果無くも永久に
「では、おやすみなさい」
板についた感のある笑みをはりつけて、襖を引こうと手をかけた日本を、ほんの少し上擦った、戸惑い気味の声が引きとめた。
「に、ニホン!」
声の主は、両国の交友を深めるという名目の下に訪日した、現在最も親しくしていると言って過言ではない金髪碧眼の異邦人。
同盟国たるイギリス本人がやって来るとは聞いていたが、日本の知らぬ間に話が勝手な方向へ進行していたらしく、気がついたら賓客の世話を一手に任されていた。
国のことは国同士、というのはわからなくもないが、なんの相談もなかったあたり、厄介ごとを押し付けられたのだろうかと勘繰ってしまう。
「はい?」
まだなにか注文があったのかと振り返れば、常から居丈高な彼らしくなく視線をそらされた。
どことなく頬が赤く染まっているのは室内灯のせいばかりではないように見える。こういうとき異人さんはわかりやすくて不便でしょうね、と感情を隠すことが大前提の日本は思った。
「……」
どうにも言い出しにくい様子のイギリスに、これは話の内容を聞くのにしばらく時間がかかりそうだと踏んで、日本は返しかけていた踵をもとに戻す。相手は(行儀悪く布団の上に)座っているのだから、目線が高くては無礼であろうと膝を折った。
「どうかされましたか?」
文化の差というか、開国したばかりのころよりは西洋のものも増えたが、いまだ彼らとの間に感じる間隙は大きい。
すべてを合わせるとは言えないが、自分が譲れる部分であるならある程度妥協していこうと決めて、それなり努力も惜しまないつもりできた。
気にかかることがあるならとりあえず話は聞くが、その差異をどう埋めていくかはこちらの言い分も認めてほしいところだった。この作業は思ったより骨が折れるものではあるが、避けて通れる類のものでもないと認識している。
「いや、あのな」
ちらりとさまよった翡翠の双眸が、目が合うなりあわててそらされる。
視線を合わせるのがあちらの文化だと思って、必死で合わせようとしているのに。
こちらがそらせば、目を見て話せといちいち不機嫌になる癖に。
面倒くさいひとだなぁと思いつつため息を吐くような真似はしなかったが、代わりに少し肩の力を抜いてしまったのでそれまで気を張っていた姿勢がほんの僅か崩れた。
こちらからはなにも言いようがなく、イギリスのことばを待っていると、彼は夜着にと貸した浴衣の袖を握りこみながらそわそわしている。
残念ながら日本は千里眼ではないので、彼がなにを求めているのかはまったくわからないし、察せられない。
これが論理的な説明がつく現象であれば、先を読むのも不得手ではないが。
「もう少し話さないか?」
らしくなく。逡巡した彼がつむいだのはそんな一言だった。
なにを言っているんだろうか。話があるならさっさと言えばいいのに。
自分の意見を主張することが重くみられる彼等のこと、遠慮などする性質でないことくらいはもう知っている。
「はぁ」
日本が気の抜けた返事をすると、
「昼はあちこち案内してもらってばかりで、いや、それが嫌だったとかじゃないんだ! それはそれで楽しかったし有意義だった! けど、その、お前と、いろいろ話したりしたい、と、思って」
言い訳めいたことばを並べ立てながらどんどんしどろもどろになっていく様子にぽかんとなる。意外な一面を見たというか、それほど彼という国柄を知っているわけでもないんだと反省したというか。
「…………」
もともと交流目的ではるばる海を越えて来られたのだし、彼の言っていることは一理ある。
せっかく同盟まで結んだのだ、今までのように勝手な思い込みでお互いをわかったつもりでいるより、きちんと相手のことを知った上で向かい合いたいと。しかし。
「だ、ダメか?」
日本の沈黙をどうとったのか、イギリスはきゅっと眉根を寄せる。
常から堂々としたひとが、こんな顔もするのかと興味深く思う。思うのだが。
「いえ。うれしいです。あなたに興味をもっていただけて」
なんて。完全に社交辞令な受け答えをしてしまったが、正直エンリョしたかった。
つい先頃まで他国と繋がりを絶って引きこもっていただけに、外交上の駆け引きなどする必要がなかったので、その種の手管がまったくといってない。
そんな状態で彼と話をするのは、とんでもない失態をおかしてしまいそうで恐ろしくもある。
そして政策や戦略といった事由以上に、あまり自分のことを話すのは好きではないのだ。性格的に。
秘密主義だとか外面ばかりだとか、それがよく思われていないことは重々承知で、だがやはり苦手なものは苦手だ。
だいたい、どこまで見せて良いのかまだ計りきれてもいないのに、それは時機尚早ではないのかと、これは言い訳なのだろうか、それとも無意識の防衛線か。
「そうか」
形式的な返答と作った笑顔が功を奏したのか、それとも相手に見抜くだけの余裕がなかったのか、イギリスはそれは嬉しそうにはにかんで見せるので、よくないことに幾何かの罪悪感が芽生えてしまった。
それを見越しての演技だというなら完全に白旗を振るしかない。
公務中の彼は一部の隙もなく恐ろしいほどにこちらの本音を読み分けてくれるから、そんな計算もなくはないのではと疑ってしまう。
大英帝国と呼ばれ、七つの海を制し、現状世界の中でもっとも強い力と名を持つ彼が、こうして日本と一緒にいること自体、その戦略のひとつにすぎないわけで。疑えば疑うほど埃しか出てこない国だった。
それなのに。
―――こういう方、なんですよね。
海賊だの強奪者だの独裁者だの。
世界中から悪し様に畏怖と憎悪の限りを尽くして罵られるイギリスと、目の前で照れ隠しに必死になりながら会話の端緒を探しているイギリスが、どうにも上手く重ならない。
日本の前にいるのは、はじめて友達の家に泊めてもらって、浮かれて眠れなくなってる少年というにはちょっととうがたった青年だ。
実に純朴で、すこし捻くれた物言いをするが、慣れればその裏を読むのは造作もなく、素直だといってもいいほどで、日本もこの久しぶりにできた若い友人を、どうやら好もしく思っている。
そのすべてが演技だなどと、断じたくないほどに。
「私もあなたのことをもっと知りたいと思っていました」
これは本心。物欲には乏しくとも、知識や学識に関しては貪欲な方だと自覚している。己よりも余程文明の進んだ諸外国からもたらされる文化や技術は、どれも日本の興味を狂おしくかきたてた。
それが、彼という国自身に対する純粋な興味なのかと聞かれれば、答えに窮してしまうのだが。
「ニホン、俺たち、いい友達になれるよな」
屈託なく気持ちを差し出されると臆してしまうのは多分そんな理由と事情だ。
無闇に矢鱈にその初々しくもある微笑の裏を勘繰りたくなるのと根は一緒、警戒と保身の成れの果て。
日本がイギリスを必要としている程には、イギリスが日本を必要としているとは思えない。
そろりと差し出された白い手を前に小さく息を飲む。
(わたしはこの手をとってもいいのだろうか?)
許されることなのかといった禁忌を破る罪悪感では微塵もなかった。
胸を占めるのは、この手が本当に自分にとって僥倖をもたらすのかという算段だけ。
裏切られることを恐れて、眼も耳もかたく閉ざしていた安寧の時代は果無くもすでに遠く去ってしまった。
「ニホン……」
ちらりと目線を上げ、手指から腕を辿りその手の持ち主の表情を伺い見る。
昼の光の下で見た不遜な笑みは影を潜めて、寄せられた眉根がいっそ苦しげで、ただ瞳だけは凛として美しい。
これは、救い上げるために延べられた手ではない。
救いを求めて、縋り付くために伸ばされた腕だ。
それを払いのけられるほど、日本は世界を知ってはいない。
自分の見える範囲の、ごく狭い中で生きている。
(世界とは、こういうものなのか……)
組み合わない論理が、割に合わない計算が、日本を不安にさせた。
己が差し出せるものなどたかが知れている。
徹底的に不釣合いな同盟だと、世界中に指差されているのも知っている。
誰かと支えあう関係が最良のものとは思わない。
その手がどれだけ重いのか、一緒に沈んでみなければわかりもしないのだ。
ひとたび世界に目を向ければ、己の矮小さが嫌でも目に付く。
日本のことばに白皙の肌を染める、公の場では見せない柔らかな笑顔に、裏があることを恐れる臆病者だ。
駆け引きのなんたるかを知らない自分を陥れる罠を夢想して、彼の好意を踏みにじっている。
(ああ、どうして私を放っておいてくれなかったのか)
視線を降ろすと、変わらず伸ばされたままの手が視界にはいる。
これをこのまま見ない振りなど、己にはできない。
「ええ、そうありたいです」
不慣れに握り返した手の感触にひやりとする。
すでに仮面と化した笑みを貼りつけて相手を見遣れば、まるく瞠られた双眸と引き結ばれた唇が安堵に融けた。
鋭く胸を刺したのは、百年以上も他我に向き合わず自己愛のみで育てた卑屈さ故の嫉妬だろうか。
きれいなものを嫉ましく、疎ましく思うのは自然な感情の発露であるはずだ。
かつての自分はわかりあえないもどかしさや手をとることの面倒から目を背けて逃げだした。
現実問題としてそれが不可能になっただけだとしても、孤独の檻から引きずり出され途方に暮れていた日本の目の前に降って沸いた道標は、目を眩ませられるほどにきらびやかに過ぎたもので。
一体全体、何処へ誘う水先案内であるのか、それすら今の日本にはわからない。
それが、世界から目を背け続けてきた己の罪ならば、自分はこの手を取らなければならない。
他の選択肢など、それこそこの己のちっぽけな手が、ひとつずつ丹念に幾千もの時間をかけて、根こそぎ摘み取って来たのだから。