遥か彼方


 私が彼方と言葉を交わす僥倖に出会えたのは、奇しくも故郷である彼の地ではなく、祖国を遠く離れた西の海に浮かぶ島国でであった。遠き異国であったからこそ、私のような一介の文士が彼方に対面する機会を得たのであろうかと思えば、1年住んでも一向に慣れない霧霞む街にも幾許かの愛着が沸き出でてくる。
 背の高い異人に文字通り囲まれるようにして、見慣れた、それでいてひどく懐かしいあわい笑みを刷く彼方は、私を見つけるなりこちらにいては異彩を放つ黒のまなこをかすかに瞠らせて、はっきりと私にむかって微笑んでくださった。まるで一足飛びに故郷に帰り着いたかのような酩酊を覚え、私は地に着けた足を踏ん張りしめねばならなかった。
 穏やかな笑みでもって私が歩み寄ってくるのを待っておられる、その場所へ急ごうと心ははやるのだが、郷愁を通り越してもはや帰郷を済ませたかのような安堵と倦怠に包まれつつある私には、それはなんとも難しいことだった。それでもなんとか彼方の数歩前へと辿り着き、脱帽して会釈する。きっとこの国では手を握り合うのが相応しい場面であったかもしれないが、与え手である彼方も私の意向を汲み取ってかふわりと頭をたれる。それすらもったいない、身に余る対応だというのに、彼方は嬉しそうに話しかけてくださる。
「こんにちは。こちらに滞在中の方ですか」
「ええ、文部省から拝命仕りまして、留学へ」
「そうでしたか。それはご苦労様です」
「いえ、よい経験をさせていただいております」
 彼方の声など耳馴染むほどに聞き覚えたと思っていたが、直に空気を震わせて伝わる音は、私の記憶を塗り替えてよく響く低音であった。然もありなん、私は彼方のお声を拝聴する天佑を得たことなど、今を置いて他にない。永く彼方に住んでいた記憶が、彼の地を吹く風の音が、渡る鳥の歌が、うねる海の声が、彼方の声音を連想させていたのだろう。
「随分と、遠いところまで来てしまいましたね」
 異国の地で彼方と合間見えるという幸運に、いやそれは不運であったのかもしれないと私は思い始めていた。己の全身をめぐりめぐる熱い衝動は、もはや抑えがたく胸をいっぱいに満たしている。 彼方のこぼしたほんの少しのやりきれなさを含む微笑に、私は心のそこから共鳴した。
「私には、彼方の方が暮らし易い」
 留学の日程はまだそこそこ残っているというのに、彼方の瞳を思い出せば、たまらなく懐旧の念に囚われる。
「離れても思っていただけているのは嬉しいです」
「彼方を忘れるなどということがどうしてありましょうか」と受けかけた私を制すように、鋭く硬い響きの現地語が割り込んでくる。つられて動いた視線の先では金髪に碧眼の、見事なまでにこの地をあらわした御仁がまっすぐに彼方へと向かってきた。まさかと思いつつぼんやり見詰めていたが、ついぞ私と目が会うことはなく、彼方がこぼした名前に、
「イギリスさん」
やはりこの方がイングランド帝国卿であることを知る。
「殿下に逢うぞ。お前も来い」
 帝国卿ははっきりと英語で発話し、彼方はやんわりと日本語で受けているが、どうやらこのおふたりの間ではそれで会話が通るようだった。言語の壁がないというのは、うらやましくもあり、はなはだ恐ろしくもある。 悠久の時を生きる彼らのことを、唯人の時間を生きる我らは畏敬を込めて「バベルの一族」などとも呼んだ。もっとも我が国にこの呼称が入ってきたのは、つい近年のことではあったが。
「では、失礼しますね。どうぞお気をつけて、勉学に励んでください」
「お言葉ありがたく頂戴いたします」
 深く頭を下げる私を周囲が奇妙な目で見ているのがわかる。
 ふわりと彼方の移動する気配を察して顔を上げると、遠ざかる金と黒の影が人並みの中へ消えるところだった。 思案所から戻りしな、今の一件を見咎めたらしい友人が「重畳でしたねぇ」などとしきりに顎を擦りながら首を上下させて、私の強運を羨ましがった。
 この国には馴染めないままで随分経ったが、やはり空気が合わないのだなと私は早速彼方との約束を反故に仕掛ける。だが問題ない、彼方はどこでとははっきりおっしゃらなかったのだから。