胡蝶の翅




 オレは雨が大好きだ。
 仰いだ天がどんより濁る、鉛色の日がオレは大好きだ。灰色の、色を失う世界は素敵で綺麗で素晴らしい。
 どんなに大地が喚こうが、天の雫は世界を蹂躙する手を休めはしない。汚らしいきらびやかな外界が、怒涛と共に分相応の姿に打ちのめされる姿がオレは大好きだ。
 オレは雨が好きだ。弱者も強者も揃い合わせて何もかも、身の底まで冷やし打ちのめす叩きのめす雨の粒が大好きだ。
 そう……オレは雨の日が大好きだ。
 実を言ってしまえば雨音だってかなり好きだ。雨垂れが人の声から何から全て、やかましい雑味ばかりの世界の音を綺麗サッパリ消し去ってくれる。オレの耳に届くのは、静かな部屋によく響く低い声……そのたったひとつの音だけでいい。
 オレは雨が好きだ、どこにも出られない雨の日がたまらなく大好きだ。窓を閉じ扉を閉め、一切の世界から閉じ篭れる雨の日は最高だ。清潔で適温で静謐なただ一室、そこだけあればそれでいい。
 だからオレは雨が好きだ。
 硝子越し、そのくだらん世界に惑わされる心配がないからだ。
 晴れて眩しい色鮮やかな外界に、何を想うのか遠い眼差しで意識を飛ばすあの男が。
 雨がオレは大好きだ。オレの全てで唯一つのその者が、オレを見る時間が増えるからだ。
 だから晴れの日がオレは嫌いだ、大嫌いだ。
 紳一が、オレの見知らぬ場所へ行ってしまう晴れの日が、……オレは大嫌いだ。

◆◆◆◆◆

「直人」
 心地良い低音がオレの耳に届く。ああ何ていい声だろうと、オレはうっとりと聞き惚れる。
 オレは実のところ、直人なんだのという自分の名前をさして好きではない。大門だの厳三郎だのよりは面白味もなければおかしくもない、そんな感じだ。
 まあオレの与り知らぬところ、意見できるわけもない時分に名づけられた代物に、今更ああだこうだとケチをつけても仕方ないし、みっともない。
「……直人?」
 ああ、また呼ばれた。しかも今度はかなり近い。
 そしてしっかりオレを気にかけている、そのイントネーションが何とも言えない、たまらない。
 ……そう、この時ばかりは話が違う。この声で呼ばれるこの名前の何と素晴らしいことか、美しいことか。
 だからこそ名付けた奴を恨みがちになるのも……まあ何だ、致し方ないことだろう。こんなそこかしこに溢れかえる在り来たりな名前。オレ以外の人物をこの口でこの声で呼ばせたくはない。想像するだけで腹が立つ。
「……効き過ぎたようだな……」
 落胆なのか歓喜なのか。奇妙な声色と共に紡ぎ出された溜息が、オレの頬を嬲ってゆく。何かを確かめるように撫で擦る、ややかさついた生暖かい感触がそれに続いた。
 おそらく手指だろう。熱に浮かされた肌の感触、これはよく知っている。天にも昇りそうな悦びが、ぞわぞわとした快感と共にオレの背筋を駆け抜けてゆく。
 ……ああ勿体無い、悔しい、畜生。おそらくは至近距離、だけれど今のオレには何も見ることも出来なければ、喋ることも動くことすらもままならない。
 今のオレのこのザマは、何だかたちくらみに少し似ている。見開いているはずの視界は闇、頭はどこかしら冴えているものの身体は言うことを聞かない。ただ生理的な反応は生きているようで、呼吸はできるし瞬きもしている、溜まる唾は気管に入ることなく飲み込める。……有難いと感じるべきなのか、否か。
 これはオレの体質のせいか、それとも木戸の馬鹿が本当に馬鹿なのか。どうせ後者だろう、あの筋肉成金趣味の中年親父のことだ。
 仕事と託けて国外に出かけては女漁りに精を出し、あまつさえワケの分からん土産物を持ち帰る。それを誇らしげに主に捧げる姿は、はっきり言って阿呆同然だ。
 オレだったらこんないかがわしいもいかがわしいもの、鼻先で一蹴してそら、それで終わりにするだろう。正直それを受け取る懐の広さには脱帽する。
 まあ何というか縁のない人間でなし、むしろ最も近しい下僕なワケだ。捧げられては受け取る他しかないだろうし、ましてやこんな物、使わなければタダのゴミだ。
 第一オレが飲んだ酒も、このどこが何が催淫剤なのだか。血は頭から下がっていても、シモの方には一滴たりとて流れ込んではいない。
 この状況でそんなはずはあり得ないだろうに、あの親父。全く、こんな怪しいブツを献上する馬鹿の気が知れない。ああ、腹が立つ。
「まるで……」
 けれどもまあ、本当に腹が立つのは別にある。
 ……それを受け取ることだ。オレが嫌だと思っているのに、意にも介さず気にも留めずに受け取ることだ。
 それは……それは至極当然で、仕方のないことで、不遜な考え方で…………オレの勝手だとよく分かっていることなのだけれども。
「まるで人形のようだな、直人」
 嬉しそうな声だった。それに当然オレも嬉しくなる。……けれどもやっぱり言葉が出ない、音すら出ない…………返事が出来ないのはオレには辛くて悲しい。
 そうですね、お楽しみいただけますか?
 申し訳ありません、ご返事できないことをお許しください。
 心の中でオレは何遍も謝り倒す。おそらくオレの心中なんぞ手に取るように分かっているのだろうが。
「…………」
 ……と、僅かな軋みの音と共に、オレの世界がぐらりと揺れた。墨黒の海に浮かぶ闇舟、それが小波に押された感じか。オレは小さな恐怖をやり過ごす。
 大した揺れではないのだろう、けれど何も見えない動かせないその心許無さが冷静な判断を鈍らせる。もちろん薬酒のせいもあるやもしれない。
 オレは何度も自分に言い聞かす。気持ちをしっかりと落ち着かせる。
 オレが横たわるのは清潔なリネンのシーツの上、適度なスプリングの利いたベッドマットレスの上。ここはオレの主のベッドの上、その主の身体の下。
 空気が動く。感覚だけは生きている……むしろ研ぎ澄まされているのかもしれない。
 つと、生温かな何かがオレの上に覆い被さったのが分かった。全身だ。
 そう……先ほどよりはもっと近く、そして熱い。
 それが何なのか、何を意味するのかオレは嫌というほど知っている。……ああ、別に嫌じゃない…………むしろオレは嬉しい。嬉しくてたまらない。
「!」
 ……ひやっとした空気に一瞬身が竦んだ。肩が激しく揺れたのが自分でも分かる……オレの意思とは無関係な反応だ。
 冷気はどんどん増してゆく。首上、鎖骨窪みの辺りから胸元、そして腹へと、衣擦れの音と妙に楽しげな吐息と共に。
 何の、何のことはない……ただシャツのボタンを外されているだけだ。いや、いやオレにとっては何のことではない、だけれど常の、もう何遍も何十遍もそれこそ星の数ほど数え切れないほど……。
「直人」
 ……などとうっとり浸っていると、焦れたような乱暴な手つきでアンダーシャツをたくしあげられた。
 無理にめくり上げられた布地が首周りに絡んで苦しい。腹から胸から、一気に外界に晒された素肌がザッと粟立つのを他人事のように感じる。
 ……冷気に、オレのちっぽけな乳首がゾワゾワとくすぐったくなるのも分かった。豆粒ほどなそれが、おそらくは精一杯張り詰めていることだろう。
「どうした、直人?」
 僅かに嘲りと哀れみの込められた小さな笑い声が後に続く。その意地の悪そうな声色に、途端にじんと爪先から痺れが上がった。胸元のたかが生理的な反応、だけれども視姦されている事実が相手がオレを馬鹿のように熱くする、おかしくさせる。
 ……ああ、もっと。もっとです、もっと。もっとお願いします。
「…………ぅ」
 期待と興奮と動揺に、強張る舌が音を何とか出す。意味のない、小さな呻きのような囁きのような、息のような音。
 そんなオレの浅ましい姿をどう思ったのか、微かに笑う息音が耳に届く。それすらも今のオレにはじゅうぶん過ぎるほどの愛撫だ。
 ああ……そうだ、薬は効いているのかも知れない。確かに今のオレは馬鹿丸出しだ。何もかもの抑えが利かない、止められない。
「直人」
 ……いや。いや違う。それは薬酒でラリっている今だけの話じゃない。毎日いつも常のこと、そうでない時なぞ一瞬たりとてオレにはない。ギリギリのところ、落ち着き澄ました皮一枚の下で、オレはいつも欲望を垂れ流している。
 オレはいつもこの男に狂っている。
 ……ドラッグだの何だのもオレには必要ない。セックスだとて同じことだ。それが生き甲斐の爺さんや、なくてはならない娯楽だと豪語する中年親父ともオレは違う。
 女をいたぶり嬲る面白さは確かに他にない快感だ。肉の悦楽とあいまって、あれほどのめり込める楽しさは流石にオレも他を知らない。下等なオレが肉の器に留め置いている諸々の、全てを曝け出し吐き出すあの瞬間。あれの痛快さを思い起こすだけでシモの方に血が集まる。
 だけれども、なくても別にオレは困らない。あればあるで楽しかろうが、なければないで特に困るところはない。困らないどころか生きてゆける。
 今のこれだとてそうだ。下劣で下世話なオレはこれが好きでたまらない。暴く愉悦、あの楽しさを主に捧げられることは何よりの幸せではあるし、あからさまな本心を言えば…………この男がオレにいっときでも夢中になるそれが好きだからだ。
 他の侍従には到底真似出来ない、オレだけの特権、オレだけの役目。……オレを入用とするならば、オレは何だってするし、何だってうまくやってのける。オレだけなら尚のことだ。
 ……だけれども、『これ』がなくてもオレは生きてゆける。
 かなり悲しいだろうが寂しいだろうが、そんな物は二の次だ。オレの全てがあればオレはいつだって幸せだからだ。
 生きてゆけないとしたら……それは決まってる、そんなのは決まっている。生きてゆけない、生きてゆく意味すら価値すら見出せないとしたら、それは…………。
「口を開け、直人」
 ……いい声だ。ああ、いい声だ。もし表情が動かせたなら、オレはにんまりと笑んでいたことだろう。ああ……いい声だ。特に直人の部分がいい。
 頭の中の動きとは全く反比例に、相変わらず身体の動きはどうしようもない。どんな力や気合を込めようが足掻こうが、口の端はそれ以上大きく開く気配もない。
 しかし本人もおそらく無理だろうと分かりながら命じたのだろう。微かに開いた唇の周りを、あのかさついた指がなぞってゆく。ピクリとも動かないオレへの焦れや怒りは感じられない。むしろ何だかひどく優しく感じられて……またオレは嬉しくなる、舞い上がる。
 一挙一動がオレの全てだ。この男がオレの全てだ。ちっぽけで下等なオレを支配する、たった一人がオレの全てだ。

◆◆◆◆◆

「……直人」
 ……たった一人。
 ……たった一人。……オレの中で、熾火が爆ぜた音が聞こえた。
「ぁ…………」
 ……たった一人。たった一人、たった一人。それは取るに足らない愚問だ。たった一人しかいないのだから、別に気に病むこともない。……そのはずだ。
 圧し掛かられた身体の重み、肌の熱さにオレは息を吐く。……たった一人。薬の効果か酒のせいか、オレの思考は余計なことまで突付き上げる。たった一人。
 オレを支配するこの肌はひどく熱く、またひどく色も悪い。そして時折異様なほどに冷たくなる。
 いつも変わらないのはその重みだ……だが今のような時間、毎回毎度……実際のそれよりも何故か遥かに重く大きく感じてしまう。オレを覆い隠すほど、覆い潰すほどにも。
 それは圧し掛かられているからとか畏縮しているからだとか…………そういう理由からではない。それだけは断言できる。まるで二人分、その存在感と…………視線。
 オレはいぶかしむ、そして思い直す。これこそ病の証だと、仕方ないのだと、そういうものだと……オレは己の愚かさを静かに笑ってやり過ごす。
 けれども。
「……仕方ないな」
 軽い舌打ち。……それへの申し訳なさと悲しさにオレの胸が詰まるより早く、かさつく重く熱を持つあの指が……オレの口に入り込んだ。
「噛むなよ」
 切り揃えられた爪が、ぬめる唇の裏側を滑るように進んでゆく。と、こつんという軽い音と共に、同じく軽い衝撃がオレの頭の中に響き渡った。おそらく爪が歯にかち当たった音だろう。入り込んだ二本の指がオレの口をこじ開けてゆく。
 ……幼い頃からオレはこの身体の主を見つめてきた。だからこそそれなりに分かっているつもりだし、知っているつもりだ。他の誰よりも、他の何よりも。
 しかし、だがしかし…………オレにも分からない、知らないことがひとつある。
 病名。主を蝕む不治の病。
 その病気が何なのか、オレは正直本当のところを知らされてはいない。オレが教えられたのは胸の疾患だの血液の病気だの、掃いて捨てるほどの色々それらしい名前だけだ。……だが本当は、それらのどれにも当てはまらないことをオレは知っている。
 薬なんぞは気休めだ。手術を施さないのは、しても無駄だと治りはしないと……元より疾患なぞないのだと分かっているからだ。医者の説明の曖昧なこと、お粗末なことといったら笑うしかない。
 それを言えば耄碌爺は何を馬鹿な何を素人がとオレを嘲るが、……ならば何故今まで生きてこられたのか。あれだけの病の数を、これといった治療もせずに今の今まで…………決して清らかで静かなだけの生活と言えない日々の中で。
 そう……それに肉体だけを見てみれば、並の男以上にしっかりしているだろう。まるで常日頃から陽光の元で、活発に健康的な生活を送っている者のように。
 重ね合わせた肌の張りに、漲る力強さに、気づけるのはオレだけだ。
「……ぅ、っっ……」
 下の歯列を押し下げている指に、オレの舌先が僅かに触れた。……このまま舐り倒したい、ずっとずっとずっと、ずうっと。
 そんな風に下劣を夢見る赤い肉を、何をするのだかその指が摘み上げた。ままやや乱暴とも思える力強さで、それでも幸せに打ち震えているオレの舌を引っ張り出してゆく。
「…………」
 ……たった一人と、オレは繰り返す。
 オレを征服する日、蹂躙するその時間。雨の日、一日の終わり…………窓を締め切り扉を合わせ何処の世界も臨めない、そんな時間。まるで二人分、邪気と狂気を倍にしてこの男はオレに重く苦しく圧し掛かる。忠臣を求めながら玩具のように、下僕の扱いながらまるで恋人同士のように……二人分を求めてオレを目茶苦茶にする。それはそれは楽しげに。
 二人分。……二人分なだけだ、オレがそう勝手に感じているだけだ。そう……二人分だ。二人分、倍になったぐらいのことだ。異なるものが二つあるわけじゃない、同じものが倍になっただけ、そんな気がするだけだろう。二つの身体があるわけでもなし。
 第一ひとつの器に収まるのなら、それは二人分とは言い難い。ひとつの器、一人分の身体。二人分が、本当のひとつ。本当の一人。
 オレの主はたった一人、一人だけだ。そのはずだ。
「……直人?」
 鼻頭に熱い吐息がかかると同時に、舌が指から解放された。
 薬のせいではないオレのうろんさに、やはり敏く気づいたらしい。呼びかける名前に、微かに非難が載せられている。
 何て人だと、ほんの少し無礼を思う。オレの顔身体、外身だけを好んでいるその癖に、中身が少し心を飛ばせば不満を表す。中身がオレでなくてもいい癖に、……そうしてオレを舞い上がらせる。この男が大事に思うのは身体だけだ。決してこの中身ではない、中身は別になくてもいい。器だけだ。
「ぁ、ぅ……っ……!!」
 ……舌を食まれた。
 オレの耳にそれなりの水音が響く。ぺちゃぺちゃと、それはそれはいやらしい卑猥な、そして意地の悪い音だ。動きを返せないオレに、何も見えていないオレに、わざと聞かせて嬲り焦らすその音だ。
 呼びかけても芳しくないオレを、それでも薬酒のせいだと許してくれたらしい。嬲り方ひとつで心が分かる。……オレは幸せな人間だ。
 割れこそないものの、やはり乾いた柔らかな弾力を持つ肉が二つ、オレの舌の表裏とを甘く噛み上げる。それに酔い痴れる既のところで、ぬめりと意外なほどに力強い温かな肉がオレの舌に絡みついた。
 しごき上げるといえば下世話な表現だが、それぐらいしか今のオレには思い浮かばない。舌肉を折り畳まれ巻かれ、先端から口内深くまでをざらついた表面でぞろりと舐め上げられるといえば、まだ分かり易いか。痛みの方が勝る快感。病の苦しみが常の男からすれば、こんな僅かの痛みなど何のこともないのだろう。むしろ己の病の痛みと苦しみを、別の行為でオレに分け与えている…………同じものを味わえと。そう考えて浸れるオレは本当に幸せな人間だ。
「そら、こっちもだ」
「!……ぐっ、……ぅぅっ、う……」
 僅かに離された唇の隙間から、その楽しげな声がオレに吹きかけられた。それと同時に鋭い痛みが胸元から上がる。
 反射的に驚きと痛みに上がった小さな悲鳴は、素早く合わせられた唇に吸い込まれた。先ほどよりもまた更に強くオレの舌が嬲られる。その間も痛みは続き…………じんじんと、痺れにも似た快感が湧き上がってきた。
 ……どうやら乳首を思い切りつねり上げているらしい。舌を絡めたっぷりと唾液を注ぎ込む濃厚なくちづけも、この痛みの前では全てが霞む。時折走るチリっとした別の痛みは、僅かに伸びた爪先を胸の肉芽に立てているためのものか。何だか痛みに目が回る。
 ……この男にとって身体はいわば玩具のひとつだ。
 生まれた頃より己の健常さなど望めないその身体に、何の執着を愛着を持てというのか。生まれ出でてから今日か明日か、終の日がいつ到来してもおかしくないと脅されていれば、ある意味達観していても傍観していてもおかしくはないだろう。そしてそれは他の者の身体とて同じことだ。
 誰しもが自分と同じ痛みと苦しみに耐えられると思い考え、結果容赦のない仕打ちになってしまった昔日の思い出。己の脆さとその上に成り立つ頑丈さから、触れれば落ちるというその意味を、この男は真に理解はしていまい。
 それは身体に、器に激しい飢えを潜め持つ…………その相反する結果なのだけれども。
 ……オレは心の中で小さな溜息を吐く。
 窓硝子のたった一枚その向こう、晴れの日は何を思って視線を意識を飛ばしているのだろう。この男は雲ひとつない青空に、何を一体見ているのか。それとも見えるものも見ず、見えないものでも見ているのか。
 あの明るい暖かな光の下で、何か和やかに笑う己でも見ているのだろうか。微笑ましい友人知人に恵まれ囲まれ、それは清らかで柔らかな生活を過ごしている、ありもしない滑稽に近いその夢を。重い身体を一切知らない、軽く健やかな器の中で。
 ……ああ、だからこそ病にもなるのだ、中身のない抜け殻を、誰がどうして生かすことができるのか。こんな遊びをいつ覚えたかオレは知らないが、そんなことをしているから身体が立ち枯れてゆくのだ。
「尻を向けろ、直人」
 カチャカチャという、軽い金属音と共に何か布地が擦れ合う音が耳に届いた。同時に腰周りの微かな圧迫感が消え去ってゆく。器用だなとオレは奇妙に関心した。空いた片手でオレのベルトを抜き取ったらしい。
 そうか、そろそろなのか…………オレに、挿れたいのか。
 そう考えてまたオレは浮かれ飛ぶ。
 ……夢想の中にきっとオレはいない。オレも重い身体と同じわずらわしさのひとつ、病がなければオレなど無用の長物なのかもしれない。一人で飛び立つ晴れの日を思えば、この男にとってはむしろ病のない世界が自分の生きる場所なのだろう。こちらの世界が夢想の産物……重い身体と病の他は、何でも手に入る夢の世界だ。
 そうか、そうなのか。はたとオレは思い当たる。
 ああそうか、偽りの世界だからこそ、この身体と器が足らずに生まれ出でたのか。いくら練り上げ積み重ねようが幻は幻だ。ましてや遊びのひとつなら、いつかは飽きてもおかしくない。そうか、そういうことなのか。
「直人」
 ……そこまで考えて、オレは無性に笑いたくなった。
 それがどうした。
 それがどうした、オレにはこの夢想の世界が現実だ。この男のそばにオレがいる世界、それがオレの事実の世界だ。オレはオレの現実を受け入れるだけだ。この男が存在する今を、この世界を。
 ……長々延々考え込んで溜め込んで、得られた答えはいつもの通りだ。ああ、オレは本当に本当に幸せな人間だ。

◆◆◆◆◆

 意地の悪い笑い声が部屋に響く。オレとはいえば舌の根がぶるぶる震えて、どうにもうまく喋れそうにもない。これの余韻というよりは、やはりあの薬のせいなのだろう。
「こういう趣向もたまには面白いだろう」
 オレは相槌とも取れるだろう大きな呼気にかこつけて、雄だけのきつい匂いを十二分に吸い込んだ。オレとこの男の混じり合った何もかもを楽しみたかった。今だけのものだ。
 さんざん吐き出させられ、そして注ぎ込まれたオレの身体はくたくただ。許されるものならば、このまま泥のように眠り込みたい。……抱き捨てられた姿勢のままに寝具に沈むオレの姿は、薄汚れまるで打ち捨てられた人形のようにも見えるだろう。寝具は汗とも唾液とも体液とも精液とも、それら全てをぐっしょり吸って気色が悪い。肌や髪や毛を濡らしたそれはもう乾き、とはいえ独特の突っ張り感とかさつきで、これもあまり気持ちのいいものではない。……嬉しいのは嬉しいが。
 特に内側の、これでもかと叩き込まれた興奮の名残が何とも言えない。一度溢れ返ればもういくら引き締めたところで後の祭りだ。おおよそは出尽くした今もぬるぬると、少しずつ這うように垂れ落ちてくる感触はかなりオレを戸惑わせる。
「……直人」
 汗と諸々で突飛な癖のついたオレの髪がぐしゃりと撫ぜ上げられた。つんと訳の分からない方向に伸びた一房を、やや手荒な手櫛で梳いてゆく。固まった精液が張り付いた箇所にぶつかって、オレの頭が引っ張られた。オレはいささかに驚く。
 こんな甘やかな行為は知らない。
「痛かったか」
 その微妙な動揺を、首を急に曲げられた痛みからとでも思ったらしい。オレを落ち着かせるように二三回軽く頭を叩き、また手櫛が始まった。しかし今度はよほどに優しい。
 何だこれは、一体。何だ、何なんだ。
「…………直人」
 それでも薬と酒と行為とで、疲れたオレの身体が溶けてゆく。妙だといぶかしみながらも現金なものだ、優しい甘さに何だか眠気が増してきた。
 すると髪梳きに満足したのか、それとも飽いたのか、続けられた手がふっと止まる。それからゆっくりとうなじの方へと指が滑った。肌理を丁寧になぞられる……くすぐったい。
「……もっと面白い趣向を思いついた」
 指がオレの首を上下と辿る。行為と言葉に、ぞくりと背筋がざわめいた。まさかオレの首でも絞めて、それで楽しもうというつもりなのか。……そんなオレの心でも読んだのか、忍び笑いが後に続いた。
「ああ、そういうことじゃない。俺もそこまでの趣味はない」
 それでもオレは全く構わないが。……だがまあそんなのはどうでもいい。主はオレの秘めた気持ちには気づかずに、何か遠く小さく微笑んだ。
「きっとお前も満足する」
 オレの満足か。オレの満足なんて、そんなものは決まっているのに。……一体、何の満足なのだろう。
 しかしああ……何だかとても眠い。眠くてたまらない。
「雨の季節だ」
 雨か……雨の日は大好きだ。それならオレも嬉しい。ぼんやりとその言葉を頭の内に引き入れる。雨の日に…………何をするんだろう。
 他には、と言葉の続きを待つものの、時を紡いだのは低く奇妙に楽しげな…………狂気と邪気にまみれた僅かな笑いだけだった。



(END)