月明絶佳


 ぺたぺたぺた。ぺたぺた。たたっ。……ぺたぺたぺたぺた。

 水音がする。どこか蛇口の緩んでいる水道があるんだろう。 廊下に張ってある「節水」の文字が見えないのだろうか。 どこの誰だかしらないが、随分と注意の足りない人間がいたものだ。
 普段の自分の考えの足りなさを神棚かと見紛う立派な棚に上げ、糸色は外套を頭からかぶった。

 静まり返った暗い学校で、唯一の明かりを灯した職員室に、終わらない仕事を抱えた糸色はひとり残されていた。 仕事熱心とは口が裂けても言えないし言うつもりもない糸色だが、それでもこなさなければならないノルマは存在する。 熱心ではないことが災いして、今日の居残りとなったわけだ。
 つい先刻まで同じ境遇にあった同僚は、ノルマを達成するや否や明るい表情で挨拶をして出て行った。仕事をする人間を残して帰宅できるというのは実にすがすがしいものである。 いつもは糸色がそれを味わう側であった。だからこそ、の今日の日だ。

 ぺたぺたぺた。
 まだ聞こえる。誰か、閉めてくれないだろうか、あの蛇口。いや閉まるのも嫌だ。 聞こえるのも嫌だけど、蛇口はひとりで勝手に閉まることはないのだから。

 ぺたぺた。
 聞こえてくるのは水音。だらしのない生徒が、もしくは教師がきっちり閉めずに終えてしまった蛇口のせい。 糸色のクラスの妙に潔癖な女生徒がいたらきっと怒る。
 糸色はさらに外套の前身ごろを引き寄せた。もはや仕事が手につかない。
 気づかないようにしていることが、ある。蛇口は勝手に閉まらないが、勝手に開くこともないといくことだ。

 ぺたぺた、ぺた。
 絶望が近付いてくる音がする。いや、気のせいだ。水道の蛇口は動いたりしない。足なんかない。
 ……足?
 ふと、思い立って糸色は被っていた外套を除け、顔を上げる。
 誰もいない学校に足音が聞こえると認識するのが恐くて、嫌だった。しかし「これは足音だ」と認識してしまえば、実に馬鹿馬鹿しいほどすっきりとした解答が見えてくる。
 そうだ。この学校には座敷童、……いや不下校少女がいるのだ。



 廊下の窓から差し込む月明かりをたよりに、糸色はそろそろと歩を進める。念のため外套は被ったままだ。
 足音の正体を決め付けて安心したかったのだが、万が一という可能性も否定しきれない。それでも直接たしかめに行こうと考えたのは、彼女に会えばとりあえず「誰もいない学校にひとりきり」という状況だけは否定できるからだ。もしも彼女がいなかったら、なんていう可能性は考えたくないので最初から考慮しなかった。

 彼女が住み着いているのは、以前の宿直室が使われなくなって物置になっていた教室だそうだ。糸色が赴任してきたときにはすでに物置であったから、その部屋の以前の用途を聞いたときには、「宿直」などという恐ろしい当番が廃止されていて本当に良かったと安堵した。夜の学校にひとりで泊まるなんて冗談ではない。
 ……今から様子を伺いに行くのは、その「冗談ではない」行為を毎日続けている豪胆な少女ではあるが。

 彼女は他に類を見ないほど頑固な引きこもりだった。彼女より先にも幾人かの引きこもりの生徒を見てきたし、糸色自身その素養がないと言えば嘘になる。
 しかし、その中に学校に引きこもってしまおうなどという人間はいなかった。引きこもる場所を選ぶなら、学校などというよそよそしい空間ではなく、自分の慣れ親しんだところでなければ安心できないだろう。
 彼女は自身の安全基地から出んとするがために引きこもっているのではなく、引きこもることそれ自体を目的として引きこもっている。場所は、どこだっていいのだ。ただ、他人の干渉さえなければ、それで。

 糸色は彼女の担任教師という立場にある。つまり、赤の他人だ。彼女に言わせれば、彼女以外のすべての人間、彼女の肉親でさえも他人だろう。他人と関わらないために引きこもっている少女に干渉しようとしてしまうのは、本来糸色の望むところではない。誰にも関わりたくない、誰にも関わられたくないとする心情は、わかりすぎるほどに理解できる。できればその意思を尊重してやりたいと思っている。
 けれどことあるごとにその決意はあっけなく揺らぐのだ。所詮は他人。彼女より誰より、糸色がそう考えているから、自分の都合より他人の意思を尊重することなどできるはずがなかった。

 暗い夜道は思考をも暗く沈ませる。歩を進めるたびにどんどん落ち込んでしまい、とうとう会うのはよそう引き返そうと思い始めたとき。
 ついに、目的の少女を発見してしまった。

  「小森さん?」
 声をかけると、少女は「ひゃっ」と声を上げて、身にまとっていた布団を頭からかぶった。静寂の落ちる廊下で、外套をかぶった男と、布団をかぶった少女が対峙している。考えるほど滑稽だ。
 あわせた布団の隙間の向こうの、表情をすっかり覆っている前髪の隙間から、こちらの姿を見つけた少女は、驚きにすくませていた身体から力を抜く。そろそろとくるまった布団から顔を出す様が、どこか小動物のようだった。なにに似ているのだろう? と具体的に想像しかけて、つのをだしたりひっこめたりするかたつむりや、甲羅からあたまをのぞかせる亀などしか思い浮かばないことに気付いてやめた。かたつむりも亀もあまり好きな部類の生き物ではない。ぬめっとしていたり、ぬらっとしていたりするものは、ちょっと苦手だ。もちろん目の前の少女からは、そんな粘性の印象は微塵も受けない。

「先生、なにしてるの」
 ぺたり、と一歩を踏み出すはだしの足が、布団の陰から見えた。毎日掃除をされているとはいえ、きれいとは言いがたい場所なのだが、少女は気にした様子もない。
「見回りです」
 そうするに至った理由について隠蔽してはいるが、嘘をついてはいない。ここでしれっと嘘をつくことにもなんのためらいもないのだが、嘘はイザと言うときにだけとっておいた方が価値が増すものだ。それに、糸色はあまり嘘が得意ではなかった。
「……その格好で?」
 けして不自然な受け答えではなかったはずなのだが、少女には大変不審そうな顔をされた。そういえば自分は、頭から外套を被っている。せめて声をかける前に肩に落とせばよかった。絶望した。
「寒いんです!」
 焦って言い募れば、少女は「そう」とうなずいて、おそらく一発で嘘だとわかっただろうに、それ以上なにも言わなかった。
 ぺたぺたと糸色が恐れていた音をさせて、廊下に並ぶ窓のひとつに寄っていく。正体がわかってしまえば、なんてことはない。

 少女は窓の外を眺めている。糸色にはその場から動いて少女の隣に並ぼうとは思えない。放っておかれるようになったのが居心地悪く、すらりとまっすぐな黒髪が落ちる丸まった背中に声をかけた。
「暗いのに、出歩いたら危ないでしょう」
 余計な心配をさせないでほしい、とまったく自分本位なことを考える。
「今日は明るいよ。満月だから」
 振り返りもしなかった少女が、窓の外、暗い空に浮かぶ丸い月を見上げながら答えた。昼の太陽とは違う、青白い光が振りそそいで、彼女をぼんやりと照らす。もともと色の白い肌が素直に月光に染まるのは、まるで病人の肌色のようでいただけない。
「……そうですね」
 おざなりに返事をしたことが伝わったのか、少女が窓に手をかけたまま身体を傾けて、こちらを向いた。
「晴れてるしね」
 夜の天気など気にしたことがなかった。この時間なら通常は、もう家にいてカーテンを引いている。月が丸かろうが欠けていようが、糸色にはさほど関心のない話だ。
 彼女はいつも見ているのだろうか。
 夜の学校にひとりきりになって、そろそろと自分のテリトリから抜け出して。

「……あなた、引きこもりでしょう」
 咎めるつもりはなかったが、呆れた口調にはなってしまったかもしれない。
「引きこもりだってご飯は食べるし、トイレにも行くよ」
 大人のそんな対応にはすでに慣れきってしまったのか、少女に悲しむ素振りはない。糸色の教室にいるたくさんの少女たちと同じように、口元に笑みさえ浮かべてみせる。彼女たちの考えることが糸色にわかったためしはない。わかるつもりもなかったが、そこはかとなく不愉快になるのも本当だった。なぜなら糸色は、中途半端に教師であるという自覚をもっていた。
「ご家族は心配なさっているんじゃないですか?」
 なるべく感情の浮かばない無機質な声色で少女に語りかける。こころに届くことは望んでいない。形式上、というやつだ。仮面と言い換えてもいい。本心を知られたくないときに被る教師の仮面だ。
「帰れっていうの?」
 冷たいことばを吐いたつもりだったが、少女の顔から笑みは消えない。傷つける意図はなかった。ただ、少女との間に距離をとりたかった。
「……言いませんけど」
 目論見が上手く運んだにも関わらず、糸色は困惑する。笑いかけられるのは、苦手だ。

「帰るってどこに?」
 そう言って、少女はそろりと月光に添うように天を仰いだ。視線の先を追って、糸色はかすかに青くそれ以上に白く輝く満月を視界におさめる。
「……月?」
 しんとした廊下に糸色の呟きのみが響いた。学校という閉鎖的な空間であるせいか、外の喧騒は届いてこない。木々を揺らす風もなく、夜を徘徊する獣の気配も、先ほどまで糸色を脅かしていた水音もない。

 くすり。遠慮がちにこぼされた少女の笑む音がやけに大きく耳を打った。
「先生って、ロマンチストだね」
 誘導したくせに、とくすくす笑う少女が恨めしくなる。だがそれに引っかかったのは事実だ。少女の方がよほど上手く、糸色を思惑通りに動かしている。
「悪かったですね」
 失態を恥じて、糸色はふいと顔を背けた。少女はぺたぺたと音をさせて窓から離れ、糸色の目の前に立つ。ちらりと横目で盗み見れば、彼女はまた元のように頭から布団を被っていた。身体をすっぽりと覆う彼女の殻の隙間から、ひときわ華やかな笑顔がのぞいている。
 ああ、絶望だ。絶望がこちらを見ている。

「じゃあ、おやすみなさい」
 ぺこり、と、軽く会釈があって。少女は重そうな屋根を背負ったまま身を翻した。
「ええ」
 ぺたぺたぺた。
 足音を響かせて少女は闇に消える。
 気を揉んでいた蛇口の水は止まった。糸色はそれをほんの少し、寂しく思った。