スタンドアローン



シャニ・アンドラス。
この名前で呼ばれるようになって、今日で3日目だ。
もう、以前の名前を思い出せない。

もともとこれといった確かな名前をもっていたわけではなかった。
その時々に好きな呼ばれ方をしていた。
そのことに不便は感じなかった。
名前を貰ったときに嫌な拘束感を感じたのは、自分を識別する記号をひとつに絞られたことで、自分の存在形態もひとつだけになってしまったからだろう。

地球連合軍の、MS用生体CPU。

それだけ。
もうストリートボーイもジャンク屋の居候も哀れな物乞いもどこにもいない。
確固とした自分があるのはことのほか窮屈な思いがするのだった。

こんな重くて邪魔なもの、よくみんな有り難がって背負ってるよな、と本気で辟易する。
名前を貰った最初の夜などは、あまりの身動きの取れなさが息苦しくて一睡も出来なかった。
生まれたばかりの赤ん坊がよく泣くのはそのせいなんじゃないかと思う。
与えられたものが大きすぎて、潰れそうに泣き叫んでいる。
路上で生まれた赤子が発していたその声は、喉をしめてやりたいほど嫌いだったけど。

「おい、お前」

お前、そう、前はよくそう呼ばれてた。
名前がなくて身軽だった頃。
もしかしたら自由だったかもしれない頃。

「……」

けれど今はそれは自分を指すことばではない。
目の前にいる誰かが変われば自然とその対象も変わる抽象的なことば。
自分の前には今誰もいなかったから、無視しても構わないと判断したシャニはふらふらと歩を進める足を止めることはしなかった。

「おいってば。聞こえてんだろ!」

急激にやかましさが増す。
今まで耳を塞いでいたイヤフォンが乱暴にむしりとられたからだ。
不機嫌に眉を顰めて、シャニは乾いた唇を僅かに開く。

「うざい」

肩越しに振り向いて相手を確認する。
知らない顔だ。
もっとも、シャニに他人の顔を認識する機能はついていない。
否、ついているのかもしれないが、働かせる必要がなかったから働かないのだ。
いつでも対峙するのは知らない人間。
対価を支払って食べ物をもらったり、それが面倒な時は無理やり奪ったり、テリトリを巡って争ったりする相手は、その日その日によって違う。
例え同じ相手とコミュニケーション(そう呼べるなら、だ)を取ったとしても、それが同じ相手である意味がない限りまったくの他人として接しても問題はなかった。

「うざっ……てめっ……」

激昂しかけた相手は、握った拳を振り上げるのを途中で止めた。
その行動の意図するところはよく分からなかったけれど、取り敢えずこちらに危害を加えるつもりはないようだ。
握った拳を開いて肩の高さでひらひらと手を振っている。
多分、やり場のない怒りを散らそうとしているのだろう。
一発殴った方がずっと簡単でスッキリするのに、そんなことも分からないバカなんだろう。(もちろん殴られてやるつもりはないが)
どうやらこの男(と呼ぶには幼すぎるかもしれない。チビだし、バカだ)は自分に用があるらしい。

「まぁいいや。アズラエルが呼んでるんだけど」

アズラエルって誰だ。
申し訳程度に記憶を手繰ってみたが、ここ数日で出逢わされた人数が多すぎて、どれもぼんやりしている。
名前にすら聞き覚えがない。
それに、呼んでいるという意味が分からない。

「あ……?」

ああ、そうか。
シャニ・アンドラスが呼ばれているんだ。
だから名前なんかいらなかったのに。
この束縛されている感覚が嫌で嫌で仕方ない。
そんな記号があるばっかりに、自分の行動は他人の存在に左右される。

「僕は伝えたからね!」

びし、と鼻先に突きつけられた指。
一瞬で遠ざかっていったそれとともに、小柄な体躯が身を翻していく。
やっと解放された、とでも言うように。

「…………」

シャニは彼に投げ出されたイヤフォンを拾って耳に入れる。
復活した音の洪水がシャニを押し流した。