ずっと待ってる
夜は十一時を回ったところだ。 俺は汚れた網戸に顔をしかめながら窓を閉めた。外は当然ながらに暗い。 もう羽虫の賑わう季節だ。早めにカーテンだけは閉じておくべきだと、今更ながらに後悔する。 湿り気を帯びた風が窓を閉じる際に頬を撫でていった。カーテンがどことなくじっとり重いのは、多分気のせいじゃあない。 ……新緑が眩しい日々はあっという間に過ぎ去った。今はどんよりと曇る毎日で、天を仰ぐのも億劫に感じるほどだ。 「……じゃあ、いつ……」 知らずに言葉が漏れ出ていた。俺はそれ以上呟かないように、ぐっと唇を引き締める。 ……ああもう情けないったらありゃしない。俺は自分をあざ笑う。 光が緑が眩しいと、面を上げず足元ばかり見ていたのはどこのどいつだ。 伸ばしっぱなしの前髪を言い訳にして、いつから顔を見ない、目を合わせない。 「……はぁ……」 部屋は嘘のように静まり返った。ここの学生寮は新しく、防音だけはしっかりしている。 だが彼女を引っ張り込む奴は滅多にいない。 「…………」 俺は立ち上がった。部屋の隅に放り出すように置いてある、ずいぶんとくたびれた紙袋の中に手を突っ込む。 CD、MD、壊れたポータブルプレーヤー、イヤホンにビデオテープ、電源コード。ほとんどがゴミ同然だ。 片付けろよと苦く笑われても、もったいないと曖昧な返事でやり過ごしているには理由がある。 ……俺は一番奥、隠すようにしまっておいた、一本のセルビデオを取り出した。 中古780円、……インディーズのアダルトビデオ。何度も繰り返し見たそれを、デッキへ優しく挿入した。 あいつも今頃よろしくやっている。 春に新しく出来た彼女と、何度目かの外泊デート。 直に触れて包まれる甘く柔らかな温もりは、あいつにとってもいっときの安らぎぐらいにはなるらしい。 俺は柔らかくもないし、いい匂いもしない。俺はあいつを抱きしめたりもしてやらない、するわけがない。 ……これが普通で正常だと、俺は思う。 イヤホンの絡まったコードを直して、片方だけを耳にはめる。デッキは鈍く静かな音を立てて動いていた。 テレビに映し出される、やる気のないタイトル画面。白いどうでもいいバックに、蛍光ピンクのちゃちな文字。 さすがは元レンタル、ノイズが凄まじいことこの上ない。デッキのトラッキングの調整がうまくゆかないせいもあるだろう。 ……ストーリーはないも同然だ。 舞台は寝室と浴室、女1人に男2人の3P物。和姦なのが売りだと俺はにらむ。 女優は色白の、腹から下がぽっちゃりした体つき。腰骨が見えないのが俺には嬉しい。 ……目当ての画面を待ち焦がれて、俺はティッシュの箱を引き寄せた。 ……ずっと待ってる。 2人目の男優が登場する。俺は瞳を細めて『あいつ』を見た。 茶色の髪。額が覗き見える前髪が、動きにあわせて僅かに揺れた。長い睫毛に縁取られた眼が、意地悪げに微笑んでいる。 シーツを引き寄せはにかむ女優。それに見せ付けるように、あいつは着ているシャツを脱ぎ捨てた。 ……程よく日に焼けた、健康的な肉体。部屋が少し寒いのか、腕の部分が微かに粟立っているのが見て取れる。 女がジーンズの前に手を掛けた。ボタン、ファスナー、もどかしげにそれを開く女優の尻が揺れている。 『やーらしい奴』 黒いビキニを押し上げる隆起に、女はそのまましゃぶりついた。あいつは、男はもう一度繰り返す。 『ホント、やーらしいな』 ……ノイズは相変わらず画面の上下を横に走り、耳にはブチブチと嫌な音がひっきりなしだ。 それでも、それでも似てる。いや、それだから、似てるのかもしれない。 ……ずっと待ってる。 部屋の入り口、あのドア。俺は滅多に鍵はかけない。 いつも不意に乱入してくるあいつのために、いつも俺のそばにいたがるあいつのために。 だけれど、それが真実だったことは一度もない、今の今まで、そして今も。 女なんてどうでもいいなら、今すぐ俺のところに帰って来いよ。 ずかずか部屋に入り込んで、今俺が何をしてるか知ってくれ。 ……ずっと待ってる。 そうだと、そうなんだと暗に語っているつもりで、俺は滅多に鍵をかけない。 馬鹿みたいに俺は待ってる。あいつを、偶然を、チャンスを、友情とやらの、これまでの破局を。 「……直人……」
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「たっだいま」 乱暴にドアが開いた。相変わらずの明るい声に、俺はふっと息を吐く。 「何か外、じっとりしてきてるぜ。明日、雨……」 あいつの言葉が不意に止まった。 「なに、おまえ……」 開け放たれた窓から入る風に、カーテンがはためき揺れる。俺はゆっくりと声の方を振り返り見た。 「……煙草吸ってんの?」 俺の吐き出した紫煙も、風にかき消されてもう見えない。俺はああともうんともつかない答えを返して、携帯灰皿で煙草を揉み消した。 「匂った?」 「いや……いや。俺、おまえが吸ってるところ、初めて見たぜ」 「人前では吸わないようにしてるから」 端正な眉が僅かにしかめられた。どうやら俺が煙草をやることを、隠していたのが不服らしい。 何を今更と、俺は軽く苦笑した。……おまえに隠してることなんて、山ほどあるというのに。 「そっちこそどうしたんだよ。やけに帰りが早いじゃないか」 「ああ……ん、まあ、別れてきたから」 「別れた?……仲良くやってたのに、いいのか?」 「別に」 結構聡い子だったと思う。こいつの気に入らないことを察知して、立ち回るのがうまかった。 例えばこいつと俺とか。……引かれた境界線には、決して立ち入ることはしなかった。 「おまえがいるし、俺には」 窓を閉めながら、あいつはその言葉を口にした。……これは魔法の呪文だ。 俺がおまえから離れない、その確認と願いを込めた……俺を叩きのめすその言葉。 「そっか……」 彼女がいて、いなけりゃ作って、それでもそうやって俺を傍に置こうとする。おまえはひどくて贅沢な奴だ。 「そうだぜ?」 くたびれた紙袋が頭を過ぎる。……何も変わらない。あれはもう、……くたびれたままだ。 「……なあ、夏さ」 背中から抱きつかれても、俺はいつもの俺でこいつに接する。それが普通で正常で、ベストな判断だと俺は信じる、信じている。 「夏?」 「夏……また海に行こうぜ。それで、前みたいに……」 「ああ、ナンパね……」 首筋にかかる吐息が熱く感じるのも、こいつが何か言いたげに俺を強く抱きしめたのも、それは全て俺の錯覚だ。 ビデオのデッキは電源が落ちてるし、テレビはスポーツニュースを流している。そう、もういつもと変わらない。 「うん……そうだな、それだな」 さらさらな前髪が首筋に触れた。柔らかく、少しだけ湿った感触が肌に触れたと感じたのは……それも俺の勘違いだ。 「可愛い子、見つけようぜ」 「……ああ」 「…………」 「直人?」 「いや、何でもない」 ……ずっと待ってる。 微かにそう、呟かれたような気がした。
(END)
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