Your smiles in my heart
03



「分かっていたけど」
 何となく、と言葉が続く。何となく分かっていたんだけど、でも。……そう彼女の語尾が淀んで消える。
 俺は視線を逸らして暗く笑んだ。 分かっていた、確かにそれは真実だろう。
「……見てる先にあたしはいないってことぐらい、分かってた」
 俯く俺をどう思ったのか、彼女も窓外へとその視線を向ける。硝子一枚隔てた向こうは、賑わう休日の遊園地だ。
「それに……本当は、冷たい人だってことも……分かってた」
 彼女が燻らす深い紫煙が、俺の鼻先を掠めて消える。メンソール系の匂いに、彼女の嗜好を初めて知った。
「……分かってたんだけど……でも……」
 分かっていた。
 どうしてわざわざ、……そうして言葉に出さずにいられないのか。しかも当の俺を前にして。
 だけれどそれも、愛しい部分だったのは真実だ。おそらく彼女もそうだったんだろう……俺の冷たい部分を、それなりに。
 ……俺は先を促すようにコーヒーをすすり飲んだ。わざとらしいほどに音を立ててやる。
「一体あなたは何を見てるの?」
 どこかで聞いたことのあるBGMが、静かに休憩所の中を流れてゆく。彼女は煙草をもみ消した。
 けたたましく騒ぐ子供も今はいない。人の囁き合う声が、まるで風に踊らされる木の葉ずれのようだった。
「あたしじゃ、無理だった。最初からダメだったのかもしれない。でも、……期待、しちゃったから」
 期待させたから。……俺はスティックシュガーの封を切った。
「誰が溶かせられるんだろうね。……誰が、蕩けさせられるのかな」
 グラスに差し入れたストローを、彼女はぐるりとかき回す。カラカラと、コーラの中で氷が悲鳴をあげていた。
「ふふ……こういうの、今日が最後かな」
 俺はまたコーヒーを一口すすった。
「……最後だね、最後。今日であたしたちは終わり。友達も、あたし、しないから」
「…………」
 俺は何も応えない。
「最後にお願い。……教えてくれない?あなたの見てる先、あなたを溶かせられる人」
 伏せていた面を、ゆっくりと上へと向ける。俺はいつもの無表情を決め込んだ。
 困っているような、笑っているような、それでいて感情のこもらない顔。
 ……実際、応えられるはずはない。
「……いいんだ。あたし、それも分かってる」
 彼女の顔には強気な表情が張り付いていた。
 ほんの少し泣きそうな、それでいて怒っているような、そのままの綺麗な顔だ。
「……あなたは自分が一番なんだよ」
 俺は自然と微笑んでいた。



◆◆◆◆◆

 ……じわじわと何かが世界を浸食していくのが分かる。
 夏の暑い浜辺を、俺は駆け足で走り抜ける。
 約束していたわけじゃない。……だけれど焦りとも何ともいえない何かに突き上げられ、俺はただひたすらに走っていた。
 確信。……自信という方がより近くて、ずばり言うなれば傲慢だ。
 光り輝く白い砂浜、青い空。海の波間は晴れた陽の光を反射して、俺の眼を眩ませる。
 間に合ってくれ、間に合ってくれ。
 夏の熱気はどうしようもない。けれどこの胸に痞える重く熱い何かは、夏のそれとは違うものだ。
 大粒の汗を撒き散らしながら、荒い呼吸で走りながら、俺は泣きたくなって……笑っていた。
 向けられた感情に、俺の中にくすぶっていた気持ちを揺り起こされたそのとき。
 それを、同情だの、庇護欲だの、父性愛だの、……そう呼んで全てを綺麗に治めるには俺はあまりにも幼かった。
 だからといってそれらが友情だの何だのと、瞳を輝かせて力説するほど、俺は子供でも愚かでもない。
 先の見えないゴール、底のない沼、乾き切った砂丘。身内でさえ投げ出した、あいつが満足する『ずっと一緒』。
 いつ来るとも分からない、あいつが納得するその日まで、俺はずっと一緒にいるわけだ。
 俺はあえてそれを選んだ。
 どんな言葉で飾っても、どんな文章で言い訳しても、そこに残るのはたったひとつの言葉だけ。
 俺はあいつが好きだと分かった。だから俺はそれを選んだ、『ずっと一緒』を。
 俺は誰も好きにならない、なってはいけない。
 ……それはそうだ、恋をしているからこそ誰も他には好きならない、なれるはずもない、ありもしない。
 だけれど、それが一番あってはならないことだ。……俺はそう思っていた。
 ……そうしていびつな恋は始まった。
 俺とあいつを繋ぐもの。太くて光り輝く、一見丈夫そうなその鎖。
 だけれどそれは危ういほどに脆いのだ。壊そうと思えば容易く砕けて、二度と直りはしないだろう。
 ……俺とあいつ。想いのほどに太く、友情のほどに脆い。
 鎖の端先は俺の手の中に握られて、もう片方はあいつの首に繋がっている。
 あいつは俺が離れないと知って分かって飛び回る、まるで無邪気に健気な犬のようだ。
 俺は長く鎖を垂らして、……距離を保ってあいつに付き合う、共に歩く。
 傍目は自由に好き勝手に、あいつはそれこそ遊びまわる。あちらの花、こちらの花と、その鼻先で花弁をこじ開けながら。
 犬の遊びについてゆけない俺はただ待つ。遠くで歩を止め、ただぼんやりと。
 ……やがてあいつは帰ってくる。
 果たして主人がそこにいるのか、まだ遊んでいられるのか、遊びに夢中なあまり、主人の不興を買っていないか、確認するため。
 ……そう、思い込んでいた。
 我が儘だと分かっていた、傲慢だとも気づいていた。けれど認めたくはなかった、全て誰かのせいにしていた。
 俺のこれまでが間違いだと分かりたくなかった。俺のいびつな恋のその形を、自分のせいだと認めたくなかった。
 鎖なんかない、何もない。俺はあいつの手をとったまま、痛いぐらいに引っ張って、……ずっと道を迷っていただけだ。
 三年間は無駄だった。回り道なんてしなくても良かった。
 道にまたがる石のひとつ、やれば退けられる程のものでも逃げ出していた。
 あいつが俺を振り回していたんじゃない、俺があいつを引っ張りまわしていただけだ。
 友情と愛情と、ずっとうろうろ、行ったり来たりと。
 ……大きな夕日が海の向こうで輝いていた。暮れる光を受けた片頬は、じりじりとした熱い痛みに襲われている。
 汗は休みなく身体から滲み出て、あっという間に垂れ落ちて消えてゆく。とにかく暑い、むかつくほどに。
 風を切るその速さ、それでも俺には爽快感の欠片もない。相変わらず胸内に、熱いわだかまりが渦巻いている。
 絡まる足を必死に動かす。柔らかく重い砂は、足裏にまとわりついて中々俺を離さない。
 ……まるで鎖のようだと俺は感じる。自分で絡ませ心を縛った、あの鈍く光る鎖の重み。
 ……どうしようもない悔しさと情けなさに歯を食いしばる。
 もう少し、もう少し行けばきっとあいつが待っている。絶対そうに決まってる。
 幼い頃に言い含められた、迷子の心得を思い出す。
 大人を頼れ、自力で帰れ、交番に行け。……とりあえず、そこで待て。
 だから、だからきっと待ってる。俺が気づく日を。俺が本当に一緒に歩く日を。俺の言葉を。
 そのはずだ。そのはずなんだ。
 ……多分、おそらく、きっと。俺の希望、俺の願い。
 ……俺の建前。
 ……そうでなくてもいい。待ってなくてもいいんだ。
 俺が行くだけだ、追いかけるだけだ、伝えたいだけだ。
 結果が分かっていても、馬鹿にされても、それでもいい、それでもただ言いたい、一言だけでいいから言いたい。
 ずっと、ずっと、ずっと、ずっと……
「直人……」



◆◆◆◆◆

「……まーた寝てる。おまえ、本当に寝汚いのな……」
 砂浜と海と空が、暑い夏の日が、俺の眼前から風の速さで過ぎ去っていった。
 それと同時に、ぼやけながらもよく見知った風景が、俺の視界を塗り替えてゆく。
 涙を振り払うために下ろしたはずの瞼。そろそろと指で辿った眦と頬、そしてどこもかしこも、潮で濡れた様子はない。
 泣いてはいなかった、あれは夢だった。
 ……そうようやく認めた途端に、胸の鼓動が大きく高鳴り始める。安堵と、恐怖のそれに近い。
「……寝てない寝てない。起きてたよ」
「涎、出てるぜ」
「…………」
 頭をコツンと軽く叩かれた。そこそこ冷たかった天板は、今は組んだ腕と共に突っ伏していた額の熱が移ってしまっている。
 直人は台所から持ってきたらしい、麦茶が入った卓上用ポットを俺の横にそっと置いた。他にコップと……何かの深皿がひとつ。
 家具調といえど、そんなに広い炬燵じゃない。
 直人は俺の傍に腰を降ろすと、脚を炬燵に突っ込んだまま、身体だけを俺へと擦り寄らせる。
「あ、苺……」
「お婆ちゃん、風呂からあがったみたいでさ。赤飯の豆とか、明日の用意、してたみたいで……ちょっと見てたんだ」
 俺が見てたからかな、明日用だけどって、少し貰ったんだ。
 そう微かにくすぐったそうに、直人は皿の中の苺に向かって微笑んだ。
「……お婆ちゃん、凄いな」
「……ん、ああ、そうかな……」
「凄いぜ?」
 声色に、ほんの少し切ないものが載せられていた。おそらくそれは、……得られなかった、捧げることもなかった慕情への渇望。
「…………」
 ……テレビの画面を見遣れば、今日一日のニュースをキャスターが伝えていた。
 俺が見ていたはずの賑やかな番組は、すでに終わってしまったらしい。
 明日まで、あと一時間もない。
 俺たちの帰省が遅れたせいもあって、祖母の時間も狂ってしまったようだ。……普段はこんなに遅くまで、起きている人じゃない。
「そうそう!おまえ、明日、ケーキ屋に行ってくれって。俺のケーキが予約してあるんだってさ」
「うーい」
 俺は軽く息を吐いた。……皿の中には練乳をほんの少し添えがけした、真っ赤で大粒な苺が数個に、小さいフォークが二本。
 ……明日まで、あと一時間もない。
「……なあ」
 服裾を引っ張られた。色違い、それだけのはずなのに、何故俺が着るとこうもくたびれた物のように見えるのか。
「なあ、なあってば……」
 そのままゆっくりと面をあげると、案の定……嬉しそうに口を軽く開いた直人の顔がそこにあった。
 洗った髪もすでに乾いているようで、俺へと向ける動きには全く何の遠慮もない。
「な、何だよ……?」
「あ〜ん」
「……へ?」
「だからさ、苺。あ〜〜ん」
「…………」
「あ〜……顎が疲れるって。ほら、早く食わせてくれよ、あ〜ん」
「…………」
 俺はフォークに苺をぶっ刺すと、そのまま直人の口へと運んでやった。
「あ〜〜……ん!」
「…………」
 しばらく租借した後、直人は味わうようにしてゆっくりと飲み込んだ。物凄く美味そうに、嬉しそうに。
「……甘いか?」
「凄い美味いぜ……」
「…………」
 耳元でそっと囁かれた。とんでもなく甘い声に、首筋がザッと粟立ったのが分かる。
 ……つい、明日までの残り時間を考えて、……思ってしまう。
 俺はちょっとだけ、炬燵布団の上に置いた、意味もない握り拳に力を込めた。
「おまえも食べろよ。ほら、あ〜ん」
「…………」
「あ〜〜ん」
「……あーん……」
 歯で苺を咥える。フォークから引き抜くようにして口の中へ入れると、何が面白いのか分からないが、直人が軽く吹き出した。
「そんなガッチリ食わなくってもさぁ」
「落としたくなかったんだよ……あ、美味い」
「な?甘いけど、酸味もあって、凄い美味いよな」
 直人は肘を卓の上について、どこへともなく視線を走らせている。
 嬉しそうな、楽しそうなその表情は、それでいてどことなく切なげだ。
 ……俺は直人の口に、苺をもう一粒、放り込んでやった。
「俺……おまえも、凄いと思う」
「…………」
 自分で食べようと刺した苺を、フォークごと奪い取られる。
 案の定、食べさせてやるよと言わんばかりに、唇に赤いそれが当てられた。
 ひんやりした、感触。甘い香り。……どことなく、いやらしいなと感じてしまう。
「おまえを知って、おまえを好きになって。何か俺、いいことばっかり起きてる気がする」
 何かの言葉を告げようと、俺は微かに口を開いた。
 直人はそれを見逃さず、俺は更に押し付けられた苺を仕方なく口中に迎え入れる。
「お婆ちゃんは優しい……でも、おまえと俺が知り合って、こうしてなけりゃ……俺はこんな風に苺も食べられなかった」
「…………」
「……おまえは凄いよ。気づいてないかもしれないけどさ。そうやって俺とか、どんどん幸せにしてゆくんだ……」
 最後の一粒、一際大きく赤い苺に、俺は華奢なフォークを突き刺した。




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