箱庭のアリス・鋼の涙



「オルガ? いないの?」

一目で全貌が見渡せる狭い部屋に、探し人の影はない。
それでもここ以外に彼の居場所はなく、訝しく思いながらも声をかけた。
一応、ドアのところからは死角であったベッドの隙間も確認する。
最近眠っていないようだったかったから、ベッドから転げ落ちて隙間に挟まったまま寝ているんじゃないかなんて。
だが眠りすぎのシャニにはままある事態も、オルガには当てはまらなかったようだ。
いない。
どこへ消えたのかしばし考えをめぐらせる。
格納庫は今見てきたし、技師がオルガの分の薬を託してきたということはそちらでもないし、 待機室にはシャニしかいなかったのを確認した。
医務室というのも考え難い。
なにか体調を崩していても、他人の手を借りるくらいなら自室で黙って臥せっているような奴だ。
薬を貰いに行った研究室から、一番遠かったために最後にやって来たオルガが使っている部屋。
これら以外に、自分たちが自由に出入りできる場所などない。

首を傾げていたときに、かたり、と背後で音がしたのを聞いた。
バスの方だ。
今まで静かだったから覗いていなかった。
水音もないのに、そんなところにひとがいるとは思わない。
半信半疑でバスルームに続くドアを開ければ、果たしてオルガはそこにいた。

「オルガ?」

空のバスタブの中で、抱えた膝に頭を埋めているオルガの金色の髪がふるりと揺れるが、顔をあげてはくれなかった。
クロトは彼がどういう状態にあるのかわかっていた。
わかっていながら、もう一度名前を呼んだ。

「オルガ」

一瞬の沈黙が落ちる。

「でてけ」

くぐもった声が、震えながら命令した。
クロトは狭いバスの中に入り、オルガが納まっている浴槽の淵に手をかける。
彼はすすりなくような人間ではなかった。
けれど予想どおり、覗きこんで見た彼の顔は濡れていた。
伏せられた長いまつげを重たくしている雫。
その原因がなんであるのかクロトにはわかりえないだろうし、オルガはきっと教えてくれない。

手をのばして鈍く光る金髪に触れてみる。
振り払われはしなかったけれど、歓迎されているはずもなかった。
かたく膝を抱いて、じっと蹲っているオルガの頭をそっとなぜる。
浸れるほどの優越感も引きずられるほどの感傷ももたないクロトの、無意味な接触。
それらにオルガが勝手に意味をもたせることもあったが、今回は邪魔にしかなっていないだろう。

だけどそれでいい。
クロトはオルガが泣くのを邪魔したかった。
ひとりだけいつまでもそんな人間らしい感情を持ってるなんておかしいじゃないか。
クロトはもう機械のように、無意味な動作しかできない。
泣いてるひとをなぐさめるふりならできる。
機械だって条件とプログラムさえあればそのとおり動く。
だがそこに感情はない。
可哀相だから慰めてあげるのではなく、泣いてるひとにはそうすればいいと知っているだけだ。

ああ、オルガはそれを知ったら僕が可哀相で泣くかな。
それとも、もうニンゲンじゃない僕に同情なんてしないか。

「ねえオルガ。僕、暇なんだ。相手してよ」

覗きこんで見たオルガの表情は、照明の暗さも相俟ってひどく病的に思えた。
怒ったような顔が、くしゃくしゃになっていた。
オルガの泣き顔なんて滅多に見られるものじゃない。
いったいなにが彼をこんな状態にしたのだろう。
考えたけど気にはならない。
嫉妬なんてしない。
オルガは僕のものじゃないし、特別な気持ちを持っているわけでもない。

「ねぇ? 慰めてあげてもいいからさ、セックスしよーよ」

逆撫でする言い方だと自覚はあるが、期待されても出来ないのだから、早めに諦めてもらう方が親切のはず。
しかしクロトの理屈はオルガには通用しないことが多くて、案の定、ひとを射殺せそうな目でにらまれた。
涙に濡れた深い碧の双眸。
ぞくり、と激しい衝動がクロトを襲った。
未だ身体に脳に残る本能の叫び。
したい、と思った。
深く暗い闇の底からずるずると意識の上に這い上がってくるのは、破壊の欲動。

ふいにきつい眼差し逸らされ、突然拘束を解かれたようにコントロールを失いかける。
無意識に伸びた手が、前髪を垂らして表情を隠すオルガの後頭部をつかんだ。
ぎしぎしと髪が引きつれ、顔がオルガの意志ではなく上向く。
噛み締められたくちびるに、無理矢理口を押しあてた。

「……っ」

くちびるに鋭い痛みが走り、咥内に血の味が広がる。
噛み付かれたのだ。
だがそれも予想の範囲内だった。
クロトはすぐに顔を離して、オルガから距離をとる。

「あは、怒った? そういえば薬、まだだよね。持ってきてあげたよ」

眉を吊り上げてクロトをにらみすえるオルガの表情からは、いつのまにか涙の影は消えていた。
先程俯いたときに拭っていたのかもしれない。
目の前が真っ赤になって、頭に血が上っていて、見えていなかった。

いけない、相手はオルガなのに。
殺したくなっちゃったじゃないか。

薬の入ったアンプルを差し出すと、オルガは無言でそれを取って一気に呷る。
クロトは目を細めてその様子を見つめていた。
自分が冷静に平坦になっていることを確かめて、オルガに背を向ける。
大丈夫、自分は平静だ。
バスルームを出ようとして、後ろから伸びてきた腕がクロトの首に回り、動きを止められた。
それが背後にいたオルガ以外であるはずはなく、飲み口を割られたアンプルが喉下に突きつけられる。

「おいおいおい、なんだって?」

おおよそ普段の調子に戻ったオルガが、クロトの耳元で引き攣ったように笑った。
まだ完全には復調していないのかもしれないが、すぐに薬が効いて、きっと今の感情も忘れるだろう。
これでオルガもクロトと同じものになる。
クロトにとって殺したい人間ではなく、壊す意味のない壊れた玩具になる。
勝手に壊したら怒られるのに、壊したくなるようなものでいられちゃ困るんだ。

「そっちこそ、そんなとこでなにしてたのさ。探しちゃったよ?」

様子を探る意図を持ってからかえば、しばらく沈黙があってから、ちっと舌打ちが聞こえる。
薬に慣れ始めた頭は、自分が何故そこで膝を抱えていたのか思い出せないでいるはずだ。
感じることも考えることも徐々に奪われて、インプットされた命令だけを処理するようになっていく。
それでいい。
それが自分たちに与えられた姿なのだから。
そうでなくてはいけないんだ。

「どうでもいいだろ」

思考を放棄したオルガににやりと口元を歪め、クロトは首に回された腕を解く。
対した抵抗もなくクロトを自由にした手は、握っていたアンプルをダストシュートへ乱暴に投げ入れた。

「まぁね」

バスから出て数歩移動すれば、すぐに部屋の端に着く。
乱れのないシーツが視界に入った。
振り向けばオルガもバスルームを出てくる。
不本意そうなオルガの表情を笑いながら、 硬いベッドの上で彼がやってくるのを待った。
数分後にはきっとオルガの機嫌も直っているだろう。