フォスフォレッセンス
気がついたとき、見慣れた白い天井と、無表情な研究員の顔が視界に映り込んで、深い安堵と諦念がぐちゃまぜに押し寄せてきた。
ぎしぎしと痛む身体を堪えて首を横にめぐらせれば、平素の能面よりもいくらか穏やかな顔つきになったクロトが寝台に横たわっているのが見えてぎくりとする。
多分、生きている。呼吸をしている。ここの奴等は死んだ人間を後生大事に取っておくほど酔狂じゃない。
持ち上げた自分の腕には点滴の針が刺さっていた。
目の前で手のひらを握ったり開いたりする。まだ少し痺れが残っているが、多分大丈夫。
まだ、生きている。
「気がついたんですか?」
頭の上から降ってきた声に、オルガは顔をしかめた。
この研究所に来て、はじめてこの男の姿を目にしたときは、本当に驚いた。
貧乏人を金で集めて人体実験をしている悪党とはどんな奴だろうと思っていたら、知っている顔だったのだから。それも、悪くない印象を持っていた人間だ。
確かに権威を振るうのに慣れきった嫌味なほど上流階級のオーラを纏っていたが、それほど偉ぶらずに気軽い態度で接してきたことが意外だった。
けれど今にして思えば、彼は権力の使いどころを選んでいるだけだったのだ。
道端で出会っただけの一庶民に偉ぶったところでなにもはじまらないし、嫌悪感を与えたのでは政治的に上手くないという打算。決してこころの底から友好的だったわけじゃない。
「アズラエル……」
オルガの枕元に、腕組みをしてにやにや笑いながら立っている男に、裏切られた気がした、と言ったら、甘いと嘲笑されるのだろうか。
否、きっとそれすらもしやしない。
アズラエルの目には、オルガなど映っていない。存在していない人間がなにを感じようと、アズラエルには無関係のこと。不躾に名前を呼び捨てようが、あからさまに睨みつけようが、知ったことではないのだ。
「僕が回収するように命じたのはクロトくんだけだったんですけど、キミ、ラッキーでしたね」
今回の逃亡劇にクロトを巻き込んだのは、自分ひとりではきっと見捨てられて終わるだけだと思ったからだ。
案の定、クロトはアズラエルにとって特別な人材であるらしく、研究所を抜け出してすぐに追っ手がかかった。
例の薬の退薬症状にやられて失敗に終わった計画も、目的の断片であった「奴等を焦らせる」という部分は果たされたのかもしれない。
……ちっとも嬉しくも、気が晴れもしなかったけれど。
「……そうだな」
クロトだけが死ぬようなことがなかったのは、幸か不幸か。
もしクロトが死んで自分だけが生き残っていたら、やはり追加の薬を与えられないままに廃棄されたのだろうか。
悪趣味な権力者の気まぐれで成り立つ生命なんて、きっとあの鎮魂花よりも価値は下だ。
「さて、どうしましょう。もう充分死ぬ目にはあって来たと思うんですけど、お咎めなしってのはいかにもマズイですよねェ」
憤っているわけではまったくなく、とても楽しそうにアズラエルが言う。
ホント、キミには死んでもらってよかったんですよ。そうしたら面倒なことを考えなくてもすんだのに。
ひどい言われようだ、が、オルガには言い返すことばも見つからなかった。
むっつりと黙り込んだオルガを見て溜飲を下げたのか、一転して軽い口調になったアズラエルは、組んでいた腕を解いてオルガのベッドヘッドからクロトの方へ移動する。
そしてクロトの髪を二、三度撫でつけ、オルガを振り向いてにやりと笑った。
「ま、今回は見逃しますよ。キミもなかなか成績優秀らしい。僕は自己主張できる人間には寛容なんです」
言い置いて、相変わらずの白いスーツの後姿は部屋を出て行く。
オーナーのいなくなった医療技術室では、控えていた白衣の研究員達が動き出し、オルガの点滴の中身を入れ替えたり、クロトの腕に新たな針の跡を増やしたりしている。
――― 自己主張、だって?
アズラエルが己の指示に反する行動を、ひどく嫌っていることなど周知の事実だ。
口では自主性を尊重すると嘯いてはいるが、別の意見を聞き入れるつもりなどまったくない。
己の価値観がすべてなのだ、あの男は。だからこそ、過激なテロ集団の総帥として君臨していられる。
「嘘吐けよ」
呟いたことばは、うなる機械音と立ち込める薬品臭の中に消えていった。
***
処置を終えた研究員達が消えてから程無くして目覚めたクロトは、自分の置かれている状況を認識してからずっと不機嫌だった。
それも当然だろう。なんたって死にかけた、いや、殺されかけたのだから。
悪かった、と謝ると、クロトは泣きそうな顔をしながら噛み付いてきた。
「なんで戻ってんだよ、この根性なし!」
どうにも怒りの矛先がおかしい。まだ混乱しているのだろうか。クロトの言うとおり自分は根性なしに違いないが、そこに腹を立てられる謂れがない。
「うっせーよ、仕方ねぇだろ……」
クロトには負い目がある。なにを言われても仕方がないと思っている。だが、お門違いの怒りをぶつけられるのはどうもすっきりしない。
息巻いて逃亡しておきながらあっさりと戻ってきたことを腐されたり咎められたりするのも、間違ってはいないだろう。
しかしクロトが腹を立てるべきなのは、それ以前に、無謀な計画を立てて無関係なクロトを巻き込んだことに対してではないだろうか。
「うるさいじゃない! ボクはなぁっ……」
「静かにしなよ、死に損ない」
頭に血が上っているのか、上手く動かない身体をじたばたさせて怒鳴るクロトの発言を、力の抜けた声が遮った。
ロックなど掛かっているはずもないドアを潜り、ふらふらと二人の寝ているベッドの間をシャニが通り過ぎる。
その手に握られているものを見て、オルガはじとりと身体をすくませた。
「シャニ……」
部屋の隅にあった花瓶に無造作につっこまれたそれを見て、クロトが首をかしげる。
窓もない無愛想な部屋にはおよそ不似合いな、生の彩りが毒々しいまでに存在を主張している。
「なんだよ、それ」
たおやかな白い花。
これを好きだと言ったあの男は、この花の持つ意味を知ったのだろうか。
「あいつが、くれるって……」
クロトの問いかけにぼんやりと答えたシャニは、花をかきよせた隙間から花瓶にコップで水を入れている。
それでは順番が逆だ、とつっこむ余裕すらなくなっていた自分を叱咤して、オルガは自嘲気味に笑った。
「俺達には縁のない花だな」
死んでも悼むもののない人間。
名前も失われて、数だけが証明する死に添えられる花は、きっとない。
「はっ。言えてるね。あのおっさんも無駄なことするじゃん」
軽く笑い飛ばしたクロトは、多分知らない。
自分達に花など似合わないと、花を愛でるこころなどないと笑っている。
それでも、あのアズラエルがとった珍しい行動が気になったのか、クロトはその花の名を知りたがった。
「……なんて花?」
淡い痕跡。
激しい閃光が残す泡沫の夢。
散り際に後を引く未練。
鮮明な生の残滓。
消え逝く鼓動の幻。
燐光。
シャニが花弁に唇を寄せて呟いた。
「フォスフォレッセンス」