Never despair.

 教師と生徒しかいない普段の閉鎖的な学校とは違う、お祭りの雰囲気はとても居心地が悪かった。 まるで自分のテリトリを勝手に侵食されているような不快感。
 表の賑わいを避けて、文化祭では使用されない校舎の奥へと糸色は逃げ込んでいく。 本来ならば、担任しているクラスや校内の見回りをしていなければならないはずだったが、 生徒たちが各々楽しんでいるだろうところへ、ネガティブにしか物事を捉えられない自分がいったところで 邪魔にしかならないのは明白だった。折角のお祭り気分に水を差すのも申し訳ない、とは思っていても、 いざその場に入れば自分は、その楽しげな雰囲気をぶち壊すことしかできないのだ。
 文化祭に使われていない側の校舎は普段よりも一段と寂れて見え、放課後の学校を思わせる。 遠くに聞こえる祭りの喧騒が侘しさをさらに増大させていた。ふと思い出して、糸色のクラスの生徒である、 不下校少女のひきこもる教室を確認しに行くことにする。彼女もいつもの自分の場所を祭りの賑わいに追い出されて、 今は宿直室を間借りしているようだった。
「小森さん? 大丈夫ですか?」
「私の家……不法侵入だ……」
「明日が終わるまでの我慢ですからね」
 ぶつぶつ文句は言っているが、お気に入りの毛布にくるまって膝を抱える姿はいつもとなんら変わりない。 大丈夫そうだ、と根拠もなく思い込んだ。小森の状態を気にしてみたのは、 祭りに向かない自分の本性に従って教師の仕事を放棄しようとしている自分にたいする言い訳だ。 私は生徒のためを思って、ここにきているだけですから。なんて。
 どん、と校庭から花火の音がする。びくりと身体をすくませて、わっと歓声のあがる方を振り返った。 ほんの少し離れただけの場所では、糸色の嫌いなお祭り騒ぎがおきている。 もれ聴こえてくる軽薄な音楽に眉をひそめ、静かにひとりになれるところを探して思案をめぐらせた。 ……そうだ、あそこがいい。校舎の隅という立地条件も、用途のために防音設備が整っていることも、 糸色が管理を任された数少ない場所であるために鍵を所持していることも、今の気分にぴったりだった。


 厚めの木製のドアに鍵を差し入れる。よく手入れがされているのか、古ぼけた鍵と鍵穴であるのに、 こともなく鍵はまわった。そういえば、この鍵を使うのは初めてかもしれない。 一応管理者ということで名前を貸してはいるが、普段ここを使用できる状態にしておくのは専門の人間がいるから、 糸色はなにもしていないのだ。こんなときばかり、便利に利用させてもらって申し訳ない。 なんの役にも立たずに立場にあぐらをかいているくせに、権利だけは行使する。 社会にとっては暴利をむさぼるシロアリでしかない。いつかこの世界は私のような堕落者のために 破滅するだろう。ああ私はやっぱり死ぬべきだ。
 ……鍵を開けるだけで絶望してしまった。ここに来るべきではなかったか。 しかし他に行くところも思い浮かばず、少しの逡巡の後、糸色は扉を押し開ける。 やわらかく漂ってくる古い紙とインクの匂い。そろりと開いた隙間から身体を滑り込ませれば、 ぎっしりと書物のつまった棚が整然と並ぶ光景が目に入る。幸い、暇つぶしには事欠かない場所だ。 古今東西の作家の絶望が、一時でも私のこころを癒してくれるだろう。
 杞憂だとは思うが、ここまで迷い込んできた誰かが誤って入り込むのを防ぐために内側から鍵をかける。 締めたばかりの扉にごつんと額をぶつけた。また保身の言い訳だ。正直に言おう。 私はこの時間を誰にも邪魔されたくないから、鍵をかけるのだ。


「先生?」
 それまで気配のなかった図書館の中に人間の声がして、糸色はさきほどの花火の比ではないくらいに驚く。
「はい?!」
 振り返ればそこには、すっかり背景に馴染んだ図書館の主の姿があった。 そうえいば今日は彼の姿を見ていなかったか。たしか文化祭の出し物を決めるホームルームも途中からいなかった。 そして彼が消えているときには必ずといって、この場所にいる。真面目そうな外見とは裏腹に、 彼は団体行動にとても疎く自分本位だ。孤独を求めるその心性には共感できたが、 その理由も行動原理も糸色とはかけ離れすぎて、逆に恐ろしく不安の多い存在だった。 糸色のクラスの大半の生徒同様に、彼のことは一生理解できないと思う。
「久藤くん、ですか。なんでいるんです? ここ、鍵がかかってたでしょう」
 書棚の前に立てた脚立に腰をかけ、開いた本から顔を上げた久藤を仰ぎ見る。 にっこりと人好きのする笑みを浮かべて、久藤はポケットから鍵を出してみせた。
「ボク、司書さんから鍵もらってるんです」
 司書よりも早く来て図書館の開館をせがむからという理由だそうだ。職務怠慢もいいところだ。
「……一応、管理者は私なんですけどね」
 国語の教師であるというだけで、いつのまにかそういうことになっていた。 人付き合いが苦手だからと言って、職員会議は気軽にサボるものじゃない。
「先生、ここに全然来ないじゃないですか」
「まぁ、そうですが」
 糸色が返す言葉に迷い始める頃には、久藤はもう本に目線を戻している。彼の本の読み方は異常だ。 本当に読んでいるのかも怪しいほどに頁はものすごい速さでめくられていく。 見開きをひとなめするように視線をめぐらすだけで、ぺらりと次の頁へ読み進む。 一文字一文字頭を悩ませながら書をしたためている文筆家のみなさんには申し訳がないほどだった。
 だが彼にはそのような憐憫は存在しないらしく、まるで機械のように規則的に頁をめくる。 最後までめくり終わったらまた次の本、その繰り返しだ。
 本当に読んでいるのかと疑って、最近読んだ本で面白いのを紹介してください、と尋ねたことがあった。 そう言った瞬間に人間らしい目の色を消して、なにもない中空を見つめだした彼は、 虚ろな視線のまますらすらと新刊本の感想をあげてくれた。記憶を辿っているのか姿は不気味だったけれど、 本の紹介の仕方が的確に糸色のツボをついていて、意地悪をしてやろうとした最初の目論見をすっかり忘れ、 あげられた本をしっかり買って読んでしまった。それがまた糸色の好みにぴったりで、 実に楽しいひと時を自分なんかが過ごしてしまったことにまた絶望を覚えたものだ。
 とにかく彼の読書量はすごい。まるで本を読まなければ、文字を追わなければ死んでしまうとでもいうように、 真剣に書物に向かう。彼がこの学校に入学して1年半、この図書館の本もそろそろ読みつくされる頃だろう。 それでも世界には想像もつかないほどたくさんの書物がある。 それこそ、生きているうちにすべてを読みつくすことは不可能だと絶望するほどに。
 2のへ組。絶望的な教師が担任し、絶望的な生徒が通うあの教室。 彼もまた絶望教室に通う絶望的な生徒さんのひとりなのだ。


 一心不乱に本を読みふける久藤から目を離し、糸色は書棚に歩み寄った。ひとのことを考えるより、 ここへきた当初の目的で暇を潰そう、そう思って。ならんだ背表紙に適当に手を伸ばす。新刊本の棚だった。 近代にはある程度造詣の深い糸色も、最近の読み物にはとんと疎い。それでもなんちゃら賞をとったとか、 映画化されてばか売れした、なんて話題の本には惰性と見栄で一通り目を通すようにしている。 このときも、ああこれはなんとなく聞いたことのあるタイトルだ、と思うものを選んでいた。
「先生だったら、その上の棚の黄色い本がいいと思うよ」
 不意に頭上から降ってきた声に本を取り出しかけていた手を止め、主を振り仰ぐ。 今ここには自分と久藤しかいないから、それが彼以外であるはずはないのだけど、 彼が本以外のことに気を散らすのは珍しかった。仰ぎ見た彼は、相変わらずの姿勢で本を読んでいた。
 指をかけていた本を棚に戻し、その一段上から黄色の背表紙を探す。目立つ配色はすぐに見つかる。 『Never despair.』。……洋書じゃないか。絶望した。世界中の書物を読んでみたいと豪語する彼は、 そういえば外国語も達者のようだった。帰国子女の木村嬢とも難なく向こうのことばで会話していたのを 聞いているし、どこの言語を話しているのかわからない関内(仮)嬢とも、 なんだかわからない言語で話していた。人類が使っていい言語じゃない言語を操るカフカ嬢と 話が通じているらしい現場には、できれば居合わせたくない。
 私だって幼い頃は神童と呼ばれた人間、大学では言語学を専攻し院までへばりついて8年ほどモラトリアムを 満喫していた過去もある。今や世界共通語となったあの国の言葉くらいなら解せるという自負もある。
 ……原書講読の講義はとても嫌いだった。言われるがままに手にとって少し後悔するが、 彼の選書眼が確かなことはよくわかっている。それこそ気味の悪いほどに私の趣味をよく理解しているのだ。 「何冊か読んでる本を見ればわかるよ」とは彼の言なのだが、本当はやはりこころを読めるのじゃないか、 ともまだ疑っていた。あまり係わり合いになりたくない種類の人間だ。 もっとも、糸色にとって係わり合いたい人間など存在するのかも疑わしいから、いたって普通の関係ともいえる。


 言葉の美しさを堪能することは不可能だったけれど、内容の深さ暗さ痛さ救いのなさは 大変私好みであったことを否定しない。この手のグロさが嫌いな人間なら、なにが「絶望するな」だ、 といって本を壁に投げつけてもおかしくない内容だった。そろそろ祭りも終わり、下校のチャイムが鳴るころまで、 予定通り時間が潰せたと糸色は満足気に書物を閉じる。
「もう時間ですよ」
「はい、これを読んだら終わりにします」
 おざなりに注意を促した糸色に、素直に頷く久藤は優等生然としている。 彼の座る脚立はふたつとなりの棚に移動していた。つくづく底知れない読書量だ。
「もし、世界中のあらゆるものを読みつくしてしまったら、どうするんですか?」
 興味だった。もしかすると、確固たる目標と希望を持って生きる彼の、 絶望するところを探してみたかったのかもしれない。悪趣味すぎる興味だ。教師のする質問じゃない。
「え?」
 きょとん、と目を丸くして、久藤はとうとう本から顔を上げた。その目を見つめ返して (糸色がそれをするのはとても珍しいことだった)、同じ問いかけをする。
「あらゆるものを読んで、読み終えて、その後あなたはどうするんです?」
 後など来ない。世界中の本を読み終えるなど不可能に等しい。だからこれは本来なら彼の人生には 関係ない問いかけだ。そんなくだらないことに頭を悩ませるくらいなら、 一文字でも多く本を読んだ方がきっと有意義に違いない。自分で質問しておきながら、 そのことに絶望しかけていた糸色に、思いの外明るい声で久藤は答えた。
「でも、本は毎日増えていってるし。新しい本を誰かが書くのを待ちます」
 裏を感じさせない笑顔に、糸色はほっと安堵の息を吐く。そうだ、別に彼を絶望させる必要はない。 彼は、私とは違う生き物なのだから。
「気の長いことですね。待ってる間、つまらないでしょう?」
「そんなことないですよ。どんな本が読めるのか、楽しみだと思います」
 和やかな雰囲気の中交わされる会話に、くだらない質問を冗談に変えられた、そう思ったとき、 久藤の表情の一切が消し飛ぶ。こういう顔をされるのは苦手だ。 なにを考えているのかわからない人間ほど恐いものはない。
「寂しいのは、ボクが死んだ後にも誰かが本を書くことですね」
 私とは、縁のない人間なんだろうと思った。自殺なんて絶対に考えない人種だろう、これは。
「悲しい? いや、悔しいかな。ボクが死ぬ頃には誰も本を書かない世界になったらいいです」
「……そうですか」
 ぞくりと背筋が寒くなる。その世界というのは、人類が誰一人いなくなった世界じゃないのだろうか。 誰も自分の望まないことをしない世界。それは自分ひとりじゃなく、全世界の滅亡によって達成される。 そんなのは、……絶望的だ。


 読んでいた本を書棚に戻し、糸色は入り口の扉の鍵を開ける。 ……そういえばここに今存在しているのは糸色と久藤だけの密室だった。 久藤が鍵をかけていたのは、糸色が心の中で言い訳したのと同じ理由であったろうけれど、 鍵をかけることで世界と隔たれた空間を作り出すためだったのかもしれない。 この小さな世界の本なら、彼はもうすぐ読み終えてしまうだろう。そのときに彼は実行するのだ。 自分と、残りの人間すべてを消して、世界を完結させる。
 つまり、私を殺して、彼も死ねば、彼の望みは叶う。
 いや、バカな考えだった。彼は私ほどに人生に絶望していない。 もっと広い視野を持って生きられる望みがあるはずだ。
「では、また明日」
 明日は文化祭2日目。もう1日、あの不愉快なお祭り騒ぎが続くのだ。 あの喧騒が嫌いな私は、またここに来てしまうだろう。思いの外心地よかった、この密室に。
 久藤はもう私のことを見ていなかった。声も聞こえていないようだ。それで、いい。
 帰り際ちらりと覗き見た宿直室では、外の世界を呪い疲れた少女が安らかな寝息を立てていた。 予定調和。明日もまたこの絶望的な日常が繰り返されるのだろう。今日、私が死ななければ。