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沈みかけた太陽が作り出す景色は、鮮やかにも死を誘う匂いを辺り一面に充満させる。赤と黄と橙の絵の具をぐちゃぐちゃに練り潰したような色を、教室の壁という壁、床という床、机や黒板や窓ガラスにさえ塗りたくってなお、まだ染め上げるものを求めるように人肌をも染める。憂鬱な風景、としか言いようがない。もしこれがカンバスに描かれた一枚の絵だとするなら、その題目には重苦しく心を圧迫する負の情念を滲ませるものが相応しい。まさに絶望の風景だ。
「将来の夢とか、ないんですか」
そろそろ蛍光灯をつけようか。この子の指導が終わったら、そうだ、教室を出る前に明かりをいれてくれと頼めばいい。強すぎる人工の照明はそらぞらしくて好きではないのだが、夜も細々と活動する文明人としては選り好みもしていられない。陽が沈んだら目を閉じて眠ればよかった時代を羨ましいとは思わない。
「だって先生、絶望しかないって言ってたじゃないですか」
件の進路希望調査の用紙をよりにもよって白紙で出したこの生徒は、元々特に問題のある生徒、というわけではなかった。
久藤准。成績優秀で、人望もあり、少し内面的な世界に引きこもる傾向はあるが、要領は悪くなく、それなりの処世術を身につけている。自分の好きなものに対してはシビアな評価をするが、それ以外で皮肉を言ったり斜に構えてみたりするような子ではない、はずだ。教師の揚げ足をとって遊ぶようなマネを面白がる人格でもない。
「調査なんてものがキライなだけですよ。数を数えるのは分じゃないんです。不相応なことをしても仕方ないでしょう?」
逆に詭弁を弄するのは本分だ。理屈を言ったり言い訳を考えるのは得意分野だという自負もある。ただ、どうでもいいことには上手くできて、肝心の煙に巻きたいことは明るみにでてしまうことが多い。技術のせいと言うより、それが世の理なんじゃないかと思うようにしている。
「なにか、なりたいものとか」
「ぼく、」
ため息を我慢して続けた促すことばを遮ったのは、予想外の思い詰めたような表情であり、それを目の当たりにしてしまった糸色はすぐに後悔をした。余計なことを聞いてしまったのかもしれない。つついた藪からなにが飛び出るのかが恐ろしくて、思わず生徒から目を逸らした。
「先生、ぼく、本のシミになりたいんです」
なんて。
「……」
なんて真剣な顔で声で仕草で、大人をからかうんだろう、この子は。
「久藤くんは」
長く長くため息を吐きだした糸色は、重く澱んだ空気をさらうことばをさがす。このようなことをうそぶく手合いではないと油断していたのがよくなかった。何度も繰り返してきた後悔だというのに、己の教師としての資質に何度目かの絶望をするところだった。
「久藤くんは、自分で本を書きたいという希望はないのですか?」
彼の将来をわかりやすい形のものにあてはめて扱いやすく片付けようなんて気持ちは思惑の半分くらいでしかなかった。残りの半分は、久藤の作るストーリーがそんじょそこらの本より上手いし泣けるしなにより面白いから、きっと彼が本を作れば喜んでそれを買う人がいるだろうとか、そのひとりに自分もなれるだろうという希望があった。
「はぁ」
久藤は思案顔で首を傾げる。本を読んでいるとき以外の彼が見せる幼い仕草が、他のクラスの女子に受けてひそかに人気であるらしいとは風の噂だ。不思議なことに糸色のクラスの女子には、そんな気配は微塵も見受けられないのだが。
「あんまり興味ないですね」
気のない返事をされたことは糸色にはとても意外だった。誰より本が好きで、誰より話作りも上手い彼だから、きっと将来は作家なんて夢を描いているのじゃないかと、誰もが思っているだろうに、当の彼本人はそう思われていることがさも不思議だと言い出しかねない表情だった。
「興味ないんですか。全然?」
さきほどの戯言は、わかりきった質問に答えさせようとした糸色を責めているのではなかったのか。たたみかけるように尋ねる糸色に、久藤は困ったような曖昧な笑みを浮かべて見せる。
「書くより読む方が好きですから」
なんて自己主張のないことだ。自分の作り出したものを誰かに見てほしいと思うのは、人間として当然の欲求じゃないだろうか?
いや、彼も人前で語ることは好きなはずだ。本という形態に興味がないということだろうか。読むのは好きなくせに。
糸色がよほど意外な顔をしていたのか、苦笑を浮かべた久藤がはにかみながら付け加える。
「ぼく、読み終わった本をもう一度読むのとかも、苦手なんです」
ひやり、と首筋が冷えた。穏やかに微笑む彼が、とても残酷なことを言った様な気がしたのだ。
「へぇ……そうなんですか」
「それに、一回作ったお話って、もう思い出せないし」
だから書けないんです、と悪びれなく久藤は笑う。一回済んでしまったお話は、彼の中ではすぐに失われてしまうらしい。糸色が感動したあの話も、思わず涙したあの話も、もう一度とねだっても彼には二度と語れないということか。
それは、なんだか、とても、とても、上手く言えないけれど、上手く捉えきることもできないけれど、なんて言うか、それは。
とても悲しいことなんじゃないだろうか、と、糸色は思った。
ほどなくして、うまい着地点の見つからなかった面談はタイムリミットを迎える。「じゃあ、先生さよなら」と去り際に言い置いて、久藤は扉の向こうに消える。赤黒く染まった教室にひとり残された糸色は、しばらくその扉をぼんやり眺めて、ふと照明をつけてくれと頼むのを忘れたことを思い出した。
どうしたものかと一瞬悩んだが、今日の面談は彼で最後だったはずだ。本当はもう少し面談の内容を整理したりなど仕事をしようと思っていたのだが、そんな気も失せてしまったので、さっさと帰ることにする。
持参したいくつかの書類をかき集め、戸締まりを確認すべく窓際に寄ると、眼下の校庭を門へ向かって横切る長い影が見えた。糸色のあまり性能の良くない視力では、時間帯も手伝って誰彼を判断するのは難しいのだが、ぴんとはった背筋が手元に文庫本を開いて歩いて行く姿は、先刻までここにいた生徒であることを見間違いようがなかった。
こんな、明かりのなくなる寸前の空の下でさえ文字を追うほど飢えているものがあることが、彼にそれ以外を望むことをさせないのだろう。完全に閉じた世界の中、彼は疑問を持つことすらなく身を浸して生きている。いや、生きていると言えるのか。
自分がもう少し、あとほんのわずかだけでも世界に希望を持てていたのならあるいは、彼をそこから引きずり出してしまえたのかもしれない。けれど幸か不幸か糸色は、それをするには絶対的に不適当な人間だった。
「いつでも一緒に死んであげますから」
それ以外かけてやることばが見つからなかった。いつぞや思い余って口にした糸色に、きょとんと眼を丸くした久藤は、次にくすくすと肩を揺らして笑いだした。
「なんですか、それ。先生らしいけど」
糸色一流の冗談だと受け止めたらしい久藤に、本気だったと訂正をすることはしなかった。冗談だと受け止められたのなら、そのままにしておくべきなのだ。これがだめなら、糸色が久藤にしてやれることはなにひとつない。
長く伸びた影が途切れ、宵闇に染まり始めた校庭には誰の気配も感じられなくなった。うるさいほどに纏わりついてきた赤の色はもうどこにもない。
ああこの景色に名前なんかきっとつかない。つけるものは誰もないのだから。