あいたくて…


 それは十一月の、割に暖かな夜の事だった。
「……可愛いよな、あの子」
 ……去り行く二人組へ、律儀に手を振る俺の隣で囁かれた唐突な言葉。
「可愛い……よな?」
 言葉通りに受け止めていいのか掴みかねて……それでも俺は反射的に頷いていた。
「…………そっか」
 直人の吐く息は、微笑みの形に広がって……そのまま綺麗に消え去った。

◆◆◆◆◆

「クリスマスは……どうするの?」
 その声に、え、と顔を戻す。化粧映えのする魅力的な顔がちょっとしかめられた。
「もう……二度も言わせないでよ……」
 聞いてないなんてと、ほんの少し非難めいた言葉が俺に降りかかる。
「だ、だから……クリスマス。クリスマスだってば」
 目の前の彼女は僅かに頬を染めた。長い睫毛が伏せられて、切り揃えられた髪が軽く揺れる。
「……クリスマスかぁ」
 大きな窓の向こうにまた眼を向けながら、俺は曖昧に返事を返した。
 ガラスの外では家族連れに恋人同士にと、遊園地の休日の風景が賑やかに広がっている。
 俺はこの休憩所からでは遠い、コーヒーカップへと瞳を細めた。……豆粒ほどの、姿しか見えない。
「去年は……どうしてたの?」
 でも、俺には分かる。二人組の男女が、きっと笑い合いながらくるくる回っている様子が。
 ……誰から見ても美男美女で、それこそ一枚の絵画のような、お似合いの二人だろう。
「大学の友達と楽し〜く過ごしたよ」
「……男の子だけで?」
「うん。ケーキ買って、クリスマスソング歌ってクラッカー鳴らして。……去年も、一昨年も」
「あははははっ!」
 物侘しそうに話せば、案の定、彼女は明るい笑い声をあげた。
「でも、楽しかったよ」
「も、もう……!はいはい」
 笑い上戸な彼女には、男だけのクリスマスは笑い話にしか過ぎない。
「…………」
 蝋燭の明かりの元、直人はクリスマスソングを歌った。低目な甘い声が、何だか子供みたいだった。
 これを歌い終わったら、蝋燭の明かりを吹き消してクラッカーを鳴らして、ケーキを切ろうと直人は言った。
 二人でどうやって食い切るのか、ワンホールを。しかも高かったらありゃしない。
 そんなことを言う俺に、また直人は微笑んだ。そうかぁ?いつまでも幸せが食べられて嬉しいじゃないか。
 ……馬鹿みたいな飾りのとんがり帽子が頭から落ちそうで、俺はかなり間抜けな姿だったはずだ。
「今年は……今年は、その……あたし、一人なんだ」
「うん?」
「……だ、だから……、クリスマス、一緒に過ごさない?
 ……いつもみたいな、Wデートじゃなくって」
「…………」
 まだまだコーヒーカップの回転は終わりそうもなく……俺はスプーンを軽く握り締めた。

◆◆◆◆◆

「うー、暖房暖房!」
 部屋に帰るなり、俺はエアコンのスイッチを入れた。多少騒がしい音がして、微妙な温度の風が出てくる。
 本格的に暖まるには、多少の時間が必要だろう。……待ち切れない身体が、自然と上下に揺れ始めた。
「フローリングって、妙に冷えるんだよなあ……」
 ずっと温風の場所に立っているのも空しい。階下に響かない様に、足踏みをするのも慣れたものだ。
「……はぁ」
 吐く息が、白い。……白い。
「…………」
 ……彼女たちとは、今年の夏に知り合った。
 直人と2人、海に行ったときの……アイツがナンパしてひっかけた2人組だ。
 それからずっと、俺たちは4人でつるんで遊びに行っていた……Wデートと、人は言うだろう。
 彼女たちは奇妙な懐かしさがあった。
 容姿はかけ離れているものの、何気ない行動や性格が、知人の双子の姉妹に……どことなく似ていたから。
 だからこそ、俺も直人も、奇妙に安心してつきあえたのだ。……そう思う。
 ――ピッ、ピピピピ……
 机の上の時計のアラームが鳴る。一時間毎に電子音が鳴る様に、直人がセッティングした安物だ。
「……十一時、か」
 寄る所があるからと、彼女は一人で帰って行った。直人のお相手は、どうしようかと迷った挙句に男を選んだ。
 直人は、まだまだ帰ってこないだろう。2人の帰り道を考えて、俺は思わず笑みを漏らした。
 どうしようもない、どうしようもない……救いのない笑みだ。
 あと少し。あと一年と少し。
 そうだ、と俺は再認識する。
 あとちょっとしたら、俺たちは大学を卒業する。
 その前には就職だの何だのと、色々考え込まなければならない問題が山積みだ。
 あと少し、あと少ししたら、こんな理不尽極まりない生活からおさらばできる。
 学生だから、こんな生活が許された。学生だから、だからこそあんな我侭も許された。
 就職先も同じ、その上住む場所も同じ。……そんなことはもうあり得ない。あってはいけない。
 ずっと一緒だなんて幻想にしか過ぎない。
「はぁっ……」
 息を吐く。寒さが足底から這い上がり、俺のこめかみがズキズキと痛んだ。
「三年か……」
 ……こんな理不尽なことはない。俺はそう思う。
 ――コン、コン……
「……?はいはい、ちょっと待ってくれよ……」
 時間帯を慮ってか、数回の控えめなノック。寒々とした部屋の中を、俺は慣れた足取りで横断してゆく。
 ……冬なんか、寒さなんかもう慣れている。……慣れているんだ、俺は。
 ――カチャ……
「よう」
「直人?! って、お前……送って行ったんじゃないのか、彼女を?」
「うん……ま、途中まで、な」
 直人は肩を竦めて軽く微笑んだ。外は余程直人に寒かったのか、その笑顔も強張っている。
「お前の部屋、暖まってる?俺の方、暖房いれたんだけど……よくなるまで待ってられないし」
 入れてくれよ。そう言った直人の鼻頭は赤く染まっていて、……瞳は涙目だ。
「俺の部屋も、まだ寒いって……」
「小さい部屋なんだ、二人でいればすぐ暖まるさ」
 ……やや強引、それでも普段と変わらない調子で、直人は俺の部屋に上がりこむ。
 こんなやり取りができるのも、あともう少しの間だけだ。
「……だけど直人、お前……途中までって、どうしたんだ?」
 まだ着ていればいいものを、直人はコートを床に脱ぎ捨てた。そのままポン、と俺のベッドに腰掛ける。
「……一緒に、帰りたくなかったから」
 ……いい造りの上着をハンガーにかけてやりながら、俺はそうか、と溜め息を吐いた。
 直人にしてみれば長く続いた方だろう。
 これまでの遍歴を考えてみれば……直人は彼女との仲を終わりにしてきたに違いない。
「クリスマス前だっていうのに、お前って……」
 苦笑しながら振り向けば、直人の視線にぶち当たった。……直人は俺を見つめていたらしい。
 いつになく、その表情は硬い。
「……直人?」
「クリスマス……お前、どうするんだよ」
「え?」
「……俺、帰り道、あの女に誘われたんだ。2人で、2人っきりで……クリスマス、やらないかって、さ」
「ああ、うん……」
「俺、俺……友達とこれまで過ごしてきたから、そいつの事、気にかかるしって、口滑らせて」
「うん」
「そしたら、アイツ、あの女。……お前の事なら、自分の連れが口説いてるだろうって」
「…………」
「だから、だから心配いらないって。あっちはあっちで楽しくやるだろうから、こっちも楽しくやろうって」
 ……割に引っ込み思案なその子を思い出す。帰り道になるまで言えず、きっと煩悶としていたんだろう。
 長い長い黒髪を揺らす、清楚で可憐な感じの女の子。
「……お前の、貸せよ」
「……何を?」
 直人の低く、暗くなった声に……俺は身構える。何となく、何が起こるのかは予想できる……そんな我慢も、あと少し。
「携帯だよ!!……お前の携帯電話!! ど、どうせお前、女のナンバー控えてるんだろ?」
 乱暴に、直人が立ち上がる。ベッドのスプリングが軋んで音が鳴った。
「俺が、俺が断ってやる!
 誰がお前みたいな馬鹿女と過ごすかって、きちんと言ってやる!! だから、早く貸せよっ!!」
「……直人」
 直人は俺と誰かが特別につきあうのを極端に嫌がる。それは仕方ないことだと、俺は一応納得している。
 それでも以前はお前には無理だ嘘だ冗談だよなと、笑って過ごしていたのに。
 いや、もしかしたら成長したと言えるのかもしれない。頭の中に、とある姿が過ぎって行った。
 ……直人の兄。実直で真面目で理想的な大人の常識人。弟思いの。
「な……何だよ、何だよその眼は! ……俺はちゃんと断ったぜ?
 あの女に言ってやったよ……特別な日に、遊びのヤツとは過ごしたくないなってさ!」
「直人!」
「……俺の前で、よりによって俺の前で、あの女! お前と馬鹿女はお似合いってほざいたんだぜ?!
 ふ、ふざけるなって……!」
「…………」
「……っく、……っ」
「直人……?」
 直人は、直人は……泣いていた。
 色男が台無しの顔。ぐしゃぐしゃに泣いて、泣いて、……もう、どうしようもない。
「直人、お前……そんな、そんな子供みたいに……お前」
 こういう癇癪を起こすのは珍しくて、……思わず禁句が口から漏れ出た。
「……お前!お前……!! お、俺だって……俺だってさぁっ!!」
「!」
 俺に掴み掛かった直人と、視線がぶつかった。
 吸い込まれそうな瞳だと思う。世の女性がなびくのも、無理はない。
 ……無理は、ない、……俺だって。

◆◆◆◆◆

「……ん……」
「…………」
 次の瞬間……暖かな、そして柔らかな感触がした。俺の口に、唇に。
 直人は……俺にキスしていた、いる、らしい。
「っ、ん……ん」
「…………」
 それは、いつぞやに味わった、偶然みたいな軽い代物なんかでは、ない。
「ん………ん、ん……」
「……っ……」
 唇を食まれる。上下のそれぞれを優しく柔らかい仕草で甘く食み、僅かに開いた隙間に舌を入れてくる。
 歯列には触れないように、ただ唇の肉だけをなぞり、味わってゆく舌の感触。
「……っふ」
「…………」
 じんわりと、自分の口が……自分のものでない何かに、濡れてゆくのがよく分かった。
「……前に、聞いただろ、俺。あの子、可愛いなって、さ」
「……うん」
「お前……可愛いなって、頷いたんだ。……あいつら、あいつら似てたから、何か似てたから……
 だから仕方ないなって思ったんだ」
「…………」
「俺、俺……またひとりぼっちだ、裏切られたって、思ったんだ。お前もダメなんだって」
「仕方ないなって、そう思ったんだよ、それでも!
 あいつら似てたし……お、俺なんかに、俺なんかにお前、三年もよく我慢したなって!!」
「直人」
「俺だって分かってるよ、……分かったさ!
 俺が子供で、どうしようもなく子供で、馬鹿で……とんでもないヤツなんだって、そのくらい、そのくらいは!」
「俺もこの三年で大人になったもんだろ?
 俺が、俺が友達だの何だのって、お前の自由を奪っていたってこと、分かるぐらいにさ!」
 ぎゅっと、直人が俺を抱きしめた。涙の雫が飛び散って、俺の首筋にさっと寒気が走る。
「……お前が、いてくれたから、分かったんだ……」
 俺のこめかみが、また痛み始めた。ガンガンと、まるで何かの警鐘を鳴らしているように。
「……俺なんか、どうでもいいって本当に思ったんだ。
 お前は、お前だけは幸せになってくれなきゃイヤだって、思ったんだ」
「俺がいて嬉しいって、幸せだって、……言って欲しかった。
 それが無理なら、お前の笑顔だけでも守らなきゃって、本当に思えたんだ、そんな風に!!」
 ぐぐっと、俺を締める力が更に強くなる。だらりと床へ向いた俺の両腕が、直人の腰あたりに伸びてゆく。
「でも、ダメだった」
「…………」
「ダメだったんだ……」
 直人が軽くしゃくりあげた。
 エアコンはいよいよ本格的に稼動し始めて、やかましい音を紡ぎ始めている。……旧式は、これだから。
「こんなの、こんなのって……あるか?
 俺はお前の幸せを見守れないし、祈ってもやれない!!
 でも……だからって、俺はもう、もうお前を裏切り者って憎めない……」
 背に回された直人の手が、俺の厚い上着を固く握り締める。
「誰にも渡したくない、お前を誰にも渡したくない。
 お前がどっかを見てるなら、何とかして俺の方を向かせたい。お前に嫌われたくない、お前にだけは!」
「なあ……笑ってくれよ。子供だって、俺は子供だって、言ってくれよ。……違うって、これは、これは違うって……さ」
「……直人」
「……なあ、言ってくれよ……! こんな気持ちは、恋とかじゃないって……!」
あと少し。あと一年と少し。……あと少しだったのに。

◆◆◆◆◆

 よろしく頼むと、その言葉の真意も裏も見図らず、額面通りに受け取る馬鹿がどこの世界にいるだろう。
 頼まれたのはそういう意味ではないのだと、子供だった俺にだって、そのくらいはすぐに分かった。
 その我侭は、確かに良識で常識だろう、それは認める。
 だけれど、……こんな理不尽極まりないことがあってたまるか。
 直人がどんな感情を持っていても、それは過ちで誤まりで勘違いで幻想で、俺はそれを理解し飲み込み冷静に対処する。
 直人が俺に恋することもない、俺が直人を愛することもない……それはあってはいけない、あり得ない。
 ……この生活を、この俺の人生をこのように過ごすべきと、強要した奴は一体誰だ。
 それでも、それでも俺は思う。感じる、そう考えて憤る。
 こんな理不尽極まりないことがあってたまるか。
 こんな理不尽極まりない生活に、人生に、直人に、その諸々全てに人達に、俺は別れを告げたかった。
 叶えていけないものならば、いっそ失くした方がマシだった。

◆◆◆◆◆

 エアコンの生温い風が、部屋をじわじわと暖めてゆく。板張りの床は冷たくて、まだまだ快適には程遠い。
 俺の心もこのぐらい冷え切っているんだろう、そう胸の内で己を嘲笑えば、そうよと高めの声が頭の中で鳴り響いた。
 そうよ、分かってる、本当はあなたって冷たい人、視線の先にあたしはいない。
 冷たいあなたをあたしは溶かせなかった。ねえ最後にお願い、教えてくれない?
 一体あなたは何を見てるの?誰があなたを蕩けさせられるの?
 聖夜の誘いを断る俺に、告げられたその声、彼女の言葉。……ああそうだと今更ながら同意する。
 俺って冷たい奴なんだ。多分、おそらく、今までは。
「…………」
 あと、あと少し。あと少し腕を伸ばせばいい。少しだけ力を入れればいい。
 そうしたら、ようやく手に入る。もう我慢も何もしなくていい。ぽっかり空いた心の風穴に、ようやく最後のピースが入る。
 もう、寒くない。そうしたら、寒くはない。
「直人…………」
 あと少し、あと少ししたら、こんな理不尽極まりない生活からおさらばできる。



(END)