抽斗の奥にでも


「先生、聞きたいことがあるんです」
 歌うように投げかけられたことばに糸色は数瞬反応することをためらった。
 彼は生徒で自分は教師だ。問われることになんら不思議のない関係だ。
 それなのに糸色は、生徒である久藤の質問の前に立つことを躊躇した。深い澱みのように静謐な彼の双眸を、真正面から見返すことが恐ろしかった。
「……なんですか?」
 間の空いた糸色からの許しにことりと首を傾ける仕草がどことなく不相応で、そう思うのは彼が同級の仲間たちには絶対にそんな態度をとらないと知っているからだ。単に糸色が彼よりもずっと年嵩で、教師という序列にあることが、普段は沈静している彼の稚さを浮かび上がらせているだけだとしても、いつもいつも過ぎるほどにしっかりとした頼りがいを発揮している久藤が糸色の前で不意に見せる幼さが、どうにも苦手に映るのだ。
 一呼吸の後、糸色のこころの準備を待っていたかのように久藤がうっすら笑みを刷く。まるで悪意なんて持ち合わせがないんだと言わんばかりの無垢をまとって。
「どうして先生は先生になったんですか?」
 今度こそ糸色は完全に完膚なきまでに沈黙した。
 答えられる答えを持っていなかった。答えられようはずがなかった。
「本当にそんなことが聞きたいんですか?」
 質問に質問で返す教師なんてあるだろうかと己を省みそうになった寸前、久藤がほんのわずか、両の瞳を瞠った。あまり表情の読めない彼が珍しいこともある。糸色は興味をひかれて久藤の次のことばを待つ。
「すごいですね。先生こそ、ぼくのこころが読めるんじゃないですか?」
 どうやら糸色が突いた藪にはとんでもないものが潜んでいたようだ。そんな不運には慣れているといって、ありがたいものじゃあけっしてない。過去を振り返るのは得意だが嫌いだった。たとえ彼が糸色の言動をあげつらう性質の人間ではなかったとしても、糸色は他人の言動を己に都合悪く解釈することを、息をするよりも自然な反射として備えている。
 他人のこころが読めるわけはないというのは子どもでも知っている(現に糸色の甥っ子も久藤が人のこころを読めることを信じなかった)。それでも訝ってしまうのは誇大妄想であり、過ぎれば病として扱われる程度のよくある心理的反応だった。その手の病に親和性のある糸色が、彼のアルカイックなポーカーフェイスに恐怖しないわけがない。
「そんなわけないじゃないですか」
 幾分尖った声で大人げなく反論した糸色に、久藤ははにかむように笑った。
 放課後の進路指導室。名ばかりは窮屈で陰鬱なイメージを抱かせるが、教室とするには少々手狭な空きスペースに名前を付けたにすぎない。
 窓からは赤味がかった光。下校を促すトロイメイライが響く。
 こんな面倒くさいことはさっさと終わらせたいのに、目の前の生徒は重い腰を上げようとしない。
 悩みがあるのはわかったけれど、多分、彼は相談する相手を間違えている。今日はカウンセラの出勤日でないのは心得ているが、だからといって代わりに糸色を選ばなくてもいいのに。自分が彼の担任であることは棚の上にあげてしまったのでもう見えない。
「先生、ぼく、どうしたらいいんでしょうか」
 久藤が悩んでいるのは己の進路について。なんと高校生らしい悩みだろうか。
「……それはあなたが決めることですよ」
 大学進学率が50%を軽く超過しているこのご時世、とりあえず大学に入って興味のある分野を探ってみればいいんじゃないですかね〜。
 ことばにするつもりのない当たり障りなさすぎる定型文が脳裏を横切っていく。
 そんなことは彼だってわかっているのだ。求められていない答えを単調に返してやれるほど糸色は優しくない。さっさと失望されて、面倒な相談など持ちかけられないように切り捨てられてしまえばいいのに。
「先生は教えてくれないことなんですか」
 他我の境界線を引くにとどまった糸色の煮え切らない突き放しに、久藤がまなざしの色を強める。教室で静かに物語を眺めているときの彼は、どこか冷めているし特技を披露しているときより余程強気だ。
「そうです。先生そこまで責任もてませんから」
 さっさと教師である責任までをも放棄するのは、教師としてなら軽蔑されようが失望されようが痛くもかゆくもないからだ。ひとつ失くすことで、糸色はなにかを守ろうとしている。プライドなんて煮ても焼いても食えないものではなく、生き延びるためにもっと重大な、根本的な、なにか。
「責任、とかじゃ、なくていいんです。ただ本当に、あさっての方でもいいから、指とかさしてみてくれませんか」
「なくていいと言われても、そんな無責任なことできません」
 気軽い振りをしてねだってくれるけれど、久藤が求めているのは教師として果たさなければいけないレベルの責任じゃない。そんな重いもの、糸色の細腕では太刀打ちできるはずがなかった。
「どこを指されてもどうにかなる自信はあるんですよ。ただ本当に、先生に決めてほしいんです」
 真剣さに騙されそうになるが、彼の言っていることはめちゃくちゃだ。支離滅裂というほどではないのが殊更性質が悪い。確実に論理は破綻しているのに、うっかり見逃しそうになる。
「根拠はあるんですかその自信……」
 その話はもういいんだと言わんばかりに思いつめたようなまなざしがすがりついてくる。
 どうやってこれを振り払えるのか、載っている教科書があるならぜひ読みたい。なにがなんでも読ませてほしい。
「先生に、ぼくの人生にかかわっていてほしいんです。これからもずっと」
 ひどい侮辱だと思った。
 同時に、とても魅力的な誘惑だった。
 そんな乱暴な方法でしか記憶に残れない教師なんて、早く忘れてしまえばいいのに。