リアリスティック・ヒステリシス
先生はなにを見ているんだろう。
繊細で傷つきやすいあのひとの目にこの世界はどんな風に映っているんだろう。
同じものを見たいと駄々をこねられるほど、ボクは幼くいられなかった。
それはきっと先生がボクより大人だったせいなのに、あのひとはボクを卑怯だと責める。
もっとあのひとを振り回して困らせられたら、少しはボクに思いを留めてくれたとでもいうのだろうか。
なんでそんなにも簡単にすべてを捨てられるの。未練はないの。
あのひとの心残りになれなかった自分が悔しい。もっとちゃんと捕まえていればよかった。
せんせい。好きだっていえばよかったの?
(住む世界が違うんだよ。)
残酷な女の子が言った。自分の目に映る世界を正確に描写する女の子だ。
彼女のそういうところがボクは好きだった。だからその正直に傷つけられてもボクは泣かない。
彼女を傷つけるためのナイフをボクは持たない。
先生も、他人を傷つけるためのナイフを持たないひとだった。
ボクと先生とで決定的に違ったのは、ボクはその切れ味を知らないけれど、
先生は自らの身を以て知っているということだ。先生はいつもナイフを握って、刃を自身に向けている。
ボクが滅多に持つことはないナイフは、あのひとにとっては手放せない精神安定剤のようなものだった。
ついでに言うなら彼女は、躊躇い無くナイフを振るう。正確無比に、切り付ける。
切り刻んだ結果がどんな形になるかは眼中になく、ただその「切る」という行為が彼女のすべてだ。
(でも、全部がダメになるほど違うわけじゃないよ。)
下を向いてこぼしたボクに、彼女は可憐な笑みを向ける。それが彼女の優しさで残酷だった。
ボクはあまり現実を捕らえるのはうまくない。ぼんやりとしたヴェール越しに世界を見てる。
だから少しでも似通っていれば満足なのだ。
先生は、そんなに強くない。そして悲しいことに、ボクには先生の悲しいところがわからない。
同じものを見ていると思っていたのに、実際はまったく別のものを見ていた。
先生が我慢ならなかったのは、ほんの小さな小さな差異だという。
違うものでも大丈夫だという確信がボクにはある。そして先生にはない。
それだけのことなのに、どうしてこんなに悲しいんだろう。
(先生はダメなのよ。)
正直な彼女。現実を的確に描写することば。ボクは嫌いじゃない。
でもボクの世界はもっと甘くてやわらかいんだ。先生だって気に入ってくれたよ。
今はもう、死にたいくらいキライみたいだけど。
(どうしてかな。)
ボクは質問する。きっと彼女は正直で残酷な答えをする。
(だって、先生とあなただから。)
***
(ぜんぶ同じって、そんなにいいものかな。別のものだから、価値があるんじゃないかな。)
ふたつあるということは、取替えが利くということだ。それよりも唯一無二の存在である方がいい。
ボクは同じ本は二度は読まない。それと同じじゃないだろうか。
そうじゃないよ、と彼女が言った。
(久藤くんはみんなの中での話をしてる、でも先生は、ふたりだけの話をしてたの。)
(先生には「みんな」じゃ多すぎるの。重すぎるの。そんなに、持てないの。)
(でも、久藤くんは、ふたりじゃ足りなかったんでしょ。だからダメなのよ。)
そんなことはない、と、言おうとして口をつぐむ。先生の感じたこと考えたこと、
ボクにはちっとも理解できなかったのだから。
ボクはそれほど他人を求めたことがない。
たくさんの人間を集めた鍋でぐつぐつと煮込まれるような場所が学校で、
ボクはその中で浮き上がってきた灰汁のようなものだ。
そしてそれは先生も彼女も、先生のクラスにいた誰もがそうなのだと思っていた。
先生のクラスは、そういう灰汁の集まりだった。いらないものだと分別され、やがては捨てられる、そんな集まりだった。
同じように選別された「いらないもの」の中でも、ボクと先生は同じ種類の存在だとボクは思っていた。
そして彼女もまたボクらに近かったけれど、ボクが「同じ」だと感じたのは先生ひとりだけだった。
だけどボクは。
(……先生は、どこにいったのかな。)
だけどボクは、先生から逃げたことがある。
恐かった。儚げで傷つきやすいあのひとを、ボク自身の手で壊してしまうのが恐くて、
小さく小さく開かれた扉に、気付かない振りをした。
(さあ。でも、ひとりになりたかったんじゃない?)
こころの奥の奥まで踏み込んでいって、壊れない自信も壊さない自信も持てなかった。
はっきりさせたくなかった。明快さは鋭すぎて危険だから。曖昧なままで安心していたかった。
そのことを先生は、怒っているのだろうか。
(ボクがいけなかったのかな。)
(そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。)
彼女には珍しいあいまいなことばだった。首をかしげて、地面に視線を落としていた。
さらりと前髪が揺れて、表情を隠す。赤い唇は笑みの形をしていた。
(わかんないよ、だって私も、先生じゃないんだもの。)
そのとき不意に、不安定だった先生をどこかへ突き落としたのは、彼女だったんじゃないかと気づいた。
傷つけることばも慰めることばも想いを伝えることばさえ、決定的なことはひとつとして言わなかったボク。
いくつもいくつもあふれてくる優しい物語に身を潜めて、息を殺して、あったかいものだけ広げて見せた。
そんなボクが、先生を決定的に傷つけることなんて不可能だ。
先生は彼女に切られて、きっとどこかで泣いている。側に行って、慰めてあげなくちゃいけない。
だけどボクにできるだろうか。物語じゃ先生に寄り添うことはできても、救い上げる力にはならない。
それは痛いほどよくわかった。
至らないボクのままじゃ先生は帰って来ないだろう。ボクはそっとこぶしを握る。
(先生はどこにいるのかな。)
彼女はボクの目をまっすぐに見て、にっこりと笑った。
彼女の握っているナイフには柄がない。
真っ赤に染まった手が、ボクの背後を指差す。
ぽたりと、彼女のてのひらから落ちた水滴が、砂地に丸い穴を開けた。