笛の音はまだ遠い

 古い木造校舎の、奥まった場所にある図書館は、教室の喧騒から隔絶された穏やかな空間だ。
 今でこそボクは比較的きちんと教室にいるようになったが、入学した当初は不登校の生徒よろしく、図書館に入り浸ってばかりいた。その悪癖が治まっているように見えるのは、図書館中の本を読みつくしてしまったので、教室に行く余裕ができただけの話。新着図書があったりすると、やっぱりボクは教室よりもここに先に来てしまう。
 大抵の時間はボクが図書館をひとり独占しているが、もちろん他の生徒もここを訪れる。そんなときは貸し出しカウンターに座って、本を読む合間に仕事をしたりもする。ボクは本を読むのも好きだが、本の世話をするのも好きだった。
 はじめは図書委員などではなかったのだが、あまりにもボクが図書館にいすぎるので、2年に進級したときには、委員会を決めるHRを欠席していたにも関わらず自然にそういうことになっていた。他の誰よりも図書館のことに詳しいのがボクなのだから、文句なんてあるはずもなく、事後報告があったときも疑問にさえ思わなかった。
 所狭しと並べられた本棚に、誰も手が届かない一番上にまでぎっしりと本が納められた様には身震いがする。背丈は合わないが、本棚の淵にあわせて揃えられた背表紙を指でなぞりながら、ひとつひとつタイトルをたしかめる時間はなにものにも変えがたい幸福を感じる。時折あやまった順番と場所に配置されてしまったはぐれものの本を、きちんと分類どおりの場所に連れ戻してあげられたときの快感といったら、自慰の何倍も気持ちがいい。
 とにかくボクは本が好きで、本に囲まれてさえいれば満足だったのだ。

 木製の立派な扉に手を掛けると、ぎし、と軋んだ音をたてて、だけどさほどの抵抗もなく内側に開いていく。立ち並んだ書棚のせいで手狭だけれど、そこが愛おしいボクの城だ。正確にはボクの所有物ではないけれど、いつかはこんな場所を自分のものにしたいという夢も見られる。
 珍しく先客のあることには、足を踏み入れた瞬間に気付いていた。
 図書館の1階は、入り口のすぐ横にカウンターがあって、その前に最近の新聞や雑誌の棚とソファ、奥に禁帯出の参考図書が並んでいる。背の低い参考図書の本棚の側には4人がけの勉強机がふたつ、並べてあって、あまり使用者のいない目立つ位置にあるその机は、場所など関係なく手当たり次第に本を読むボクか、時折暇つぶしに訪れる図書館の管理者でもある糸色先生か、大きな机一面に本を散らかして書きものをしている女生徒、この3人が座っているのしか見たことがない。(と言っても、自分が座っている姿を見たことがあるわけではないのだが)
 彼女、クラスメイトの藤吉晴美さんは、普通の女生徒のようでいて一風変わった、不思議なひとだ。
 クラスの中では比較的図書館を利用しているので、対人記憶の不得手なボクが早い時期に顔と名前を一致させた女子のひとり。ボクと同じ図書委員で、ときどき時間に追われるような言動をしてボクに仕事を押しつけることもあるが、それ以外ではしっかりした真面目なひとだ。
 そしてボクのよき相談相手でもある。よき、というのは、ボクにとって都合のいい相手という意味だから、彼女にとってははなはだ迷惑な配役なのかもしれない。

「藤吉さん、ちょっといいかな」
 側に寄っていって、机を挟んだ正面の椅子に腰掛ける。彼女はちらと顔を上げてボクを視界にいれ、それからまた伏せた。面と向かって迷惑だと言われたことはないが、あからさまにそれとわかる素振りはされている。処世術というよりは皮肉やあてつけに近い。
「悩み事なら智恵先生に聞いてもらえば」
 せかせかと動かす手を止めない藤吉さんは、そう、面倒そうに呟く。相変わらず彼女の周りの机は様々の種類の本が散らかっている。『ダーウィンの衝撃』『宮沢賢治語彙辞典』『江戸の蔵書家たち』『生物海洋学入門』『万物の尺度を求めて』『幻想の図書館』『恋愛のディスクール』etc,etc,……もちろんボクはすべてに目を通したことがあったが、それらを合わせてなにがしたいのか、皆目検討もつかないのだった。
 どうやらこういう乱雑さが目立つときの彼女は、特になにをしているわけでもないらしい、というのがボクの見解だった。本当に忙しいときの彼女は、ボクなど視界にいれてくれることすらないのだから。
「そんな深刻じゃないよ」
 笑いながら答えたが、それは嘘だった。比較的真剣に悩んでいる。
 でもボクに必要なのはカウンセラではなく、歯に絹着せぬ他人の意見なのだ。カウンセラはクライエントの発言を否定したりしない。今のボクは自分の深層意識ではなく、自分とはまったく違った考えが聞きたい気分だった。
 それに本当のことを言うと、藤吉さんはさらに面倒がってしまうだろうから、ボクは嘘をついたのだ。面倒なことをお願いしているという自覚は、あった。
「じゃあ、カフカに言えばいいんじゃない?」
 仲良いでしょう、と藤吉さんが言うのに、ボクは肩を竦める。仲が良いかどうかはわからないが、カフカはボクと同類だからだめだ。ボクが聞きたいのはボクとはまったく違う価値観からの視点だ。
 藤吉さんというひとは我がはっきりしていて、他人の意見を封殺せしめることが恐れなく出来る得難い人格だ。その酷薄さは、原因と状況を限定すればカフカをもしのぐかもしれない。自分に相容れない趣向にはけして染まらない頑固さには、憧れる部分がある。
 それになんといっても、糸色先生から一線を引かれていて、なおかつそれをまったく意に介さないところがいい。ボクもそうなりたいとまでは言わないが、少しだけ見習いたいと思っている。今のボクは、彼の一挙手一投足にこころを奪われすぎるところがあるから。

「こないだ先生の家にいったときにさ、」
 勝手に話し始めてから、ボクはことばを切ってふと笑った。反省しようと思ったばかりなのに、藤吉さんを煩わせてまで相談したいことは、やはり彼のことなのだった。
 そのどうしようもなさが、本当にどうしようもないんじゃないかと思えて、おかしかった。
「え? 先生の家? なんで?」
 話すのをやめようか、と思いかけたところに、藤吉さんから意外なほど熱心に食いつかれ、ぽかんとなる。持っていたペンを手のひらで机に押し付けるように投げ出した彼女は、顔を上げきっちりとボクの方に向いていた。やはり彼女は読めない。先生は何気に女生徒に人気があるけれど、まさか藤吉さんまでもがそのひとりだったのだろうか。
「うん、本を借りる約束で」
 胸に浮かんだ疑問は一瞬で打ち消して、本来の話題にのせていく。藤吉さんに限ってそんなことがあるはずがない、となぜか確信に近く思った。
「本? わざわざ先生に?」
 訝しげにひそめられた彼女の眉間のしわを数えながら、つい先日の出来事に思いをはせた。
「うん、ずっと探してた本を持ってるっていってたから」
 ボクの述べた理由が合点のいくものだったからなのか、「ああなるほどね」と藤吉さんは急に興味を失くしたように再びペンを握りなおした。
「ふーん、それで?」
 相槌がどうでもよさそうなものになっている。彼女のテンションのスイッチはどこにあるのだろうか。
「今先生のとこに交くんがいるだろ。それで、」
 ゆっくり話し始めたボクのことばを、彼女は聞いているのかいないのか、うんうんと頷きながらペンを動かしている。

 ボクが読みたいと言った本を先生は持っていると言ったのに、所在を不明にしてしまったらしい。今探しているから少し待っていてくださいと、丁寧なのか横柄なのかわからない態度で言われた。先生は何事も下手に出ることが多いひとだけれど、同じくらいわがままでもある。
 お茶などは出てこなかったが、常月さんが勝手知ったると言った様子で「適当に飲み物出していいよ」と冷蔵庫を指差し、先生がごそごそやっている二階に消えていったので、遠慮なくいただくことにした。緊張していたのかもしれない。ボクは喉が渇いていた。
 熱い飲み物を飲む気分ではなかったので冷蔵庫を覗いていると、お昼寝から起きたらしい交くんが側に寄ってきて一緒に覗くので、戸棚から取り出すコップはふたつになった。先生の家の冷蔵庫には、小さい子がいるのにも関わらずジュースや牛乳なんかは入っていなく、麦茶ポットに八分目まで入った麦茶があるだけ。たまたまそれしかなかっただけかもしれないけれど、なんとなく、先生らしい、と思った。
 コップに注いだ茶色の液体は、飲んでみたらウーロン茶であることがわかった。交くんは文句も言わずに飲んでいるから、きっとこの家にある飲み物は大概これだけなんだろう。戸棚に日本茶がいくらかあるが、子どもが好むようなものでもないし。
「あ、久藤」
 庭先から声がして、振り返るとクラスメイトの木津さんが呆然と立っていた。ボクの膝の上で絵本に夢中になっていた交くんが、びくりと身体を硬くしたのがわかる。
「木津さん、マリア、こんにちは」
 庭先で立ちすくむ木津さんとは対照的に、浅黒い肌の少女はさっさか縁側に上って「オハヨ」とボクと交くんを交互に見た。今度は交くんもほっとした様子でボクにすがり付いていた手をマリアに伸ばす。
「なんでいるの?」
 木津さんは悪夢でも見たような苦虫を噛み潰したような顔で呟く。多分ボクにむけられた呪詛だろう。呪われる理由には思い至らなかったが、ボクが紙面の住人ではなくまったくの他人である彼女を理解しようなどと端から無理な話なのだから気にはならない。
「先生に、本を借りに来たんだ」
 ボクの答えが予想の範疇を一歩も出なかったことに安堵したのか、己を取り戻した木津さんがいつもの調子できっちり靴を揃えながら縁側に上がってきた。きっちり玄関からお邪魔しなくても大丈夫なのかな、と思ったが黙っていた。
「それで、先生は?」
 交くんに途中まで読んであげた絵本を閉じる。中途半端なところでやめたから、頭の中では浦島太郎が鬼が島へ行って打出の小槌で桜の花を咲かせるところまで場面が進行してしまった。
「今その本を探しているんだ」
 二階からはどたばたと先生が苦労している様子が伺える。いったいあの本はいつ読めるようになるのだろう。
「ふーん」
 ぼんやりと天井を眺めているボクの横顔に、やけに暗く沈んだ木津さんの視線がつきささる。呪詛の続きか。
「どうかした?」
 努めて笑顔で尋ねれば、木津さんは長いため息を吐いて、
「別に。いつきても誰かがいるのね、この家は」
 そりゃあ当たり前だ。だってここは空き家じゃなく、糸色先生が住んでいる家なのだから。

 その後、包帯だらけのおさげの子やマリアとは違う金髪の外人少女、それにカフカと、あと印象のあまり強くない普通の子とかがやって来て、先生の家はとてもにぎやかになった。女の子に囲まれて交くんはとても楽しそうだったけれど、ボクには少し、木津さんのため息の理由がわかった気がした。
 ボクの読みたかったあの本は、その日はとうとう見つからなかった。


 藤吉さんは来なかったから、彼女は先生に興味がないのだろうと判断した。そのようなことを匂わせると、藤吉さんは「その日はイベントがね……」とことばを濁した。なんにせよ、先生より大事なものがあるという点で、彼女はボクよりも健全だ。
「普通さ、教師と生徒っていったら、それなりに距離があるだろ?」
 子どもと大人の距離+役割と役割の距離+単純に、人間と人間の距離。教師は一線を引いて画一的に教室を見渡し公平に生徒に接するし、生徒は教室に詰め込まれた大勢の中の唯一の異端として教師を突き放す。ボクが知っている「学校」はそうだった。
「最初はボクだって先生にはある程度距離を取ってたし、いい子に振舞うのも当然だろ?」
 みんなも、最初は先生を遠巻きにしていた。あの、どこか頼りなく儚げで、つついたらすぐに泣き出しそうな軟弱そうな、頭のおかしい大人を、それでも「大人」の「教師」なのだと感じて、警戒していた。
 はじめにその境界を越えたのは、やはりというか、常識を狂わせる電波を笑顔のように気軽に振りまく少女だった。そしてそのあとは、まるでハーメルンの笛吹きのように、ぞろぞろと教室中が脱落していった。
 ボクは多分、その波に乗り遅れたのだ。教室を出て、図書館にこもっていたから、という物理的な理由もある。それ以上に、以前のボクは生身の人間などに興味を引かれたりした経験がなかったから。
「今はなんていうか、先生ともっと仲良くなりたいっていうか、……みんなみたいに打ち解けて話したいなぁって」
 時間の流れが違うこの場所にもゆっくりと変化は訪れ、やがてボクも彼の持つ不思議な空気に飲まれていった。笛吹き男の後ろをついて歩く、子どものひとりになった。だけど順番待ちの列はとても長く、先生との距離はまだ遠い。

「でも、いい子ですね、って言ったんだ」
 とんとん、と白紙のノートを叩いていた藤吉さんのペンが止まる。顔を上げた彼女と目が合った。でもボクは彼女ではない、どこか別の場所を見ていた。
「先生がさ、みんなと違っていい子ですね、って」
 本が見つからなかったことをわびつつ、交くんの相手をしていたことの礼を述べつつ、周囲をぐるりと見渡して、先生が呟いたひとことは、つるんとしたボクのこころにどういうわけか引っかかった。
 みんなって誰だろう。遊びに来た女の子たちのことかな。先生の家で好き勝手くつろいでる、彼女たち。ボクは彼女たちのことを、少しだけ羨ましく思った。
「先生の中のボクのイメージっていうのかなぁ、ああ、ボクのことそう思ってるんだなぁって」
 なにかを考えている表情の藤吉さん。彼女は我が強いから、きっとボクのことばに反発を覚えて、そしてそれを咀嚼しているのだろう。どうしても違う、とはっきり結論したとき、彼女は我慢をしたりしない。だからボクは彼女が好きだ。
「思ったら、なんか、それを壊すのが恐くなった」
 弱気だと笑われるだろうか。卑怯だと詰られるだろうか。
 どんなやりかたでもいいから、どうかボクを外から見てほしい。今のボクがどんな風であるのかをボクは知りたい。ボクの中のボクではなく、他人の中のボクを知りたい。

「でもそれは勝手な想像でしかないし。物語をするのと同じでしょ」
 藤吉さんは下を向いていたせいでズレた眼鏡の位置を直しながら、ボクの目を真っ直ぐに見つめてくる。この、暴力的な視線に晒されるのは、あまり好きではない。だが彼女といいカフカといい、ボクの周囲にいる女の子はみんなこの目をするのだ。
「久藤はさ、先生の言うこと真に受けすぎなんだよ。あのひとそんなに深く考えてしゃべってないよ?」
 先生はボクがひとのこころを読めるという。本当にこころを読めたらこんなに恐くはないはずだ。ただボクは先生が思うような人間でありたかった。先生にとって都合のいい人間になりたかった。
「真に受けたらいけない?」
 自分とはまったく違う意見を聞きたいからといって、ボクはそれに流されたいわけではない。流されるのは楽なようでとてもしんどい作業だ。それに比べたら我が道を行くことのどんなに簡単なことか。
「いけなくはないけど、でも先生もあんたも疲れるだけとだ思うよ」
 だけどそれではダメなのだ。自分だけの世界に引きこもっていたあの頃とは違う。ボクは殻を破りたくて、彼に続く列に並んだ。
 ボクは、はやく大人になりたいのかもしれない。
「先生はどうしたらボクを好きになってくれる?」
 この質問はたいそう彼女を喜ばせた。よく言った、と藤吉さんは席を立って、ばしばしと背中を叩かれる。彼女なりの激励だろうか。
「まずは押し倒せ!」
 藤吉さんはボクの見込みどおり頼りになるひとだった。でもときどき、使用言語すらボクとは全然違うんじゃないかと思わせるほど意味がわからないことがあるのが難点だ。