悪夢




 俺は雨は嫌いだ。
 雨の日は、ただでさえ億劫なこの身体が、また余計に重くなる。そうなれば、俺はベッドの虫同然だ。やることなぞ何もない。ただ眠るだけだ、ひたすらに。
 雨は嫌いだ。俺の力を以ってしても、どうにもならぬ雨が嫌いだ。
 天は蓋され地はぬかる。飛び立つ翼は重く濡れ、駆け出す足はとらわれて、俺はどこにも行けない、飛び立てない。
 ……窓の外、どこまでも広がる天空に、俺はちょっとした感傷を見出すことすら楽しめない。
 俺は雨の日が嫌いだ。寝室に閉じ込められ、俺はどうしようもないこの肉体に、囚われの身なのだと分かるからだ。
 仕方なし、俺は日がな一日寝て過ごす。そう、だから俺の眠りは浅く、暗い。
 そう……雨は嫌いだ。
 ……浅く暗い眠りの中で、俺は夢を見るからだ。暗澹と立ち込める雲の谷間から、一条と射す光のような、それはきらめく夢を見るからだ。
 ……俺は雨の日が嫌いだ。
 夢の中、俺は笑顔の中で日を過ごす。俺を囲むのは、ふくらみ始めの蕾たち。はつらつとした肉体はどこまでも軽い。
 幻だと知りながら、俺は笑って生きて、また笑う。
 ……だから嫌いだ。
 今日こそはと、離さぬように夢を掴んだ拳も、布団の中ではいつも空だ。
 俺は……だから、だから雨が嫌いだ。

◆◆◆◆◆


 蠢く直人に追いやられた枕が音を立て床に落ちた。
「あ、あ、あぁっ……! しっ……紳一さ、まっ……!!」
 スプリングを軋ませて、白い身体がまた逃げる。深く挿し込もうと身を沈めれば、直人は首を仰け反らせ、短い呼気を何度となく繰り返した。
 抵抗なのか、歓喜なのか、……筋肉の張った大腿が、強く俺の胴を締め上げた。とはいえ、今はさしたる力もない。
「うあ、あ、あっ……ああっ!紳一っ……!」
 直人は馬鹿のひとつ覚えのように、俺の名をただひたすら呼んでいる。
 ……媚薬は良く効いた。直人は薬に身も心も支配され、常ならば出るはずもないだろう嬌声と締まりのない顔で、俺を暗く楽しませている。
 もちろん、挿し込んだままの俺の分身も同様だ。
「し……し、紳、一……っ!う、ぅうっ……!」
 揺られた頭部にのせられた瞳は、全くどこを見ているか分からない。薬の効きが強いのか、瞳孔は広がっている……実際よく見えてはいないのだろう。
 ……あの笑みを絶やさぬ美しい容貌の、取り澄ました顔の直人はここにはいない。
 頭を振るそれも、忙しなく動く眼も、幾度も幾度も出す俺の名も、おそらくは抑えきれない不安のあらわれだ。
 薬のために保てない平素の己はどこに行ったのか、今の自分はどこにいるのか、快楽に流されいずこへと辿りつくのか。
「まだだ……」
 まだ足りない。しかしまだ足りない。……いや、いやこれではない。
 本当に俺が見たいものは、これとは違う代物だ。だけれども俺の眼前で喘ぐものからは、決してそれを搾り取ることはできないだろう。
 俺が欲しいものはこれではない。こんなものではない。
「く……く、ぅうっ! 紳一、紳一さ、ま、紳、一っ……! っ、ああっ!」
「逃げるな……っ」
 挿入の繰り返しに、どうしてもずり上がってしまう身体を、その頭ごと抱え込む。抑えきれない吐息を無視して、そのまま押し込むように俺の身体へと引き寄せた。
 ……見知らぬ者が垣間見れば、まるで恋人同士の熱い抱擁にも見えなくもないだろう。
「ん、んんんっ……!うっ……、うああっ……!!」
 俺の腹に、潰されんばかりに擦れているものがある。熱く、硬い……直人の紛れもない男の証だ。
 肌に受ける感触から、おそらくは耐え切れずに濁った汁でも垂れ流しているのだろう。内側からの刺激だけで、よくもまあと……ほんの少しだけ哀れに感じた。
 そのような身体にしたのは紛れもない、この俺だからだ。
「これは、どうだ?」
 ……内側を抉る行為をしばし止め、俺は腹を緩く動かす。
「……!っや、やめっ……」
 恥じらいなのか、焦りが混じった拒否の声に、俺は唇の端を持ち上げる。逆に更にいきり立たせてやろうと、直人の敏感な箇所を俺の素肌にぶつけ擦った。
「っ……、いい反応だ」
 その刺激に、俺をまるで誘うように、直人の尻が蠢いた。外、内と、クッと俺の一物を締め上げる。
「うあ!あ!お、おやめくださっ……! っ、あっ!」
 直人の性器が更に昂ぶってゆく。俺が許可を与えなければ、直人は絶頂を迎えることは絶対にしない。俺の動きの隙を見つけ、昂ぶる身体を抑えることが直人の常だった。
 しかし、今日はそれを許す気にはなれない……何故かは、分からないが。
「もう、こんな……こんなっ、……オ、オレ、い、嫌だっ……!」
「お……っ」
 直人の脚が、俺を自ら引き寄せた。そのまま俺の上半身を抱え込むように、腰の上辺りでがっちりと、足の先が絡み組まれる。
「っく、っ、う、く……!」
 短い声の後。俺を抱え込んだ直人の脚が、ぐっと更にきつく締まった。
 ……来る。俺は多少意地悪が過ぎたかと、内心で苦笑した。
「……っっ……、っ……!」
 そうして思った通りの二三瞬後。息を詰まらせたような、することを忘れたような、とある緊張と沈黙が直人に訪れた。
「…………」
 俺は一物を締め上げる、圧迫感に瞼を下ろした。部分の感覚が、痛みと快楽の間を、振り子のように行き来する。
「……っ、ぁあっ……、は……っ、はぁっ……」
 熱い何かの液体が、俺の腹から胸元辺りに降りかかったのが分かった。それが意味するところは、ひとつしかない。……直人は一物を奮わせ、射精している。
「直人」
 その表情を確認しようと、俺は上体を少しだけ直人から引き剥がす。
 すると、あ、とも、う、とも取れる呻きが直人の口から上がった。挿入したままの分身が僅かに動き、休んでいた内側に、新たな刺激を与えてしまったらしい。
「し……し、し……い、ち……」
 何も映しこんでいない瞳に、熱気を帯びたもやのようなものが載せられていた。薬がもたらした快楽に、抵抗しきれず堕とされた潤み。
 気をやったあとの悦楽に肉体は打ち震えていた。惚けた表情は喜びとも、悲しみとも、そしてそのどちらでもあるようにも……ないようにも見て取れる。
「…………」
 これではない。これではないと思いつつも、俺はその姿を見続けた。これの眼差しは何かを見ているようで、実際は何も見ていない。
 ……まるで人形のようだった。
「…………」
 直人が見せる虚ろな美しさに、俺はそっとその頬を撫でた。……達した熱はまだ逃げず、それは憎いと感じるほどに生気に満ちていた。小さくも、ずっと俺の名を呼ぶ声も聞こえている。
 耳障りなその音を塞ぐように……呼気すらなくしてやりたいと、衝動のままに俺はその唇を塞いだ。
「紳、一さ……っ」
 ……硝子の瞳を持った陶器人形。誰も彼もが俺を恐れ傅いたあの幼い子供時代、たったひとつだけ、俺を無視した存在だ。
 それが不思議に気高くたまらなく美しく感じられ、触れることすらためらわれた。
 しかしそれには中身はない。あるのは空洞、あるのは俺を映しこむ光る硝子の瞳だけ……視線を吸い込むことのない、跳ね返すだけの造り物。
 いわば鏡を愛でていた己の浅はかさを悟ったあの日、俺は人形を床に叩きつけ壊し、直人を犯した。きつく、熱く柔らかく、そうして直人は俺を受け入れた、受け入れざるを得なかった。
 それは今も変わらない。
「……紳一さま……」
 気づけば、直人の腕が俺の背に回されていた。思いのほか、それは力強く俺を抱きしめている。
 まるで……まるで俺を閉じ込める雨のようだ。




俺はよく夢を見る……。




 ……校舎が夕日に染まっていた。
 紅色の夕焼けではない、落日のオレンジ色の光。それでもそれは美しく、俺は溜息をひとつ吐いた。校舎はその昔に著名な外国人建築家が建てたと聞いている。
 大胆かつ優美、そして繊細な代物だ。しかし、だが……古い。
 それらの隠しようのない傷みを、陽の光一色が染め上げている。それは味気ないこの職員室にも平等だ。
 窓ガラス越しに射し込まれるきらめき。書類や書籍の山に、どうしても雑然とした様子になりがちなこの一室も、今はその恩恵を一身に受けている。
 俺の指も、オレンジ色だ。
「…………」
 俺は目を通していた書籍のページを、付箋を挟んで静かに閉じた。こんな時間だからこそ、没頭できると始めたものだが。……こんな時間だからこそ、それが今は惜しかった。
 明日も明後日も明々後日も、……そうして夕暮れは訪れるだろう。
 だがこの美しさは、それに気づけたこの瞬間は、今日この日、今だけのものだ。
 俺は胸の内で、あらゆるものへ感謝の言葉を捧げる。
 世界は素晴らしい。
 心を痛める物事は、悲しいかな消え去ることはない。
 それでもそれ以上に人々は善意に満ち溢れている。
 この世界に生きていられることを、俺は誇りに思う。
 そしてまた感謝する。
 生きることは素晴らしいものだ。
 ささやかな幸せを胸に抱き、善良な生活を送ること。健康な肉体を持ち、健全な精神でいられること。
 それは何よりもの幸いだろう。
「ふっ……」
 書類をまとめ、帰り支度を終える。職員室の扉に鍵をかけると、俺はいまだ柔らかな光に包まれている廊下を振り返り見た。
 ……きらめく光。まるで宝石箱の中にいるかのようだ。
 ある意味それは正しい。俺の生徒たちは全てが皆、俺の大事な宝物だ。彼女らの年齢を考えれば、宝石の原石といったものだろうか。
 ……それでも彼女たちはきらめく、輝く。少女という時期がもたらす一瞬のまぶしさ。
 子供のような、大人のような。そんな彼女たちが軽やかに笑い、跳ねる姿は何とも言えず微笑ましい。
 言うなれば日毎に色を深めてゆく、華のつぼみか。
 ……幸せを願わずにはいられない。
「……あ、先生!」
 不意に響いた元気の良い声に、俺はハッと我に返る。
 見れば、ショートカットの栗毛の生徒がそこにいた。
「ボク、友達と話し込んでたら遅くなっちゃったんだけど……先生って、いつもこの時間に帰るの?」
 規定の下校時間を過ぎていることに、ほんの少しだけ反省しているような、申し訳ないような顔。いつもなら一言ここで諌めの言葉でもかけるのだけれど……今はその気にはどうにもなれなかった。
「いや、今日は特別。……先生ももう帰るんだから、もう帰るんだよ、いいね?」
 優しく微笑めば、はぁい、と弾むような返事が返された。
 廊下は走らないという言葉もそっちのけで、彼女は俺の隣を駆け抜けてゆく。
 そんな急かなくてもいいものを。
 動いた空気に、ほんの少し寂しさを感じる……あっという間に、彼女らは大人になるだろう。
 俺の手を、当然ながら去ってゆく、俺の宝物たち。
「……先生!」
「大声を出してはダメだと言ってるのになあ……」
 廊下の端で、小さな粒ほどになった姿に呼びかけられた。
 ブンブンと勢い良く振られた手に、苦笑ともつかない笑いが漏れてしまう。
「先生、バイバイ!またね!!」
「ああ、気をつけて帰るんだぞ……」
「うん!先生もね……いっつも何だかぼ〜っとしてるから、生徒としては心配してるんだぞ〜!」
「……こらぁ、彩乃、おまえなぁ……」
「あはははっ!じゃあね、先生! ……また明日ね、紳一先生!」




俺はよく夢を見る……。

それは自分の心の奥底に潜むおぞましい欲望の具現。




「ふぅ……」
 狭いアパートの中で、侘しいとも言えなくもない夕食を終える。外食は家計の敵だ。
 必要に迫られ、俺はそこそこ調理ができる。それだけではない、洗濯、掃除、およそ全てのことは一通りに。
 ……俺は虚しく騒ぐテレビの電源を落とした。今日一日に起きた出来事の、めぼしいニュースはチェックが済んだ。幸いにも、さして大事は起きていない。……幸いにも。
 空になった皿を持ち、流し台へと歩き進む。僅かな距離だが、眠気が沸き起こり……何だか足元が覚束ない。
 空腹が満たされたこともあるのだろうが、……まあ、これはいつものことだ。
 シンクの桶に水を溜め、その中に皿や箸を入れる。汚れが浮き上がるのを待つ間、調味料や残り物を簡単に片付けた。
 ……俺には家族はいない。
 家族というよりは、身寄りというそのもの自体がいない。……いや、知らないと言った方が正しいだろう。一通り何でも出来るようになったのはそのせいもある。
 誰よりもささやかな幸せを望み、毎日を尊ぶのもそのためかもしれない。
 血の繋がった家族親族というものは、今の俺には望めないものだ。しかしそれでもそれ以上に俺を支えてきてくれた人々がいる。彼らの力で、俺はここまでやってこれた。健康に過ごせたのも、健全なままいられたのも。
 そして励んだ勉学を、教師という聖職に昇華できたのも、皆周囲の尽力があってこそだ。
 俺には倹しいほどの蓄えしかないが、そうした思いやりというものならば、他の誰よりもたくさん持っているだろう。
「……一寝入りするか」
 ……皿や鍋を片付け終える。
 どうにも眠気が激しく、俺はごろんと、簡素なベッドに横たわった。
 途端に柔らかく優しい眠りの腕が俺を抱く。
 ……包み込むようにしてそれは俺を襲い、俺を俺の中から浮かび上がらせる。
 空へ、空へと。




俺はよく夢を見る……。

それは自分の心の奥底に潜むおぞましい欲望の具現。

たとえば彼女たちの「憧れ」「とまどい」「恥じらう笑顔」
「そよかぜにたなびく黒髪」「頬をつたう涙のひと雫」


そんな輝かしい未来を予感させるものの全てを、毟り取る悪鬼のような汚れた魂が、
もしも自分のものだとしたら……?


いつもはガラス細工のように扱っている大事な宝物が、踏みにじられ、
破壊し尽くされる事のなんという恐怖!


時には漆黒の闇に安堵の溜息をつこうとしても、
胸を締め付ける混濁した罪の意識は俺を責めさいなみ続ける。




 俺はよく夢を見る……。
 それはいつ頃からのものだったのか、もう詳しくは思い出せない。……気づけば、俺はひとつの夢をずっと追っていた。
 俺はそこでも天涯孤独の身の上だった。しかし、だからといって家族のような人々がいなかったわけでもない。そうした数個の類似点を除けば、夢と現の俺たちは、全てが違った、異なった。
 その俺は錆びた三輪車で遊ぶことはなかった。いつでもいつも真新しく物珍しく、そうしておそらくは手を触れることのないだろうたくさんの玩具に囲まれていた。
 その俺は与えられものを好き嫌いを問わず、黙々と食べることはなかった。出されるものは全て俺好みの味で、食べ残すことが当然の量だった。
 その俺は何をせずにも褒められていた。何時であれ、誰かが俺のために動いていた。俺はそれに対し礼を述べることもない、それが当然だからだ。
 欲しいと言えば、それが物であれ人であれ何であれ、すぐさま自分のものになった。恭しく、捧げられる哀れな贄たち。
 不要と言えば、まるで何事もなかったようにそれらは消えた。跡形もなく、何の痕跡もなく、生きた証すら消されて。
 ……それでも俺には手に入らないものがあった。
 たったひとつだけだ。
 ここまで何もかもを揃えておいて、それはないだろうと俺は思う。
 ……健康な肉体。
 重い身体を俺は引きずる。たまに起きる発作に耐える、耐え忍ぶ。
 夢の中はいつも息苦しく、心休まった日などは今の今までひとつもない。
 健康な肉体、たったひとつ。それだけが手に入らない。
 何てことだと、幾度となく俺は夢の中で悔しさに唇を食んだ。
 それがあれば完璧だった。
 ……ただそれも、我慢できないほどのことではない。
 夢の中の、わずかいっときのわずらわしさ、それだけのこと。
 眠ること。夢を見ること。それはどんな玩具よりも楽しい遊びだった。何よりも誰よりも優しい世界。俺は夢に甘え、懐き、遊び、笑う。誰よりも何よりも残酷な感情で、俺は夢を楽しみ、そうしてまどろむ。
 ……生かされているのを感謝しろと、そんな妄言をほざく愚かな役所の人間もここにはいない。
 あなたは手のかからない良い子だったと、名簿と写真を見ながらありきたりに話す母親気取りの馬鹿もいない。
 くだらない仕事に汗を流し、微々たる報酬に喜ぶ生活を、……馬鹿のように喜ぶ必要もない。
 乳臭く、それでも女に変わりない者どもを、まるで腹を痛めて生んだ子のように見守る、枯れた生き方も必要ない。
 ……そう、女ども。
 子犬のように無邪気に尾を振る女どもだ。無意識の媚と青臭い色香を撒き散らす女どもだ。
 ……俺は薄く笑った。
 愛があるからセックスをするのだと、そうした社会の良識にあわせた俺には経験がない。
 愛なぞひとつもないからだ。
 夢の中、もうひとりの俺はそれを嘲笑う、せせら笑う。
 セックスはセックスだ。ただそれだけのもの、欲情を収める行為にしか過ぎない。
 奴らの言い分が正しければ、愛はセックスではないだろう。確かに愛は尊い、美しい、素晴らしい。そういうことにしておこう。
 そうして世間に目を向けろ。ほら、愛がなくとも、人はセックスができる。
 人は言う、よく語る。この世に意味のないものはない。
 間違った存在などありはしない。そら、そうして美しく。
 ならばあれらも正しい姿だ、そうだろう?
 現の俺はそれに頷く、そして笑う。高く、大きく、邪に。




俺はよく夢を見る……。

俺の眠りはいつも浅く、そして暗い……。




「……ま、し……さま」
 ふ……と視界が明るくなった。
 それと同時に、得体の知れぬ重みが身体を支配していることを悟る。誰かが俺の上に圧し掛かっているわけでもない。いや、そうだとすれば、それは病魔という奴だろう。
「むしろ……死神か」
「紳一さま?」
 緩く頭を振りながら、俺は上体を起こした。掛けられていた毛布が、静かに床へと滑り落ちる。
「直人か」
「はい」
 キィ、と、ロッキングチェアの軋む音がした。読書をしていたつもりが、いつの間にやら寝入ってしまっていたらしい。
 窓を見遣れば、もうすでに陽は落ちていた。昼間の薄いカーテン越しでも、すでに一番星がきらめいているのが分かる。
 落日の夕焼けを望めなかったことに、わずかに残念だという気持ちが起こる。……オレンジか、紅色か。その色だけでも見ておきたかった。
「……よくお休みになられていたのですが。そろそろ冷え込むかと思いまして」
 直人は床に落ちた毛布を手早く折り畳んだ。それを腕に抱え持ちながら、厚いカーテンを綺麗に閉じる。
 部屋は僅かに暖かい。
 おそらく直人が気を利かして、暖房をセットしておいたのだろう。書斎独特の匂いが鼻腔に充満している。紙とインクの陰気な匂いだ。
「まだそう遅い時間ではありませんが……。こちらにお食事をお運びいたしましょうか?」
 俺の表情をどういう意味合いに捉えたのか、直人が軽く首を傾げた。
 金色の髪、青い瞳に白い肌。おそらくは異国の血が流れているだろう外見だが、しかし詳しい素性を俺は知らない。
 幼い頃から傍にいた。俺に与えられた下僕、忠臣、玩具。それだけのことだ。気に留める必要なぞ俺にはない。
「いや……食事はまだいい」
「……かしこまりました」
 ほんの少し、返答に間が空いた。それもそうだろう、服用している俺の常備薬は、食事や就寝の時間にも深く関わる。
 俺は病人だ。
 しかも節制と規則正しい生活が必要な、……それでいて最早先は望めぬ重病の。考えてみれば、俺の人生は全てがホスピスで過ごしているようなものだった。
 最期の最期までそれは変わらないだろう。
「…………」
 直人を見る。
 俺は醜いもの、汚らわしいものは大嫌いだ。長い睫毛、薄い唇。女顔ではあるが、女々しくはない。
 切れ長の瞳に、まるで描いたような端麗な眉。細身でしなやかな身体はしかし、やはり男のものだ。
 だが女でも体格の良い異国の街並みを歩かせれば、おそらく直人は女にしか見えないだろう。並べば俺の方が体格は良く見えるかもしれない。しかしその身には、強靭でしなやかな筋肉が無駄なくぴっちりとついていることを、俺はよく知っている。
 ……遺伝子の妙という代物か。
 時折俺は、これを俺に差し出した者の審美眼を褒めてやりたくなる。中々に直人は美しい。
「直人」
 ソファの方を軽く顎でしゃくる。直人は一礼すると、その背もたれ部分を折り倒した。そのまま棚から寝具を取り出し、簡易のベッドを作ってゆく。
 いつ何時でも俺が身体を休められるようにという、一見しただけでは分からない特注品だ。それと分かるちゃちな造りは、何であろうとも許しがたい。
「紳一さま」
 直人が俺の名を呼んだ。準備がどうやら出来たようだ。
 椅子に座ったままの転寝は、やはりどうしても疲れが出る。直人は俺がいっとき、そこで身体を休めるのだと解釈したようだ。
 まあそう思うのも当然だろう、俺を気遣わなくてはならない従者なのだから。……もちろんそれだけではないことも、この俺はよく知っている。
「直人」
「はい」
 俺は直人の名前を呼びながら、シャツの襟を緩める。いくら俺が病人とて、それに甘えただらしのない格好なぞ、当の俺が認めない。いつ客人が訪れてもおかしくはない姿形で、俺は一日を過ごしている。
「……いかがなされましたか?」
 目を細めた俺に、直人は何かを感じたらしい。僅かに逃げる声色に、俺はたまらなく愉快な気持ちに襲われた。
「服を脱げ」
「は……?」
「服を脱いで、俺の上に跨れ」
「…………」
「いつものようにな」




俺はよく夢を見る……。

それは自分の心の奥底に潜むおぞましい欲望の具現。




 跳ねるように駆け抜ける階段の踊り場で、翻るスカートの間からちらりと見える若い太腿と……幼い下着。
 無邪気に見せつける瑞々しい脚の間に何があるのか、きっと彼女たちは理解してはいまい。
 じゃれるように腕へ押し付けられた青い乳房の感触は、服越しでも焼け付くような存在感を訴えていた。
 ……その呼気に上下するただの胸部が、俺の眼には雌の乳房としか映っていない事を……彼女たちの誰が気づいているだろう。
 何度も何度も俺は想う。
 彼女らの服をはぎ、逃げようともがくその腕を押さえつけ、驚きと恐怖に叫ぶその口を唇を無遠慮に塞ぎ舐ってやりたい。
 芽吹き始めた乳首を摘み上げ、硬い乳房を握り潰す程にこね回す、犯しつくす。柔らかな、そして滑らかな秘所を暴き、犬のように鼻を突きいれ舐め回し、肉芽を弾き砕かんばかりに擦り上げる。
 ……そしてねじ込むのだ。ぶちこむのだ。
 痛みと衝撃に泣き叫ぶ彼女らを笑いながら、俺はひたすらに腰を突き動かすのだ。白い頂点を目指すまで、ひたすらに。
 ……真夜中の一人のベッド、夢想と現実の曖昧なそこで、俺はひたすら自分を解放する。そう、何度も何度も俺は想う、想い続ける。
 何が宝物だ、何が磨かずとも光り輝く原石だ。
 俺が教師だからって、いつもいつも微笑みやがって、喜びやがって信頼しやがって。
 俺を愛してもない癖に、俺の心の柔らかな部分に入り込み……そうして俺を男から、ただの教師に変えて行く。
 奴らは俺を愛してはない。
 奴らは教師が好きなだけだ……そうそれは俺じゃない、俺ではない、俺であるはずもない。
 俺を愛してもない相手を、どうして俺が慈しまなければならないのか。
 たかが生徒の分際で、たかが女の分際で、たかが夢芥の分際で。




俺はよく夢を見る……。

それは自分の心の奥底に潜むおぞましい欲望の具現。

たとえば彼女たちの「憧れ」「とまどい」「恥じらう笑顔」
「そよかぜにたなびく黒髪」「頬をつたう涙のひと雫」


そんな輝かしい未来を予感させるものの全てを、毟り取る悪鬼のような汚れた魂が、
もしも自分のものだとしたら……?


いつもはガラス細工のように扱っている大事な宝物が、踏みにじられ、
破壊し尽くされる事のなんという恐怖!


時には漆黒の闇に安堵の溜息をつこうとしても、
胸を締め付ける混濁した罪の意識は俺を責めさいなみ続ける。


だから、俺の眠りはいつも浅く、そして暗い……。

俺は想う……。




「先生……」
「……あ、ああ、何だい」
 か細い声が俺を呼んだ。思考の海原に、さ迷わせていた己の意識を取り戻す。ホームルームはすでに終り、俺は廊下の窓から外の様子を伺っていた。ぼんやりと。
 ……今日はあいにくの雨模様。
 叙情的と人はのたまうかもしれないが、俺には雨は鬱陶しいものとしか思えない。晴れの日はそれだけで爽快な気持ちになるのだが。そう、晴れていれば、それだけで。
 晴れていれば、……俺はそれだけで身も心も軽くなる。青い空と高い雲を追いかけて、どこまでもどこまでも走ってゆけそうな気分になる。風を切る快感。土を踏みしめ、蹴る、その心地よさ。
 俺の手は大きく開いて、清んだ空気を全て己のものにしようとするだろう。心地よい疲労が俺を襲う。やがて膝が震え立ち止まっても、俺は楽しげに笑っていることだろう。
 大きく、息を吸って、吐いて。
 ……だからこそ俺は雨の日は嫌いだ。
 軽い身体も重くなり、どこにも出られはしまいと、そうしてまた俺は閉じ込められる。後は陰鬱な時間を、ただただ呆けて過ごすだけだ。
 雨は嫌いだ。
 陰気なすすり泣きのように、恨みつらみの名残のように、天から垂れ落ちてくる雫の数々が。
「日誌を……持って、きたんです……けれど」
 差し出された白く細い手には、素っ気ない冊子がひとつ。それでも彼女が持てば、何だか名作が記された書籍に思えてしまう。
「ありがとう、帆之香くん」
 引っ込み思案な彼女は、その恵まれた容姿すらも世間の眼から遠ざけたいようだ。せっかくの美貌は、味気ない黒縁の眼鏡に奪われてしまっている。瑞々しい長髪も、目立たぬようにと括られ、おろされる気配は全くない。
「……あの……」
「ん?……何かな」
 これぐらいの言い淀みは、日常茶飯事だ。初めの頃はもっとか細く弱々しかった。教師といえど俺は異性だ。大人しい彼女が中々打ち解けられなかったのも、無理はない。
「先生、わたし……わたしたちは、先生にとてもお世話に、なっています……」
「……そう言ってもらえて、光栄に思うよ」
 伏せられていた面が上がる。憂いに沈んだ大きな瞳が、何かを振り切るかのように大きく瞬いた。
「だから、わたし、わたしたちは子供ですけれど……でも、先生の何かお役に立てたら……って、……そう、思います……」
「……ありがとう。……でも、どうして今、そんなことを……?」
 意外な発言に、さすがに驚く。こんな風に語れる子ではなかったはずだ。……やはり、少しずつ成長してゆくものだと、しんみり感じてしまう。
「……先生が、その……、何だか遠い目を……していたから……」
「………………」
 僅かに彼女の薄い肩が震える。黙ってしまった俺をどう捉えたのか、発言を悔やむ吐息が耳に届いた。
「あ……、ご、……ごめんなさい、わたし……た、立ち入ったことを、先生に……」
 性格と年齢には見合わないほどの豊かな胸も、慟哭にも似た感情からか、微かに揺れる。
「……いや、いや違うんだよ。君の気遣いに、ちょっと感動したんだ。本当に、帆之香くんは優しいな……」
「そんな……その、わたし……わたし……」
 頬が薔薇色に染まる。
 思春期のきらめきを宿した瞳が、レンズ越しに潤み、そして恥らっているのがよく分かった。
 褒められることを考えての発言ではない。……彼女たち全てが皆そうだ。純粋に、ひたすら真っ直ぐ育っている。
「ありがとう」
 ……育った環境が環境だ。人の痛みには人一倍敏感なのだろうと俺は思う。
 だからこそ、彼女の性格があるわけだ。
 人を傷みから守りたい、救いたい。人を傷つけたくはない。……それだからこそ積極的にはなれない。
 自分を卑下してしまうその行動も、何より他者を一番にという、献身的な思想があってこそのものだ。
 彼女はいい医者になるだろう。
 なるだろう、何事もなければ。
 そう……何事も――なければ。
「……ちょっと今日はね、夢見が悪くって。もう一度見ることができたらって、思っていただけなんだ」
「夢……です、か?」
「何だか損をした気分でね。……せっかくの、夢、なのに」
「……ふふっ」
 軽く肩を竦めて見せると、小さな彼女の唇から、可愛らしい笑いの声が漏れ出でた。
「わたしも、そう、思います。素敵な夢を見た後は……そんな風に」
 はら、と優しい音を立てて前髪が揺れる。
 ……素敵な夢。その言葉の先には、どことなく初恋の匂いが感じられた。
「……ずっと、ずっと夢が続けばいいのに……って、いつも朝が恨めしくって……」
「そうだね」
「でも……」
「でも……? なんだい?」
 夢見がちな彼女の瞳が、瞬間、はっきりときらめいた。
「わたし……そんなとき、こう思うようにしているんです。いつまでも浸っていたいほどに、そんな素敵な夢だとしたら……」
「だとしたら……?」
「夢が、本当のことになるように……そうするように、わたしを招いているんじゃないかって……」
「…………」
「だから……わたしは、頑張ろうと、……生きてゆこうと、思うんです……」

 ……ああ、ああ……俺はよく夢を見る。
 それは自分の心の奥底に潜むおぞましい欲望の具現。

「……? 先生?」
「……そうだね……」
 俺は夢を欲して身を委ね、そうして夢は俺を求めて腕を伸ばす。
 いつもいつも願っていた、思っていた、分かっていた。俺たちはひとつになりたくて仕方なかった。
 それが間違いでないというのなら、その願いが誤りではないというのなら……
 俺の気持ちは正しいというのなら。
「そうだね、そう……なのかもしれないね」
 俺の隣で、可愛い教え子がにこりと微笑んだ。




俺はよく夢を見る……。

それは自分の心の奥底に潜むおぞましい欲望の具現。

たとえば彼女たちの「憧れ」「とまどい」「恥じらう笑顔」
「そよかぜにたなびく黒髪」「頬をつたう涙のひと雫」


そんな輝かしい未来を予感させるものの全てを、毟り取る悪鬼のような汚れた魂が、
もしも自分のものだとしたら……?


いつもはガラス細工のように扱っている大事な宝物が、踏みにじられ、
破壊し尽くされる事のなんという恐怖!


時には漆黒の闇に安堵の溜息をつこうとしても、
胸を締め付ける混濁した罪の意識は俺を責めさいなみ続ける。


だから、俺の眠りはいつも浅く、そして暗い……。

俺は想う……。

この悪夢はさめるのか、それともさめないのか。

さめるなら、言葉には愛を、地には平和を、そしてどうか俺には絶望を。

狂った「悪夢」は所詮は朽ち果てるだろうから……。





(END)
引用元:『悪夢〜青い果実の散花』 by Studio Mebius