Your smiles in my heart
01



 軽やかな発車のメロディが鳴り響く。俺たちは精一杯の速度を出して、今にも閉まりそうな扉の内側へと滑り込んだ。
 昼も過ぎた太陽の光は穏やかに俺たちを暖めて、……首元のじっとりとした汗が気持ち悪い。
「……はぁっ、はぁっ……はぁっ!」
「ふぅっ……、ギリギリ間に合った!」
 狭いデッキで男2人、肩を上下に揺らして息を切らす。幸い通りがかる人はいないが、みっともないのは確かなことだ。
「あ……動いたな」
 控えめに唸る音を立て、電車が動き出す。窓の外の景色が流れ出す様子に、俺は安堵の気持ちで息を吐いた。
「……どうするよ、直人。自由席のほう、空いてるか確認してみるか?」
「掻き分け掻き分け行っても、空いてなかったら寂しいしな……。いいぜ、俺はここで立ってても」
 直人は手荷物も手荷物ほどの、僅かな重さしかないデイバッグを肩に掛け直した。
 常日頃の鍛え方が俺とは雲泥の差と、のたまう直人の言葉に偽りはないようだ。
 息切れの回復も俺より早く、平然としたいつもの表情がそこにある。
 俺はバクバクうるさく鳴っている動悸を顔に出さないよう、務めて平静を装った。
「……ま、そんなに時間もかからないしな。リッチな新幹線だし」
「誰かさんが寝坊しなけりゃ、安い鈍行で帰れたのにな」
「う、うるさいな」
 ちょっと意地の悪い笑みを浮かべて、直人が俺を見た。つい、と前髪が触れるほどの近さで。
 完全に笑っている明るい瞳に、ほんの少し憤慨したような俺の顔が映っている。
「おまえも何でちゃんと起こしてくれないんだよ。前は叩き起こしてた癖に」
 俺の言葉に、直人は楽しそうに頬を緩ませた。……こういうときの表情が、いいものだったためしはない。
「だってさ、おまえの寝顔が可愛かったから。……何か、見惚れちゃって」
「…………」
 ほら、やっぱり。
 ……俺は軽い眩暈を覚えて、思わず掌で顔を覆う。失敗した、ああもう失敗した。
「何だよ、何か気に入らないのか?」
「気に入らないっておまえな……、面と向かって可愛いとか言うな!」
「だけど……かっこいい、っていうものじゃないし。じゃあ、どう言えばいいんだよ」
 指の間から、素で不思議そうな直人の顔が見えた。俺は溜息をひとつ吐く。
「言わんでいい、言わんで」
「何だよ、そりゃ……って、おまえ……」
 妙に甘くなった語尾。その声色に、俺はまたしても失敗したなと後悔する。
 何だか最近、全く上手くいかない。……コントロールって奴が。
「顔が赤いぜ……」
 直人が俺の手を優しく退ける。多分、多分……首元あたりまで赤くなっているに違いない。
 妙に熱いのは走ったせいだと、言い切れない自分を自覚して……ああ、もう、どうしようもない。
「誰も見てないから……」
 車内販売も切符確認の車掌も、まだまだここに来るまでは時間がかかるだろう。
 自動ドアの向こうの座席は、弁当と睡眠に余念がない人達ばかりで……逃れる理由は見つからない。
「ん……」
 外への扉を背にした直人が、俺の頭を抱えて引き寄せる。逆らえるはずもなく、俺は直人にされるがままだ。
「……公衆道徳は……」
 触れるだけの軽いそれ。すぐに解放された俺は、馬鹿馬鹿しいと思いながらも抗議を入れた。
「野暮だな……」
 甘い声、甘い声……息も触れ合う間近な距離で。却下の後に続くのは、声ほどに甘い口づけ。
「好きだ……」
 ……促されるまま瞼を下ろす僅かな間に、流れ去る窓の向こうに見えたもの。
 跳ね上がる胸の鼓動を、赤味が増しただろう頬のそれを、どうかこいつが勘違いするように。
「……ん」
 どこにでもあるような、たかがラブホテルの看板ひとつ。そんな焦るほどのものでも……ないはずなのに。

◆◆◆◆◆

「「……遅くなっちゃったな」
「う……」
 ……夕暮れの中、古めかしい引き戸の扉の鍵を回す。俺も直人も鈍い鋼色の鍵も、切ない色に染まっていた。
 こんな古い扉にこんな大層な鍵。そして俺が帰ると分かっていても掛けられている事実。……物騒な時代になったものだと、そう思う。
「ただいま」
 ……確実に時間は過ぎている。そんな感慨を隠すように、俺はやや乱暴にその引き戸を開け放った。
「お婆ちゃん、お世話になりまーす!」
「…………あぁ、おかえんなさい」
 奥の部屋まで聞こえるよう、直人は大きく声をあげる。数瞬の後、軽く静かな足音と共に、久しぶりの姿が現れた。
「遅くなってごめん」
「あんたらが無事ならいいんだよ。ほらほら、早くおあがり」
 白髪をまとめあげた、地味な和服。年々小さくなってゆく祖母は、その小さな小さな顔を皺と皺で嬉しそうに歪ませた。
「あれ……?」
 敲きからすんなりと家にあがる。ちょっとした違和感に、まず直人が気がついた。
「……ああ、リフォーム、終わったんだっけ」
「えぇと、何だったっけねぇ……ば、ば……?」
 どうやらバリアフリーという言葉が思い出せないようで、そのまま口を窄めて笑い誤魔化された。
 ……もう大概、高齢だ。
「来年からは、親父さんもこっちだっけ……」
 直人の言葉に、前を行く後姿から小さく笑い声があがった。やっぱり嬉しいんだろう、当然だ。
「……親父対策を考えなきゃな。トラップを幾重にも張って……」
「おまえの親父さんって、どういうヒトなわけ……?」
 ……一人きりの生活で、どんどん縮んでゆく姿を見ていられない。俺と直人の帰省先は、この家の他にはなかった。
 だからこそ、俺も嬉しいといえば嬉しいが。……そういうことにしておこう。
「遅いけど、お昼をこしらえるから……早く降りておいでね」
 階段の手すり。それを握りながら、俺と直人は笑顔で頷いた。これも夏までにはなかったものだ。
「…………」
 和室に飾られていた、俺と直人の成人式の写真。真新しい、明るい水色の羽織が直人によく似合っていた。
 俺が着たのは親父のお古だ。俺にと仕立てたはずの着物を、家庭の事情を汲んでか直人に着せたのは祖母本人だ。
 市が催した式には出られなかったけれど、いい思い出になった。……家紋が俺の家のものだから、まあ仕方がないだろう。
「……なに?」
「え?」
「おまえ、俺の顔……じっと見てたけど」
「……ああ、いや、別に何でもない」
「見蕩れてたのか?」
 軽く握った拳を見せると、直人は肩を竦めて笑顔を見せた。……何も知らずに、この馬鹿者め。
 俺がおまえに見蕩れているのは、いつもそうなんだから、……ああ、ああもう知らん!
「…………」
 眉間に皺を寄せる、俺のお馴染みの表情。心を隠すにはちょうどいいそれを、また顔に貼り付ける。
 そしてそのまま……懐かしのドアノブに手をかけた。
「あ……変わってない」
 軽い音を立てて扉が開く。少しだけ開かれた窓から風が入って、部屋の空気は爽やかだった。ちょっとだけ、寒いけど。
「掃除、してくれたんだな……お婆ちゃん」
 曇り一つもない窓ガラス。テレビや棚には埃もなく、小さな座卓には磨いた後が残っている。
「後で下から、布団持ってこなきゃな……」
 ベッドの上には、畳まれたシーツ。それを見た直人がぽつりと呟いた。
「こっち狭いんだから、客間で大人しく寝ろって」
「いやだ」
「…………」
 即答。しかも毒気のない、あの甘い声だ。反則だと俺は思う……誰がその声に逆らえるっていうんだ。
「おまえ……分かっててやってるんじゃないだろうな?」
「え……何が?」
「…………いや、いい」
「?」
 意味不明な俺の言葉を持て余したのか、直人の指が壁に張られたカレンダーをデタラメになぞってゆく。
 何となく剥がす事がためらわれたそれは、いまだ高校を卒業した年のまま。
「…………」
 ……と、直人の指がピタリとある日で止まった。日付で言うなら、明日……12月、28日。
「明日……俺の誕生日だよな」
「ん……」
 窓を閉めながら、俺は頷く。大したことはしてやれないが、それでも毎年精一杯のお祝いはしているつもりだ。
 今年もこちらで祝うわけで……張り切っている人が、俺の他に約一名。俺のときより豪勢な気がしないでもない。
「俺さ……」
「ん?」
 らしくもなく直人が額をカレンダーに押し当てた。コツンと、まま壁に当たった軽い音がする。
「俺、欲しいものがあるんだ。誕生日に」
「何だよ、プレゼントの催促か?……あんまり高いものは奢れないぞ」
 珍しいこともあるもんだと、俺は言葉を続ける。
 与えることには慣れているのに、貰うことにはためらい以上のものがある。欲しがることすらうまくできない。
 ……根深い心の傷が、直人の底まで染み込んでいる、今日まで何も変わっていない。
 それが俺には歯痒くてたまらない。
「贅沢っていえば、贅沢かもな。もう俺、凄い満足しなきゃいけないのに……これ以上ない、我儘だ」
「……何だ、そりゃ。分かっててねだるのか、おまえは」
 腹の減り具合もとんでもないし、そろそろ階下に下りなければ。俺はそう直人を促した。
「うん……それでも、俺……欲しいんだ」
「……?」
「俺……おまえが、欲しいんだ」