地上の兎は嘘を吐く


ビル風がひゅうひゅうと肌をなぶる。夜空の月はおそろしいほどに青く照り、我が物顔で世界の覇権に浸っている。目の前をくるくると跳ね回る黒いコートの裾をぼんやりと目で追いかけながら、帝人はポケットの中にいれた携帯電話をもう一度強く握り締めた。今の自分にとっての唯一の存在を確かめるように、あるいは唯一の存在を逃がさないように。

「俺ね、帝人君に言ってないことがあるよ」

唐突としか言えない仕方で投げ出されたフレーズを耳が拾う。前後の脈絡なんてなかった。気ままに振舞う道化のような男は、飴やら鞭やら手を変え品を変え渋る帝人を人気のない廃ビルの屋上へまで誘って、それきりくるくると踊りだして姿の見えない相手となにがしか交信するばかりで、やっと携帯をしまったかと思えば別のポケットから別の携帯が出てきて別の交信がはじまったりで。手持ち無沙汰でいた帝人をやっと振り向いたのがその言葉だったわけで。

このひとはなにを言っているんだろう、と帝人は思う。現状はその通り、核心には触れられずに連れ出され放置されたままであったし、もちろん今の彼の台詞はそのことを直接言っているわけではないのだろうけれど。
折原臨也が知っていることのすべてを、ただの高校生である帝人に把握できるはずがない。腐ってもこのひとは関東一円に名の通った情報屋だ。実際どのくらいの範囲にその名前が通用するのかも、帝人は知らない。知らないことだらけだ。そしてすべてを知りたいなんて微塵も思っていない自分をきちんと自覚している。身の丈は知るべきなのだ。身の程は弁えるべきなのだ。特に、自分の手に負えない相手と対峙するつもりであるならば。

「……僕にも、臨也さんが知らないこと、ありますよ」
これには少し疑心暗鬼で、首をかしげながら言った。もしかしたら帝人が隠していると思っていることのほとんどを、臨也は知っているかもしれない。そんなことはあるはずがない、と半ば確信していながらも、どこかで疑ってしまう。折原臨也は帝人にとって決して低く見積もることのできない相手だった。
「でもそれって、きっと俺が君に隠してることと、君が俺に隠してることじゃ、量に質にかなりの差があるよね?」
「それは、まぁ、そうなんじゃないですか?」
そうじゃなきゃ臨也さん、商売上がったりでしょう。彼の言わんとするところだってわからなくて、思い切り見当違いの答えを返すのは、僅かに澱む帝人のプライドだった。いつだって帝人は、読めないゲームの先をはぐらかす。そうすることで、ゲーム盤の上の己の立ち位置を否定する。己の卑怯さを臆病なのだと言い換えて、自分を守るための砦は今日も堅牢だ。いや、こんな夜だからこそ、防御は完璧でなくてはいけない。

そういうんじゃなくてさ、と臨也は珍しく真っ当に帝人のことばを訂正してきた。いつもなら帝人の強がりを全部見通していたって、ノリよくごまかされるフリをしながら嫌味なほど見事に帝人のはったりを指摘して見せるのに。
「仕事のことは関係ないんだ。今は、君と俺の話だからね」
「臨也さんのこと、僕はなにも知りませんけど」
「知ろうともしてくれない子に教えるわけないじゃない」
「……知りたいって言ったら、教えてくれるんですか」
「どうして君はさ、知りたいこと我慢する子じゃないじゃない。首なしお化けにだって、怪力喧嘩人形にだって、いつもいつも馬鹿みたいに真っ向勝負じゃない」
「はぁ」
考えなしの行動を注意されているのだろうか。でも仕方ない。あれは本当に考えなしに動いてしまうのだ。この口が、手足が、脳髄が、勝手に反応する、日常に退屈し、異常に強く焦がれるこの細胞が。帝人の全身を隈なく支配する理に、ちっぽけな理性では抗えるはずもないのだ。
「なのにどうして、俺にはなにも聞いてこないの? 君にとって俺ってそんなもん? 首がなかったり怪力だったりする方が、わかりやすく魅力的なのかな?」

臨也さんは。
「そんなことはないですけど……」
折原臨也という存在は、帝人にとって特別だった。帝人の興味の対象であるところの非日常のいろいろとはまた、別の段階にいた。世界が日常と非日常のふたつにきっちりわけられるとは思ってないが、その言葉に含まれる意味は広大だ。帝人の興味の対象だっていくつもいくつもある。
だけど、彼は、折原臨也は、そんな有象無象とひとくくりにできないほどに孤独な存在だった。
「じゃあなんで聞いてこないのさ。俺は君が俺になんて聞いてくれるのか、それにとっても興味があるのに」
帝人にとって、折原臨也は日常に属している。
情報屋という職業は世間一般に認められたまっとうなものではなさそうではあるが、それでもそんな職業の人間が存在してもいいだろうという常識の中に余地がある。彼の存在はイレギュラーじゃない。まったくもって日常の側に立っている。そんな彼を退屈から逃れさせているのは、視点だけが異常だからだ。
臨也はいつだって日常の側からものを見ない。彼が座しているはずの、存在しているはずの世界とは別の、日常の裏側からものを眺める視点を持っている。それが、帝人にはたまらなく羨ましい。

「なにを聞いたらいいかよくわからないんです。臨也さんには」
全部知りたいから。一言聞いてそれで終わり、なんて生易しい存在じゃないから。だから、多分、この口は重い。
「聞いても無駄かなって」
はじまりさえしなければ、終わらないのだ。
だからこの思いをひた隠しに抑え込んでいる。
自分でも気がついたりしないように、目を、耳を塞いで。
「無駄なことはしない主義?」
「そういうんじゃないですけど、だって臨也さん、僕が聞いたら教えてくれるんですか」
「お金払うなら教えてあげるよ」
「……仕事の話じゃないって言いましたよね」
「それはしょうがない。だって俺はいつでもどこでも情報屋さんなんだもの」
いつでもどこでもふざけて見える彼は、仕事の上では嘘をつかないのだという。当たり前か、情報屋なんて信憑性が疑わしければ成立しないということは、帝人にだってわかる。だからこそこのひとは、仕事以外では嘘しか言わないのだと。
「嘘を教えられても仕方ないですし」
「でもそれが嘘だってわかってるなら、同じことなんじゃないの?」
嘘吐きが教えるのと逆の道を進めばいいと彼は言う。でもその嘘吐きな人は、自分のことを嘘吐きだと自嘲するのだ。いったい誰が彼の嘘を嘘だと証明できるだろう。

「臨也さんは僕に本当のことを言ったことがありますか?」
折原臨也は予言者ではない。ましてや預言者などではありえない。いくら彼がこの世界のことをよく知っていて、これから先起こることも半ば予想していて、そしてすべてが彼の思い通りに動こうとも。
「ないよ」
彼は予言者ではない。なぜなら事の発端は彼がせっせと蒔いた火種だから。
「嘘つきですね」
ましてや預言者などではありえない。小さな火種をいくつも蒔いて、それを彼が彼のために育て上げたのだから、背後に誰かの影を感じる隙もない。

彼は人間だ。例えその所業が悪魔のようだと噂されても、徹頭徹尾彼が愛を嘯く真っ当な人間であり続ける。
だからこそ、彼の立ち位置は異なってしまう。他の誰より、帝人が想いを添わせてしまう。
帝人は喧嘩人形のように強くはなれない。ましてや首をなくして生きるものにはなれっこない。
けれど彼には、ただの人間である彼になら、手が届きそうな気がしてしまうのだ。

それが彼の仕掛けた罠でないはずがないと、知っているのだけど。