天秤は傾かない
クロトが所属していることになっている大西洋連邦軍では、入隊試験を受けるのにまず国の永住権が必要になる。
軍属はエリートの称号であり、建前上は真っ当な戸籍と学歴を持ってやっと入隊試験に臨むことができる。
本来ならば、前科ものであるクロトが存在などできるはずの無い場所だ。
それは、世界が見せかけの平和から逸脱しようする胎動だった。
お題目に成り下がっているとはいえ、地球圏の国家間では平和条約が締結され、宇宙に居を構えるプラントとも一応の協定がある。
だけど世界は動こうとしている。否、動かさんとする人為的な影が、すぐ背後まで迫っている。
「ったく、ばっかじゃねーの?」
着慣れない軍服の襟元を崩しながら、数歩前を歩いている男が愚痴る。
後姿からは表情はうかがえないが、ズボンのポケットに手を突っ込んだ猫背が常になく上下して動くのを見る限りでは、そうとう苛立っているようだった。
きっと、この状況のなにもかもが気に入らないんだろう。
クロトたちは、軍部にすら極秘で開発されているMSのパイロット候補として、研究施設に実験体として集められていた。
そして実験が成功したと認められた一握りの人間が、大西洋連邦に軍人として登録されたのだ。
あからさまに胡散臭い集団に是非も問わず辞令を出していた軍人は、きっとアズラエルの息のかかった人間なのだろう。
「あのひとはあのひとで、ボクたちのこと考えてるってことじゃないの?」
疑問の多い研究施設に身を売る人間など、ロクな生活をしていなかったものばかりだ。
日々を生きるのに十分なだけの身銭を得るのに、手っ取り早くまた壁の低い選択肢を目の前に出されたら、大抵の奴は飛びつく。
もちろん、真っ当な方法で生きることが叶わなかった人間だからなのだが。
「おめでてーな」
クロトのことばが癇に障ったのか、前を向いていたオルガが足を止めて振り返った。
心底馬鹿にしたような、見下した表情と口調で。
「でも前線で動くのに軍籍なかったらまずいだろ」
まともな経歴のない人間を軍人にするのには、大きな権力と莫大な資金が要る。
これが戦時下であったならもっと簡単に、使い捨ての兵士として自分達のような人間も雇われただろう。
だが今はその時ではない。見せ掛けの平和が蔓延し、一部の上流階級の人間だけが人間らしい生活を送って、自分達の暮らしが世界の常識だと思っている。
資源やエネルギーが不足して荒廃した社会の最底辺の人間なんて、ろくな仕事も見つからずにのたれ死ぬ以外に道はない。
そうならなかった自分達は、多分、幸運だった。
「それがなんで俺らのためになるんだ。アイツラの都合だろ」
ここにまで至るのに、何人もの実験体が死んでいくのを見てきた。
コーディネイターに対抗するために考え出された、ナチュラルの身体を最大限に強化する実験。脳内にインプラントを埋め込まれ、常人にはありえない能力を獲得し、その副作用を抑えるために特殊な薬物を使って肉体を維持している。
自然に手を加える不自然さは、理論どおりに進むようになるまでに多くの犠牲が必要だった。必要悪だと考えるには、大きすぎるくらいの。
一歩間違えれば自分達だってとっくに無かっただろう。
何度も死ぬ目に合わされて、すべてに懐疑的になるのも仕方ないと言えるのかもしれない。
だけどそれも含めて自分達は、やっぱり幸運だったのだ。
「今更なに言ってんの? そんなの当たり前じゃん」
これ以上話しても無駄だというように、オルガは再び背を向けて歩き出した。
翻った軍服の袖に、肩に、襟に、苛立ちの原因である軍の階級章がしっかりと張り付いている。
どんなに嫌悪しても、それらを捨てることは出来ない。
それらのしがらみを切り捨てることは、死を意味する。
辛うじてここまでを生き抜いてこられた幸運を、自ら進んで手放すなんてできるはずがない。
「俺はお前ほどアイツを信用してねーんだよ」
去り際に吐かれた捨て台詞がひどく滑稽で、思わず頬がひくりと痙攣する。
角に消える背中を見送って、誰に聞かせるためでもない小さな呟きが漏れた。
「信用、ね。それは心外」
アズラエルを信用するだなんて、最初の一回で懲りている。同じ過ちを繰り返すほど愚かには生きられない。
むしろ信用などしないとしきりに繰り返すオルガの方が、アズラエルを信用したがっているようにも見えた。
彼等の間になにがあったか知らないし、興味も無いが、物好きにもほどがあるじゃないか。
「クロト……」
ぼそぼそと壁の方から自分を呼ぶ声が聞こえて、クロトは振り返る。
低くて抑揚が無い上に聞き取りにくく、声の反響しやすい廊下でもほとんど響かないから、壁に声をかけられたのかと思うほどだった。
「なんだよ、シャニ」
こんな陰気な話し方をするのを、クロトは一人しか知らない。
もっとも、他にいても認識の埒外であって覚えていないという可能性もある。
オルガと会話をした最初の記憶からほぼ1年が立つが、クロトが個体認識している人間は、アズラエルとオルガ、それにこのシャニの3人だけだった。
予想通り、後ろに立っていたのはシャニだった。
表情の半分をナチュラルとは思えない色の髪に隠して、うつむき加減にこちらを凝視している。
慣れたとはいえ不気味な姿だ。
着ている軍服はなんだかサイズが大きいし……大方、サイズが合うものが足りなくなったから、余っていた分を着せられたのだろう。シャニはそういうおまけ的な扱いを受けやすいタイプだった。
「あいつと、仲良いの……?」
質問の意味を解しかねて、クロトは首をかしげる。
シャニはクロトがオルガと知り合う前から、オルガと行動をともにしていたようだった。
オルガを認識し始めてから、彼の隣にこの薄緑の物体がいるのを何度か目撃している。
あれで世話焼きのオルガだから、よく道に落ちていたこれを放っておけなかったんだろう。
これが道端に転がっていても無視していたクロトも、シャニがクロトの名前を覚えてからは定位置(とりあえず部屋の中)に戻してやるようになった。
「は? オルガ?」
聞き返せば、シャニはふるふると首を横に振る。
うねうねと手入れのされていない髪が動きにあわせて揺れた。
キモイ。が、言いたいことは伝わった。
オルガで無いとするなら、あいつとは話題に出ていたアズラエルの他ないだろう。
もし仮にシャニが示していたのが脈絡も無くクロトの知らない誰かだとしたら、それはお手上げだ。
「アズラエルね。仲? よくないよ」
アズラエルにしたって、シャニの方が親しいのではないかと思う。
確かにシャニは、誰かと親しくなれるほどコミュニケーションを取れる人間ではないのだが、知り合ってからの期間だったらシャニの方が長い。
なんといっても数少ない研究初期の成功例として、アズラエルも気にかけているようだったし。
「……キライ?」
どうして突然シャニがそんなことを聞いてきたのかはわからない。
答える義理もないのだが、何故かシャニは放置できない気にさせられる。
慣れない人間なら、その呪いをかけられそうなおどろおどろしい雰囲気に恐れをなすかもしれないが、シャニが恨みに思うほど記憶にとどめている人間などそういやしない。
いるとするなら……それは「あいつ」だろう。
「キライ? わかんないな、そんなの」
そんなことばで収まりのつくレベルじゃない。
クロトがアズラエルに向けるもの、それは明らかな殺意だ。
キライだから、ただそれだけの理由で殺人が許されていないんだったら、アズラエルを嫌ってやったりはしない。
でもいつか必ず、息の根を止めてやる。そう決めてるだけだ。
クロトの心中を読み取ったのか、シャニは軽くうなずいて、とぼとぼと廊下を歩いていった。