遺書


 そのうち家庭訪問なんて無粋なものはなくなるんじゃないかと思う。生徒のプライバシーを過剰に侵害しているとかなんとか、きっと誰かが訴えてくれるはずだ。
 だいたい、教師が生徒の家を訪ねなければならない理由がわからない。面談なら学校ですればいいのに。生徒の家庭を見ておくことがたしかになにかの役に立つことがあるのかもしれないが、ひとひとりの背景を把握してひととなりを見極めろというのであれば、やはりそれは無茶な越権行為だろう。多分。
 だから、なくなればいいと思う。こんな面倒くさいこと。
「狭い家ですみません。なれないと、息苦しいでしょう?」
 本日最後の苦行が終わった。対象の生徒は玄関先で社交辞令をする親に「そこまで送ってくる」と告げ、今は私の隣を歩いている。すまなそうなことばとは裏腹に、どこか誇らしげな響きさえある口調で笑いかけてきた。夢物語を朗々と綴ることには長けていたけれど、己について言及することを好む性質ではないと思ってきたので、意外であった。
「久藤くんらしくはありましたけど、居間まで侵食しているのには、親御さんはなにか言わないんですか?」
 正直、居間の壁をびっちりと埋めた本が、気持ち悪かった。とても。
 たとえばそこが図書館であるならそんな違和感を覚えるはずもないのだが、そこが普通の家庭の家族が集まる空間だと思うと、異様としか言いようがない。
 苦笑しながら柔らかい表現に変えて尋ねると、久藤はひたりと視線を糸色に向ける。
「あれは半分以上は親の本ですよ」
 しかもただ壁際に積んであるのではなく、壁一面にしっかりと本棚が設えられている部屋だった。家を建てる構想の中にすでに夥しい書物が前提として居座っていたことを如実に物語っていた。
「なるほど。なんとなく、わかったような気がします」
 きっと両親は某アニメ映画のような出会いをしたに違いない。誰がどんな本を借りたか詳らかにされていた開けっぴろげな時代でしか起こり得ない物語。1冊の本にぶら下がるいくつもの他人の影。個人情報だなんだとうるさい今の世の中じゃ、誰がどんな本を読んだかだって秘密に隠されるようになってしまった。
「なにがです?」
 自己完結した糸色に茫洋と久藤が聞き返す。そう言われるとそれがなんであったのかわからなくなってしまった糸色は、もごもごとむず痒そうに口を動かした。
「あなたが本を好きな理由が」
 わかったような「気がした」と、ちゃんと言ったではないか。そんな、責めるような目で見ないでほしい。
 勝手に推し量ったのは悪かったし、そもそも彼がどうして本を好きかとか、そんなこと、知るつもりも知りたいという思いもないのだから。
「そうですか」
 久藤は年齢よりも幾分大人びた表情で目を伏せた。どこか気に障る部分があったのかもしれない。そろりと頭ひとつ分低い位置にある彼を見下ろす。他人に書物以上の興味を持たない久藤は、糸色にとって「安全圏」にいる人間ではあったが、彼のまっすぐに目を見つめてくる癖だけは苦手だった。
「ええと、」
「先生の家も、似たようなものじゃなかったですか?」
 さっさと会話を打ち切ろうと、もうこの辺でいいですよ、と見送りを辞去しようとした糸色を、顔を上げぬままの久藤がさえぎった。そもそも、見送りなどいらないと最初から言ってしまえばよかったのに、どうして断らなかったのだろうか。
「え?」
 聞き返すと、久藤の視線があがって、糸色はそれを避けるように前を向く。
「以前、家におじゃましたときに。本に囲まれてたじゃないですか」
 けっして本意ではないが、以前住んでた家にはしょっちゅう受け持ちの生徒が遊びに来ていて、なにが楽しいのだかそれとも舐められているのか、たまり場にされている風があった。久藤も回数は少ないけれど、いつのまにか本を貸す約束を取り付けられて、自宅に訪れたことがあったのだ。
「ああ……」
 しかしあそこは単に整頓の不得手な私がちらかしてしまっていただけで、久藤家のようにあるべくしてある本に作られた空間とは、また違うものだ。
 同意を待っているような顔でいる久藤に、返すべきことばを迷って目を泳がせた。その数瞬の内に彼の表情は変遷して、どこか哀しそうな、淡い面影を見据える眼差しになる。
「火事ですっけ、燃えてしまって」
 余程読みたい本だったのだろうか、だったら悪いことをした。貸す約束はしても、それが果たされたことはない。糸色の怠惰の結果である。
「そうですねぇ。実家から持ち出したものもありましたので、細かいことを気にする兄にはとがめられました」
 そのときのことを思い出して憂鬱になる。
「僕は先生が死んでしまうのかと思いました」
 淡々とした口調で聞き逃してしまいそうになるが、それが久藤なりの気遣いだと思えて、糸色もうっすら儀礼的な笑みを刷く。
「いえ、大丈夫でしたよ。幸いにも」
 あのまま焼けてしまえばよかったのじゃないかと思わなくもなかったが、それが現実のものとなることはなく、こうしてぴんぴんしている。実は足の脛の部分に火傷の跡が残っていたりするのだが、それもほとんど痛まなくなった。
「そうではなくて」
 心配していただいてどうもありがとう。そんな決まり文句は久藤の思いがけないひとことで止まる。そうじゃなくて?
「本を、燃やしてしまったでしょう? だから、先生がこれから本当に死ぬんじゃないかって」
 思ったんです。と。まるで道理を説くみたいに。
 燃えてしまって、ではなく、燃やしてしまって。
 ぽかんと。瞠目。そんなこと、なんて、それは。
「違ったんですね」
 柔らかな穏やかな笑みを浮かべて久藤が振り返る。
 はたと視線が合う。気を抜いていたせいで、逸らせなかった。
 はじめて見返した彼の双眸は驚くほど虚ろに世界を映していず、糸色の恐れた他人の目などそこにはなかった。
 本が燃えてしまって哀しいとか、そんな感傷も存在しなくて。
 死ぬ前に所有のすべてを処分しようかというある種の潔癖も見えず。
 蒐集した書物はすでに己の血肉であるかのように、己と同じ命運を辿ることを疑わない。
(先生は、違ったんですね)
 ああ、今、私は。
 この子に切り捨てられたのか。