えていただいているので、私はあまり造園にはこだわらないのですよ」
煎れ直したお茶をひとくち含み、喉を整えてから、日本が淡々と応える。視線の先は開け放たれた縁側から臨む彼の庭園で、客であるイギリスの方をちらりとも見ない。それで本当に外交をする気があるのかと、問い詰めるのも馬鹿らしい。当のイリギスの方には、真っ当な外交をする気がないからだ。日本がそのことに気付いていようがいまいが、どの道結果は同じだろう。
「お前の言う園芸屋ってのはあれか?」
本音を言えば、イギリスがさきほどから熱心に見ていたのは、あまりに自然に整いすぎた木々や草花ではなく、そこにはさみをいれている異形の御仁についてだった。
そしてイギリスが知りたかったのは、そのもののことを、彼が見えているのか、この一点につきる。
国がその身に住まうものたちについて、存在を認識していないのはままあることだった。
時代の移り変わりとともにその例も多くなり、いつか自分の番がくるのではないかと、イギリスはひっそり恐々としていた。
「この国のものたちは、誰も熱心にお前に尽くしているな」
国として、前時代的な在り方だ、とイギリスには見えた。しかしその様子が、この国ではあまりに自然のことのように振舞われるので、やはり洋の東西を別たれている隔たりは大きいのだと実感する。
「それが国の役割ですから」
矜持とも諦念ともつかぬ無音低のことばはいつも、彼の本心を煙に巻く。それが国の在り方だと彼が、彼こそが嘯くのなら、東の海がどこも暗く静まり返っているのも道理だろう。
「この国ではお前が神なのか」
神、という概念がこの国にあるとしてだ。恐らくそれはイギリスの知るものとは別種の存在のはずだ。神なのか、と問われた男は、やはり感情をのせない青面で、ゆらりと首肯する。
「ええ、そうですね、そうなのでしょう。この国ではなんでも、百年生きれば神になるんですよ」
言い訳のように綴られたことばが、彼の戸惑いを表しているのかもしれない。けれどその意図を伝えたいのなら、せめて目を見て話せとイギリスは思う。思うに留める。見詰め合うのはきっと、自分たちの間にはまだ早い。目を見てさえわかり合うことがないのだと知るのはきっと、早すぎる。
「それでは神があふれすぎて困るだろう」
唯一のものですら大きな諍いを呼ぶのだから、それが寄り集まった場合の災禍など想像もしたくない。いや、かえってそれが災いを小さく別けるのだろうか。それならばこの国の平穏にも納得がいく。あまりに原始的だと睥睨してばかりでは目も眩んで本質が見えないのはいつものことだ。
「そういうものですから、そこの桜も、あちらの桂も、百をとおに過ごしていますから、神ですよ」
日本の紹介にあわせ、ひらと枝葉に紛れてなよやかな腕が風に舞った。
「だからこの国は始終うるさいのか」
いつだってどこでだってひそんだなにものかが闇から闇へと言霊を投げ合っている。
すべて見え、聞こえてしまうイギリスにとってはうるさい限りだった。
「あら、それはきっとお客様が珍しいのでしょうね。彼らは光るものやきれいなものには目がないんですよ」
少しばかり頬を緩めたって、誉められているとは思わない。この国が当たり前の存在で居られるのは、この狭い国の中だけなのだ。世界は広い。広大な世界の中では、この国の方こそが珍しいものになる。
「俺は奇石かなにかか」
見えているのか、いないのか、それを隠そうとしているのか否か、日本は思考を感情を読ませないための笑みを浮かべている。そんな小手先の腹芸ばかりは舌を巻くほどに達者だが、中身は空っぽ。あまりの空虚さに慄いて、ありもしない幻影を恐れているのだと、イギリスの中のものたちは口々に囃し立てている。
「似たようなものです」
すべらかな石やきらめく羽を蒐集する野鳥のように、闇の狭間ひそひそと交わされる好奇の視線がイギリスにまとわりついて離れない。その癖、遠巻きに見るばかりで近づいてこようともしない。欲の無いことだ。
「東洋はみなこんなものなのか」
珍しいものに興味はあっても、手を伸ばそうとも掠め取ろうともしてこない、臆病な、あるいは無欲な、そして恐らくそれ以上に排他的なものものたち。それらを統べる彼が、己を殺して本心をひた隠しに隠しているのは、この国の中でならば至極当然と断じるべきなのか。
「……さて、私はこの国を出なくなって久しいです。海の向こうが西と東に別れているなどとも、ついぞ存じ上げませんよ」
隣の大陸には、なにかおおきなものがうごめいている。その正体がわからなくば、手を出そうにもおいそれと出せない。イギリスにとってはこのちっぽけな国を征服するよりも、かの大陸の情報を得る事の方が肝要だった。実際にその方向での命も、本国からは受けている。それを見透かしてののらりくらりとした対応であるならば、少しは骨のある食えない存在とも考えられようか。
「よくいう。その割には地図や海図なんか、好きじゃないかお前」
だがどうして、この国の解し難い存在が、頭の片隅にこびりつき、こころの奥底の琴線を揺らすのだ。
「知らない土地のことを想像するのは好きですよ。でも私ね、その国が本当はなくとも、全然困らないんです」
「なるほど、実際海に出るのでもなければ、そこに土地があろうがなかろうが困らないな」
「あんな紙切れをたよりに海を渡る方がいらっしゃるとは、感服いたしますよ」
海図ばかりではなく羅針盤やコンパスや天文学など、必須のものはたくさんあったが、からからと笑う日本にそれを説くのは無粋に思えた。せいぜい身の内に留まって何物にも染まらず世間知らずでいればいい。機が熟したならすぐにでも、本性を隠す曖昧さも外圧を受け流す柔軟性も無知の成せる純粋も、この手が残らず崩して奪って絞りつくしてしまうのだから。
「あれ、いけませんよ」
とたとたと庭に面した縁側を小さな毛玉が横切る。ちらちらと好奇を抑えられないかのようにこちらを伺うのはこの国のすべてのものと同じだが、やはりそれもまたイギリスに近寄ってこようとはしなかった。
「すみませんね。普段はとても賢い子なのですが」
日本が客の手前であることをたしなめると、従順な獣はそろそろと障子の向こうに姿を消す。容姿ばかりはそのあたりを駆け回っている犬と見分けもつかないが、中身がどうにもただの犬風情の気配を収めていなくていけない。
「あれはまだ百を生きてないのか」
しかしイギリスの前で日本が化生の者に声をかけたのははじめてだったので、彼が完全に姿を消すまでよちよちとした足取りを見送った。
「え、……ええ、ぽちくんは犬ですから」
「犬は神にはなれないのか」
「いえ、そういうこともないですよ?」
噛み合わない会話をしていると雰囲気でわかる。それが手管なのか本心なのかがわからない。イギリスは伏せた視界に入ったお茶を引き寄せる。持ち手のないカップに僅か戸惑ったが、扱いは日本の所作を見ていたので心得た。本国で飲むお茶とは違った渋みと苦味が喉に貼りつく。色もいかにも茶葉を煮出したと主張する、いかにもあかぬけない、素朴なと言い換えてもいいが。
「そうか」
あれが、あれらが本当に見えているのならば、少しは手加減してやらなくもないのだが。
「イギリスさんは犬がお好きですか」
「いや、そうでもない」
会話の端緒を摘み取りつつ、空になった茶碗を脚の短いテーブルに置く。いささか焦った風に、日本が次を注いだ。なんだ? 毒でも盛ったか? いや、そんなものが利かないのは彼とてよく知っているはずだ。
「……そうですか」
イギリスの感傷など何処吹く風で茫洋と佇んでいる日本を波立たせるには、いったいどれだけの風が吹き荒れればよいのだろうか、と当ての無い算段をしばしの手遊びにするのだった。