冬の空気が火照った身体に気持ち良い。俺はアルコールの過剰な息を吐き出した。
 どちらかといえば、俺は酔うと気が滅入るタイプなようで……あんまり呑まないことにはしている。
 だけれど呑まなければならないときや、そんな気持ちの日もある訳で。
 まぁそれは他の奴らも同じ事なんだろう。……ヤツを見るに。
「うおー! うっほほうっほほ! うおー!」
「ああもう……叫ぶなって、慎也」
 そう、俺の隣には酔っ払いがいる。


帰ってきたヨッパライ



「脈あったのにー脈あったのにー!」
「ああ、はいはい、そうだったそうだった」
 ギーコギコギコと、うるさい音が深夜の公園に響き渡る。半泣きの慎也がブランコに泳ぎ乗ろうとして、必死になってもがく音だ。
 あの小さな座席の上でどうしてもクロールがしたいらしい。ばたばたばたと、靴を思い切り汚しながらのバタ足が続く。
「今まで積み重ねてきたのに! 今まで好感度上げてフラグ立ててたのに!」
「その表現はやめろよ……」
 慎也は俺と違って、楽しく酔う方だ。明るくなって饒舌になる。ポーカーフェイスというか、いつもの仏頂面をひどく可愛く緩ませるのが凄くいい。
 ……それが今はこうなった。楽しく酔うにも何をするにも、やっぱり程ほどの適量っていうものがあるという、いい見本だ。
 まぁ今の慎也も駄々っ子みたいで凄く可愛いけど。
「だって俺、女の子なんてゲームでしか知ーらなーいもーん! 現実の女の子ってなぁにー?! それって美味しいのーぉ?!」
「…………。美味しいというか、気持ちいいぜ」
「うわあああああ非童貞のヤリチン発言、ありがとーうごっざいます!!」
 ……慎也はこの夏頃から知り合った、一人の女と交流を持ち……その、友好を少しずつ深めていっていた。
 慎也の脈あり発言は思い込みでも間違いでもない。確かにあのままいけば、二人は付き合うことになったはずだ、恋人として。
 ……見ているこっちからすれば、物凄くノロマでゆっくりし過ぎな近寄り方だった。だけど、そのじわっとしたやり方がその女のどこかに引っ掛かったのだろう。そう、そのあんまりな進み方に、俺も見極めを誤った。
 ……もっと早くに女と慎也の仲を断ち切らなきゃいけなかったのに。こんな事態になる前に、ザックリやっておけば良かったんだ。
 そうしておけば、今日みたいに慎也を嘆かせずに済んだのに。……慎也を、怒らせずに済んだのに。
「うううう……」
 慎也はとうとうクロールを諦めた。代わりに、座席に顔を埋めてしくしくと泣き縋っている。金メダルをごめんなさいとか、意味不明な呟きが微かに聞こえた。
 ……今日はいわゆる合コンだった。気合の入った格好で、さり気なくを装って慎也の席のそばに座った彼女。根回し済みだったのか、俺と慎也の間にはその女の友人たちが陣取った。
 彼女らにも、俺のよくない噂が届いているらしい。友達の女を寝取るとか、横恋慕するとか、何とか。慎也に同情する声も、俺の耳に届かないこともない。
 女たちの止める手や非難する声を振り払って、俺は無理矢理に慎也のそばに座り込んで――慎也に酒を勧めて、二人の話の腰を折って、慎也に酒を呑ませて、その女から話題を奪った。
 そうこうしている内に、その女の顔色がはっきり変わったのが分かった。だから俺は泥酔し始めた慎也の背中をゆっくり撫でさすりながら、その女に微笑んで見せたんだ。
 そうだよ。俺はお前なんかどうでもいいんだ。
 俺がお前の恋敵だよ。
 気づいているかな――慎也は俺の酌なら絶対に呑むし、勧めた肴は残さず食べる。少なくとも、俺の方がお前より大事なんだよ、絶対なんだよ。
 ……たとえその内訳が、慎也とお前が築いた、恋とかじゃなくても。
「……おーい、起きてるか?」
 気づくと、慎也の動きが止まっていた。寝ているのなら、最悪引き摺って行っても学生寮には帰ることができる。今のままではうるさ過ぎて、深夜の住宅街を通り抜けるには気が引けた。
 俺のせいだとはいえ、俺は早くこいつの酔いが少しでも醒めないかなと自分勝手なことを思った。
 ……ずっと、今日その女に間接的にとはいえフラレたことを、こうして嘆かれるのはやっぱり辛い――俺のせいだとはいえ、いや、いや俺のせいだからこそ。
「…………」
 慎也の反応はない。
 ……泥酔しながらも慎也がその女の方へと意識を向かせようとするのを、強引に俺は自分の元へと引き寄せた。俺の意図が分かったはじめこそ、彼女は俺に果敢にも挑んできた。俺がさらった話題を続けて慎也に向ける。慎也が応えようとする先を遮って、無理に俺の方へと捻じ曲げる……その繰り返し。
 だけれど現実を知るにつれ、敵意とやる気で高揚していた女の顔は、どんどん元気を失くしていった。
 そうだ。慎也は結局俺を見る。
 俺から投げた会話のボールを、決して受け止め損ねたりはしない。その女のそれには、俺が手を出せばすぐに鼻先を引っ込めてしまう癖に。酔い潰れていつもの冷静な部分を剥ぎ取られたヤツの、本当の姿だ。
 俺を泣かせないよう、寂しがらせないよう、俺のために甲斐甲斐しく親友を勤め上げる、そう躾けられた、まるで犬のような、慎也の姿。
 最後には俯き、何もかも諦めたような分かったような顔をして、その女は力なく席を立って去っていた。別れの挨拶は素っ気ない一言で……だから俺から慎也に言ってやったのだ。もうバイバイって言ってたぜ、と。
 ――――でもこんな勝利に、一体何の意味があるんだろう。
「……っしゃああ! 今踊った! 今踊ってきた! じゃんがら! じゃんがら!」
「うわっ!」
 感傷に浸る俺を他所に、いきなり慎也が立ち上がった。そのままくるくると回転しながら、ブランコ前の低い鉄柵に片足を乗せる。俺をきっと見据えると……慎也はそのままゆるゆると崩れ始めた。
 両足首を鉄柵の上に乗せ、見据えた瞳はそのままに、冷たく硬い冬の砂土の上に――だらんと言っていいのか分からないが、結局ヤツは寝転がった。そして腕組みをして俺を見る様は、どこから見ても酔っ払いだ。
「何やってんの、お前……」
 言わずにはいられない、けれど酔っ払いに何の意味があろうかな愚問を思わず口にする。すると慎也は眉間にしわを寄せ、深く重く息を吐いた。吐息の色はさすがに少し白い。そして何より酒臭かった。
「女の子って、そんなに気持ちいいですかっ?!」
「………………」
 何なんだ、もう。……いや、そんなにもその女に去られたのがキツかったのか。俺はそう思い直して、勝手に胸を痛くした。
「まぁね」
 一呼吸置いて、ようやく返事を返せた。嘘じゃない……少なくとも身体はとっても気持ちいい。心は凄く荒むけれども。
 ――けれども、恋するフリはやめられない。好きなフリをするのを、やめる訳にはいかない、いかないんだ。
 好きなフリをしていれば、好きだと思えるコトをしていれば、いつかは本当の恋になるかもしれない。そうしたら、コイツを、慎也を、俺から解放してやれる。俺も慎也を忘れられる。誰も彼も幸せな結末だ。
 ……本当に欲しいものは、やっぱりいつも手に入らない。
 もう同情とか友情とか、そんなものなんか欲しくないんだ。
 なあ、俺が大事なら、何で他の奴なんか見るんだよ。俺から逃げたい証明だろう?
「とっかえひっかえヤリまくって、そんなにセックスって楽しいもの? 気持ちいいもの?」
「……まぁね」
 前者はNoで、後者はYesだ。別にそんな楽しい訳じゃあない。本当に好きでもない奴に、せっせと挑んで何が楽しいというんだろう。
 俺だって本当に好きな奴と、……本当に好きな人と、できるものならしてみたい。
 してみたいよ。
「……みたい? 慎也」
「んん? なに……聞こえなかったぞ」
「そんなにセックスしてみたい? 慎也」
「…………ま・あ・ね」
「じゃあ、俺としよう、慎也。俺、自信あるぜ……絶対楽しくして、絶対気持ち良くしてやるよ」
 そう言いながら、俺は慎也のベルトを緩め始めた。

◆◆◆◆◆

「うわははははははは!」
 瞬間の間を置いて、急に慎也が笑い始めた。俺の身体が驚きに大きく揺れる。……妙に平坦な、険のある嫌な笑い方だ。
「慎也……?」
「いやぁ、俺も……なに、何ていうのかなぁ、あははは、俺もお前のコレクションの一個になるのかなぁ、って思ったら――――なんか、笑えた」
 声の調子が急に暗くなる。俺は慌てて慎也に向き直った。
「どれもこれも欲しい? 俺がちょっといいなって思った子も、俺をちょっといいなって思ってくれた子も、みんなみんな欲しい? 俺から全部奪った上で、俺から何もかも失くした上で、俺をそうやって食う訳か?」
 ……言葉が出ない。
「そうやって一晩限り、俺が酔ってるのをラッキーに、後でどこぞの誰かと具合でも、使い心地でも比べてみる訳か? 酔っ払っているからって、何でも許してもらえると、何でもしていいと思うなよ」
「慎也!」
 俺の身体がぶるぶる震える。それとは逆に、慎也の視線や声は、どこまでも静かでどこまでも落ち着いていた。俺は頭を振りながら……必死になって言葉を搾り出した。
「違う、違う違う違う! 俺はお前しか欲しくない、お前だけが欲しいんだ! 他の奴らなんてどうでもいい! 俺はお前と、お前だけと本当はしたいんだ!」
 俺の中でお前がそんな、そんなくだらないところにいる訳がない。お前をそんな軽く思っているだなんて、それだけは絶対に思われたくない。
 何だよ、何だよ……いつも、いつでもいつもお前は俺の中では重たくて、想うだけで心はいつも沈んでいくのに。もうどうしようもないくらい動かせないところにいる癖に。
 どうして分かってくれないんだ。どうして分かってもらえないんだ。お前はいつも俺を見てるのに、どうして大事なところだけは、いつもいつも分かってくれない!
「…………」
「悔しかったんだ! お前が抱く予定の女共が、悔しかったんだよ! 何でお前を好きな俺を差し置いて、何であいつらがお前と手を繋いだり、抱き締め合ったり、キスしたり……セックスしたりするんだよ! 考えるだけで腹が立つ! だから奪ってやったんだ……あいつらから、お前を!」
 慎也に口を挟める時間なんか、与えてやらない。俺は一気に言い募った。我慢していたのに、我慢してたのに。
「俺が! 俺がいるだろ?! お前を好きな俺が、ここにいるだろ!! そんなにしたいんなら、俺を抱けばいいだけだろ!」
 お前が言わせたんだ、慎也。お前が悪いんだ、慎也。もう俺は知らない……もう俺は自分を止められない。
 もうこの世界中のどこを探しても、怪しいながらもお前の親友な三好直人は存在しない。同情を感じただの、友情の行き過ぎただの、母性や父性を求めただの、そんな上っ面の言い訳なんかもう消えちまったんだ。
 好きだって、何でこの一言で済ませちゃいけないんだ。
 俺はお前と抱き合いたいくらいに、こんなに好きなんだ。本当に、それだけなんだ。
「…………。……俺を、好き? 直人……お前が?」
「そう言ってるだろ! いや、ずっとずっと前にも言ったぜ! 俺はお前が好きなんだよ! ……何だよ、覚えてもいないのかよ……ふざけるな!」
 それまでただ目を見開いて、俺を見つめるだけしかなかった慎也が言葉を発した。けれど俺にとっては余りな内容で、思わず俺の語気が強まる。
 そのまま怒りに任せて、鉄柵の上に置いた慎也の足首を強引に薙ぎ払い落とした。されるがままの慎也は、捩れたくの字のような、更におかしな格好になった。
 それでも驚いたような顔のままで、俺を見つめるのをやめはしない。……その呆けぶりにまた腹が立って、また悲しくなって、俺は襟首を持って慎也をしゃんと起き上がらせた。
「聞こえてるか、聞いてるか? お前は俺を嫌いじゃないかもしれないけれど、俺はお前が好きなんだよ……」
 慎也の切れ長の瞳に長い睫毛、伸ばした前髪に隠れるそれが、俺はどれだけ好きなことか。今は俺だけ、泣きそうに怒る俺だけが映っている。
 だけどこんな顔をした俺なんて嫌だ。慎也が見ているのに、慎也の視線を独り占めしているのに、どうして俺はこんな不幸せな顔をしてるんだ。
「俺を好きだって言えよ、このバカ野郎! そうじゃないなら、嫌いじゃないとか言って、俺を期待させるなよ!」
 情けない自分の顔が見たくなくて、それ以上に慎也に触れるほど近い状況が我慢できなくて、俺は慎也を突き飛ばした。
 慎也はよろけながらも、その顔はやっぱりあの、驚いたようなもののままだ。俺は余計に増した悲しさに、俯くことしかできなかった。
 触れるほどに顔が近いのに、こんな近いのにキスひとつできない、しちゃいけない関係なんて、俺はもう嫌なんだ。
「……忘れてなんかいないけどさ、直人」
 ぽつりと漏らすような言葉に、俺は顔を慎也の方へと向けた。ヤツはといえば、相変わらずあの驚いたような、何だかもう訳の分からない表情を続けている。
 公園の灯りと月の光とで、奇妙な顔で立ち竦む慎也をその背中から照らし出していた。現実感のないような、あるような……不思議な感じだった。
「昔も今も、そういう意味で、俺を好きだと――思ってもいいの」
 だけれどその声はとんでもなく堅くて、真面目で、低くて、俺の好みで……俺はこっくりと頷いた。
「嘘とか冗談じゃなくて?」
「……っ! 嘘な訳が、冗談な訳があるか!」
 泣きたい気持ちで俺は声を張り上げる。 ぼろぼろぼろぼろ、俺の仮面が剥がれていく。酒なんか、やっぱり呑むんじゃなかった。してみようとか、言うんじゃなかった。してみたいとか、思うんじゃなかった――これは無理な話だけれども。
 してみたい、してみたい、してみたいんだ、してみたかったんだ。友達じゃない、親友じゃない、危ないところをフラフラと、漂ってるだけの関係じゃなくて。
 したい、したい、全部したい。友達じゃないこと、親友じゃないこと、冗談だって笑い飛ばせないような、誤魔化せないような、そういう際どいどころかあっちまで、全部全部したいんだ。

◆◆◆◆◆

「………………。……わはははははははは! わーはっはははははあっ!!」
 突然慎也が笑い始めた、また。でもそれはさっきの笑い声よりは、多少はマシな代物だった。笑い声を上げながら、そのままブランコの鉄柵を乗り越えて――走っていく。
 一瞬呆然としたものの、無茶苦茶なほどの怒りが俺の中に燃え上がった。これだけ真面目に、これだけ真剣に心を曝け出したのに、話したのに。
 この酔っ払い!この酔っ払い!酔っ払ってるからって、何でも許してもらえると、何でもしていいと思うなよ!
 言われた言葉そのままを、俺は慎也に内心で叩きつける。本人に言えないのは――今口を開けば、泣いてしまいそうだったから。
 俺は慎也を追いかけた。
「直人が怒ったぁ〜! すっげぇ! 直人が怒ったぁ!」
「この、慎也……お前っ!」
 鬼ごっこはすぐに終わった。慎也はジャグルジムの一段に足を掛け、追ってきた俺を待ち構えている。ケラケラと、顔を赤くする俺を見て更に笑った。
「……俺はいつも怒り狂ってるんだ! お前と女がつるんでるのを見てて、何が面白いっていうんだ!」
「やーい、ピエロピエロ〜!」
 慎也は舌を突き出して、おどけるように俺を見る。それが――俺自身と慎也への怒りで光る、俺の眼差しと絡み合った。
「だって直人、お前、俺のこと好きだとか何とか言いながら彼女作ってさぁ! とっかえひっかえヤりまくりでさぁ! わーははは! お前の言葉、そっくり返すぞぉ! 俺が面白いと思うって、考えてたぁ?!」
 グッと返答に詰まる。慎也への腹立ちが急に治まり、それとは真逆な……後悔の冷たい汗が背中を流れた。
 そんなこと、考えてもいなかった。俺は少しでも、慎也を解放しようと、慎也から離れようと思っていた。……いや、試していたのもあったかもしれない。俺から逃げない、離れない証明を、いつも味わっていたかったのかもしれない。
 けれど、けれど……。けれどじゃあ、俺はどうすれば良かったんだよ。どうしたら良かったんだよ。
「俺、あの旅行の時から、わぁすげぇ俺たち両思い!とか思って、思って……思ってたんだけど、……何か、蓋を開けたら違ってた、みたいな」
 語尾が震えていた。
 慎也が俺から視線を外して、ジャングルジムの鉄棒を握ったまま……その腕の中にコテンと顔を埋めた。軽く肩が震えている。肩が、肩が、肩が。
 そんなまさか、と俺は頭を振った。そんなまさか。そんなまさか、ある訳ない。あったらいいと願っていた、そんなことがある訳がない。
 だけれど今、今確かに地面は濡れている。月明かりが……慎也の顔から雫が垂れているのをくっきりと照らし出している。
「…………」
 慎也が鼻を啜った。俺は……ただただ頭を振っていた。嘘だろ、嘘だろ……嘘じゃないのか、本当なのか。
「俺、バッカみたいだ、俺、バッカみたいだ! 俺ってバカだなぁって! そうだよなあ、そうだよなあ! 女の子の方がいいよなぁ! ああごめんなあ! 俺だけガチになっててごめんなあって!!」
「慎也、慎也!」
 もう居たたまれなくて、切なくなって、俺は慎也の名前を呼んだ。……そう感じていたなんて、そう思っていたなんて、俺はちっとも気づいてなかった。考えてもいなかった。
 突風が文字通りに俺の頭を冷やす。いや、考えようともしなかったのは、一体どこの誰だろう。
 慎也はいつも俺を見ている。そうして大事なところではいつも間違う。何でいつも俺を見ているんだ? 何で間違えてしまうんだ?
 それは――それは。
 それは俺が何も言わないからだ。言おうともしなかったからだ。話すつもりもなくて……だから見ているだけしかなかった。だから、だから分かるはずなんか、なかったんだ。
 気づこうとも考えようともしなかったのは、俺の方じゃないか。俺は慎也のどこを、何を見ていたんだろう。慎也、慎也、慎也。
「だからさぁ! 俺、諦めて、他の子見ようとしたんだけどさ……好きになろうとしたんだけど……………………やっぱり、やっぱり無理だった」
 ガンガンガンと、リズミカルに慎也がジャングルジムを登ってゆく。俺はハッと我に返った。慎也はどうやら外側から内側に攻めて、一番高い天辺まで登りつめるつもりらしい。
 普段なら止めもしないけれど、今の慎也は泥酔状態だ。俺は冬の寒さとは違う冷気を感じて、思わず肩を竦ませる。掴む鉄の棒だって、かじかむほどに冷たくて、もしうまく握れず滑ったら……。
 俺の酔いはどうしてこんなに気が滅入るものなんだろう。もう不安なことしか考えられない。
「でもなーんだぁ、俺言っても良かったんだなぁ! 俺、言っても、言っても良かったんだなぁ! ……それじゃ言うぞ、言うぞぉぉ!」
 ガンッと、一際大きく高い音を立てて、慎也が最後の段を登り上がる。そのまま仁王立ちに両手を大きく広げて、真上を見上げた。
「おい、おい、慎也! お前今、酔っ払ってるんだ……! 危ないだろ、やめろよ! やめてくれよ!」
「やぁめなーいっ!! ……ああ俺、直人が、す!き!だッッッ!!」
 時間が止まった。
 止まったような気がした。
 え、なに、なに、なにこれ、なにこれ、何だこれ。
「俺は、直人と、エロいことを、したぁああああいいんだッッ!! セックスとかすっごく!! 直人と!し!た!い!! たっ!く!さんッッッ! 一晩だけじゃなくってぇぇぇぇええっっっ!!」
 息が……できなかった。頬が焼け付くように熱くて痛い。俺は無意識にまた、いや今度は小さく頭を振っていた。
 何か喋りたいのに、口が微かに動くだけで、なんにも言葉が出てこない。
 いや、いやちょっと、ちょっと待って、ちょっと待ってくれよ。
「直人ぉぉぉぉ! だ!い!す!き!だぁぁぁぁあああっっ!!」
 ガン!ガン!ガン!と連続して甲高い音が響く。慎也の酔っ払い馬鹿が、どうやらジャングルジムの上でジャンプしているようだった。手を離したまま――いやあろうことか、真上の冬空に向けて手を伸ばして、突っ張って。
 俺の方を見もしないでのたまうその姿に、カッとまた、それでもさっきとは違う怒りが俺の中に燃え上がった。
 危ないって言ってるのに、俺の言うことを聞きやしない。俺が目の前にいるっていうのに、俺の方を見もしない。ああクソ、ああっクソ、本当に本当に腹が立つ! この馬鹿、この馬鹿、この酔っ払い!
「バカ、この、バカ野郎……! そうじゃなくて、いや、そうなんだけど……っくっそ! ああもう、そういうのは、本人を目の前にして言うんだろ! このバカ、この酔っ払い、この……ああもうどうでもいいから、俺のところに降りてこいよ! 俺のところに! このバッカ野郎!!」
 もうごちゃ混ぜの状態で俺は必死に慎也に呼びかけた。どっちも本音だけれど、どっちを今一番に言えばいいのか、もう俺の混乱した頭では分からない。ああそうだ、俺もそうだ、酔っ払いだったんだ。
「っはぁ〜〜〜いぃ!」
 と、にこやかな、機嫌の良過ぎるほど良い、薄気味の悪いとも言えなくもない声が頭上から降りかけられた。にんまーりという言葉がぴったりな程に、慎也は微笑んで俺を見ている。この馬鹿、この酔っ払い。
「たぁっ!」
「へっ……えっ、えっ、えっ!」
 カンカンカン、片足ずつのジャンプはそんな軽い音がした。俺はザッと青褪める。
 あれだけ言ったのに、慎也のヤツはまたしてもジャンプした。俺のいる外側の方に来ようとしているんだろう、そのまま降りろって言ったのに――いや、いや、そのまま降りろって、ああ畜生、言ってなかった!!
 ジャングルジムの鉄棒が、慎也の体重を受けて軽くしなっているのが分かる。嫌だ、嫌だ、嫌だ――やめてくれ。そう思った瞬間、慎也が最後のジャンプをした。
 外側の最上段からの、ダイブ。馬鹿、馬鹿、冗談じゃない!
「うわ……!」
 俺の横ギリギリに、慎也が大きな音を立てて着地した。
「……馬鹿、この馬鹿野郎! お前……!」
 綺麗な形で着地した……と思った次の瞬間、ペタリと慎也が尻餅をついた。慎也の笑っていた顔は、今はまた驚きの表情に変わっている。
 その反応のなさに、ただ呆けて棒立ちだった俺は慌てて屈み込んだ。足は、脚は、怪我をしていないか。どもりながらそう言いつつ、痛みはないか探るように、俺は震えながらペタペタと慎也に触れた。
「…………」
 その手首を、慎也が掴んだ。
「……今、今触ったところ、痛んだのか?」
 ふるふると、慎也が首を横に振った。子供みたいな反応だ。
「…………慎也、慎也、痛いところないか、慎也?」
 俯いていた顔が、俺の方を見る。何を考えているのか分からない表情が、ぱあぁっと明るくなった。そして俺の手首を掴んでいた手が離れて……俺の手を、ぎゅっと握った。ぎゅっと。
「直人」
「……慎也?」
「ただいま、直人。お帰り、直人」
「…………」
 慎也は優しく微笑んでいた。何だか透き通っているような、不思議な表情だった。迷いから覚めたような――迷い道からとうとう出られたような、そんな顔をしていた。
 俺たちはもう迷子じゃない。
 俺は言葉を必死に押し出そうとした。ぎゅっと、今度は俺からもその手を握り締めて。
「……お帰り、慎也。ただいま、慎也……」
 そう言った俺に満足したのか、途端に慎也はぐにゃぐにゃと身体の力を抜いて、俺の方へと身を預けてきた。

◆◆◆◆◆

「なーおーとーぉ」
「……なに?」
「……なんでも、なぁーい」
 慎也は俺の両腿に頭を乗せている。膝枕というヤツだ。俺もされたことはあってもしたことはないし、どういう心構えでいていいのか、実はよく分からない。
 何ていうか、むず痒い……色々と。
「なーおーとーぉ」
「……なに?」
 慎也の両腕が伸びてくる。そのまま俺の顔のラインと唇を、その指がくすぐっていく。
 俺はこの甘い催促には勝てなかった。身を屈めて、俺は慎也にキスをした。
「…………」
 ……慎也も、俺のキスにきちっと応えてくれた。割と長い間、ずっと。
 いつの間にか、慎也は半分身を起こしていた。でも唇が離れると、また慎也はくたくたと俺の膝に寝に戻った。
「うわあ……すっごく幸せ。……でもすっごく…………疲れた」
「ああ……うん、俺もだよ」
 怒ったり悲しんだり心配したり、俺も本当にクタクタだ。しかも俺だって酔っ払いなのに、慎也は全然それを分かってない。……まあ、酔っ払いだから当然なんだけれど。
「なあ慎也、お前、本当にどこか痛くない?」
「痛く、なーーーいっ!」
 酔っ払いに何を言っても無駄なんだろう。いや本当かもしれないが、鵜呑みにするには、慎也も俺も酔っ払い過ぎる話だ。
 俺の膝枕でゴロゴロする慎也をどうにか宥めすかして、俺はどうにも抑えられない不安の元を解消した。
 慎也のズボンの裾を捲り上げ、靴はもちろん靴下も脱がせた。腫れやら何やら、素人目にも分かるような怪我や傷は見当たらなかった。
 ちょっとだけホッとする。また少し時間が立てば、慎也の酔いが覚めれば、はっきりと安心できるだろう。俺は慎也の衣服を整えた。
「あ、ちゃんと着せてくれた……」
「…………? それってどういう意味なワケ?」
「いやほら……何ていうか……このまま、なし崩し的にというかぁ……な?」
「はっきり言えよ」
「……初体験が冬場の青姦だなんて、俺、イヤだからぁ! こう……もっとロマンチックに行きたい! そう思ってるんだ、なっ?!」
 ……力が抜けた。
 一体なに……俺ってこういうシーンでも、サカっちゃうように思われてんの?
 そもそも、そのロマンチックって、一体なに?
「…………具体的には、どうすんの」
「あれだ、あれ……えーとホラ、折り紙か何かで鎖に作ったので、ホラ壁飾ってさぁ」
「それ……ロマンチックなのか?」
「ろーーーまーーーんっ! はいはいっ! ろーーーまーーーんっ! はいはいっ!!」
「…………。……紙で花も作る?」
「もちろん作るぞっ!……それでな、横断幕みたいなのをな、掛けるんだなこれが!」
「…………初エッチ、おめでとう!とか?」
「あー違う違う! 祝!両思い記念!みたいな感じで!」
 それを言うと、慎也は本当に凄く本当にどうしようもないくらいに、顔を笑み崩れさせた。とろけてるみたいだった。
「直人、直人。俺、頑張って、頑張るから。絶対に気持ち良くするからさ」
「………………」
「腰が抜けるまで、しような。すっごくいっぱい、しような。今までの分、取り戻すくらい、たっくさん、たっくさんしような……」
 そのまま、俺の腿にスリスリと頬を撫で付ける。言葉の意味を考えると、もう俺がヤられる一方なような、それが慎也の心の内では決定しているような、何だかやるせない気分にはなるけれども。
 俺は、やっぱり幸せを感じるしかなかった。
「………………。……うん…………」
 それだけ言って、俺は優しく慎也の頭を撫でた。慎也は嬉しそうに肩をひくつかせて、その身体を更に縮めた。何かまるで痙攣しているみたいにも見えて、俺に――――
「うぼぁあああああああぁあああおおおおぇええええぇえええええええげへぇっぇぇえええぇぇぇぇ」
「うぅわああああああああああ!!!!」

◆◆◆◆◆

 溜まっていたものを色々吐いてサッパリしたらしい慎也は、俺の願い通りなんだろうが――寝入ってしまった。殺意が沸く瞬間とかって、こういうのを言うんだろうな。
 俺はぐっちゃぐちゃのお気に入りジーンズにもう半泣きになりながら、慎也を無造作に地面に捨てた。そうしてひぃひぃ泣きながら、慎也が排出したヤバい物体に砂を蹴りかけ蹴りかけ転がした。頭の中で多方面の関係者各位に謝りながら――どうにか片隅までそれを追いやることができた。
 どつけば何とか慎也がその意識を取り戻すのは幸いだった。そうして起きてはでれでれと俺に圧し掛かるヤツを半ば引き摺りながら、何とか学生寮に帰り着いた……お冠なハズの寮長の、哀れみの視線が半端なかった。
 砂を払えるだけ払って、慎也は部屋の床に転がした。適当に毛布もひっかけてやる。でろでろの衣服を何とか洗濯機に放り込めるまで汚れを拭ったり洗い落としたりすると、……俺は自室に戻らず慎也の部屋に居座った。
 眠れるはずなんかなかった。眠りたくもなかった。眠って目覚めたその後に、全部が夢と分かったら、俺はきっと立ち直れない。そうしてそう怖がりながら、だけど一方では滅茶苦茶に浮かれてもいる――ああこれからどうしよう。
 とりあえずはロマンチックだ。朝イチで店に駆け込んで、折り紙でも何でも買おう、買い占めよう。……そこで財布の中身を思い出して、俺は慌てて買える分だけと訂正する。
 輪っかの飾りを本当に使う日が……本当に飾れる日が来るかどうかは分からないし、俺としては飾らない方がロマンチックじゃないのかと思うけれども、何ていうか恋人の我侭なら聞いてやりたい――それだけで頭の中は一杯だった。
 どうか夢じゃないように。夢なら決して覚めないように。でもやっぱり夢じゃありませんように。
 俺独り善がりの夢なんて、もうとっくに飽き飽きだ。

◆◆◆◆◆

「何で俺、床で寝てんの……? それと、ものすっごく頭痛い……」
「おはよう、酔っ払い」
 毛布に包まった慎也が、ヨレヨレと俺の方へとにじり寄ってきた。何かまるで芋虫のようだ……まぁこんな酒臭い虫はいないと思うが。
 一時間も前から目覚めていたのは気配で分かっていたけれど、何ていうか意識を取り戻してはいなかったらしい。頭痛で動けなかったのもあるかもしれない。
「……部屋に戻った記憶が、ない……」
「だろうな」
 色々ムカッとする。ジーンズとか靴下とか靴とか、寮長の溜息とか、……一番大事なこととか。全部忘れてるのかと詰め寄りたい気持ちを、俺はグッとこらえる。その代わり、手にしていた輪っかの飾りをひとつ無駄にした。
 その紙を丸める軽い音に、他に世界があることを思い出したのか、慎也は酒で濁った瞳を下へと向けた。ヤツの小さなコタツの天板には、溢れかえるほどの鎖の海。
「…………」
 何か言ってくれるのかと、俺の切実な期待も裏切られる。慎也はそのまま無言で、ヘロヘロと身を屈めた。天板に僅かに開いた隙間の上に、顎がコツンと置かれる。鼻先がくすぐったいけれど手を動かすのは億劫らしく、そのまま目の前の紙の鎖を遠ざけるように、息を吹きかけ始めた。
 それだけ出来れば、酔いはまずまず醒めているだろう。俺はまったくと時計を見る……おはようどころじゃない、もう昼は回って小腹の空くような時間だった。
 俺もさすがに眼が痛い。
「……直人、手が震えてる」
「そうみたいだな」
「……目の下、クマができてるけど」
「そうらしいな」
「…………まったく!」
 慎也は酒臭い溜息を、頭痛の重さに耐えかねた表情で、その口から吐き出した。
 そして――いきなり、立ち上がった。
 物凄くよろけたけれど。
「そうだ、慎也、脚は……」
「痛くない」
 そのまま、自分を包んでいた毛布を俺にバサッとかける。風の勢いに押されて、せっかくの輪っかの鎖が天板から逃げ去った。
 俺は非難の眼差しを向けて、慎也に抗議しようと口を開いた。だけれどそんな俺よりも――いやそんな俺に対して慎也は怒っていたらしい。俺の口が、ヤツの暑っ苦しい掌で塞がれる。
「……寝ろ」
 ……かっこいいじゃないか、この酔っ払い。
 滅多に見られないキツい眼差し。酒焼けでも起こしたのか、低音で出した声は嗄れていた。ラッキーなものを見たなと思いつつ、俺は慎也の意見に素直に従うことにした。
 そう、恋人の我侭なら聞いてやりたい――まぁ、コイツが覚えているかどうかは、分からないけれど。……うん。
「……その間、俺、ちょっと出かけてくるから」
「何だよ、一緒にいてくれないのかよ」
 俺はちょっとがっかりした。盛り上がっているところに、冷や水でもぶっかけられた気分になる。
 まあ仕方ない、仕方ないよな……いいさ、いい。今はそれでもいいだろう。
 でも俺は覚えているから。忘れもしないから。今はロマンチックも出来上がっていないし、それのくだりに関しては、できればさらっと避けて通りたいような気もする。だからまぁ、いいだろう。
 どうにもならなくなったら、もう押し倒してしまえばいいだけの話だ。
 俺はもう、無駄に迷ったりなんかしない。
「……今まで散々俺の傍にいただろ、お前……」
 そうして内心の決意を隠して、俺は大袈裟に溜息をついてやった……いつもの通りに、素知らぬ顔をして。
「それとこれとは違うだろ? ったく……それで、どこに行くつもりだよ?」
「薬屋。ゴム買いに」
「………………」
 いや、いや、ちょっと待て。
「……ちょっと今辛いから、ついで買いは無理だからな……」
「………………あの」
「じゃあ、行ってきます」
「あのさ、ゴムって、……輪ゴムのこと?」
「……何でだよ。スキン、コンドームのゴムに決まってるだろ」
「慎也」
「……ダース買いするから、駅前の安いところかな……行けるかなぁ……」
「慎也、慎也」
「そうだ、ローションも買おう」
「〜〜っ、し・ん・やっ!!」
「ぉあっきゃぁあああ! 耳元でちょっとやめれ! 大声は頭に響きます!」
「……お、お前……お前」
「なに」
「迎え酒とかしてるんじゃないだろうな」
「………………あのなぁ」
 触れるほどに顔は近い。だから俺はむくれた慎也のその唇に、自分の唇を軽く押し当てた。
 パッと離したその直後、慎也の方からそれはそれは熱烈な、キスと頭突きが返ってきた。
 夜でもないのに星が見えたほどだった。でもそれは昨日見た、月夜のつたない光じゃない。今日の光に、俺とヤツは軽く涙を浮かべてしまう。
 これからはいつでも。いつでもできる、触れ合える。それどころか、ぎゅっと握って離さないから。

 ……こうして俺たち酔っ払いは、きちんと帰って来れたのだった。



(END)