「絵理香ちゃん、早く早く」 「ごめんね、莉菜ちゃん。もうちょっと……」 制服のポケットから取り出した小さな手鏡とつげの櫛で、絵理香はせっせと自慢の髪を梳き整えている。さらりと流れるその美しい艶に、莉菜はほうっと感嘆の息を漏らした。 絵理香の髪は本当に美しい。莉菜は慌てて己の頭に手をやった。リボンの形は良し……もう少し、この髪の毛が柔らかければ良かったのに。少女は少しだけ口の先を尖らせる。 話を聞けば絵理香の家は美容サロンで、どうやらこの末っ子を両親のみならず姉たちもせっせと可愛がっているらしい。 それとは反対に……と、莉菜はまだまだ幼い年の離れた弟たちを思い出した。言う事も聞かなければ、覚え立ての汚い言葉でぎゃあぎゃあとわめきまくる。 ちょっとめかし込めばまるで何かの祭のように囃し立てられ……全くもって優雅やら何やらとは程遠い毎日だ。 「でも莉菜ちゃん、大丈夫かな……運転手さん、気を悪くしたりしないかな」 「え……あ、ああ、うん……きっと大丈夫だよ!だって絵理香ちゃんみたいな可愛い子と一緒に写真が撮れるなんて、そんなラッキーなこと断るわけないよ!」 「……莉菜ちゃんたら」 見惚れていたとは言い難く気恥ずかしい。 やや早口になったのは照れ隠しだ。それでも言葉に偽りはない。莉菜は絵理香を勇気付けるように殊更明るく微笑んだ。 ……そんな友達の気持ちが分からぬほど絵理香とて幼くもない。ほんの少し頬を染め、少女は莉菜の手をしっかと握った。
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雲間から陽の光が覗いていた。 そういえば傘は使わなかったなと、莉菜は旅行のために新調した、可愛らしい水玉の折り畳み傘を思い出した。 雨ばかりだと天気予報は告げていたが、いざ蓋を開ければそんなこともなく、至って穏やかな快晴の毎日だった。 今日だけは朝から鈍く曇っていたが、結局雨は降らずに済んだ。陽が顔を見せているのなら、もう雨の心配はしないでいいだろう。帰ったらお洗濯しなきゃと莉菜はぼんやり思った。 ……修学旅行もこれで終わりだ。 サービスエリアでの、これが最後の小休止。ここを出発して高速道路を抜けてしまえば、後はほとんど一本道だ。小一時間も乗っていれば、見慣れた国道に出るだろう。夢のような、そしてあっという間の数日間。莉菜は軽い溜息を吐いた。 また明日からはいつもの生活が待っている。口やかましく弟たちを叱咤する、何だか空しいといえば空しい毎日だ。せめて妹だったなら、こんな風に仲良く手を繋いだり、お髪の毛を結ってあげたり……気になる男の子の話もしたり聞いたり、できたのに。 『内部では、新総帥派閥と他とで真っ二つに別れていたという噂がありましたね』 『……どちらかといえば、そのおっしゃるところの他の派閥方が、トップになるだろうと囁かれていたのですが。どこで、いや何で逆転したのか……』 『まあ、何にせよこれで一枚岩になったということではないでしょうか、しかし思い切った改革ですが』 『今まで存在を知られてきたものの、表舞台に立つことはなかった方です。前総帥が亡くなり、今や己が名実共に財閥の顔でありトップだということを、内外に表したいのでしょうね』 広い施設の中、点在するように設置されたテレビからは、少女達にはまだ遠い世界の特集が流されていた。彼女らが修学旅行に旅立った中頃に、政財界を揺るがした大きな出来事。 莉菜は歩を止めて耳を凝らした。ああ、またあのニュースなのかな、えぇとどこかのお金持ちがなくなったんだっけ……。 旅行中は更に見なくなったニュース番組の中で、それでも意識を向かせればいつでもいつもこれの話題だ。嫌でも耳に入るくだんの話を、莉菜はわずかに覚えていた。確か名前がカツヌマとかいう……。 「莉菜ちゃん、いないね……運転手さん」 気をそらした莉菜には気づかず、一途に絵理香はぽつりと呟いた。育ちのせいか大人占めなこの少女が、それでも口に出した淡い思い。何とか力にならなければと、さ迷わせていた思考を戻し莉菜はにっこり明るく笑んだ。 「大丈夫だって!ほら、お手洗いかもしれないし……ね、あっちの灰皿の方に行ってみようよ」 そうだ、と莉菜は思い出した。 もしかしたら煙草を吸っているのかもしれない。だって見たもの、隠すように仕舞われた封を切っていない真新しい煙草の箱を。 これは莉菜のささやかな秘密だ。この憧れは、決して絵理香に悟られてはいけない。 誰もいない冷え切った運転席。そこに座っていた人を思い出しながら、指先でそっと触れた、その視線の先。暇潰しか眠気覚ましか、しかしそれにしては難しそうな、英字の雑誌と新聞に紛れて置かれた小さな箱。凄い、こんな物を読めるんだという感嘆と、ああ色々やっぱり大人なのだという、この自分との遠い距離。 せめてもう少し、自分の見目が麗しかったら。絵理香のようにたおやかな美しさがあったなら。……そうしたらまだ胸を張ってあの人の顔を、真正面から見ることができるのに。あの、綺麗な人をまっすぐに。 莉菜は繋ぎ直した絵理香の手を、きゅっと握り締めた。
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「あっ……」 小走りに連れ立つ中、何かに気づいたのか絵理香が小さな声を上げた。きらりと瞳が輝き、その愛らしい唇は微笑みの形を作る。……莉菜と繋いでいた手を無意識の内に離し、絵理香は己の掌同士をすり合わせた。莉菜は諦めにも似た笑顔で、絵理香の視線の先を見つめ直した。 「先生がいるの?……あ、運転手さんも!」 見知った顔がそこにいた。その腕組みをした担任教師の隣で、あの運転手が粗末な紙コップを片手に立っていた。一体いつの間に仲良くなっていたのだろうと莉菜は小首を傾げる。たいして接点は、その時間はないはずだ。……いやいややはり同性同士、ましてやこんな子供の中にいては話し相手も欲しくなるのだろう……莉菜は先程の苦い思いを蘇らせて、僅かに息を吐いた。 「二人揃って何をして……?」 彼らの顔は近くにある、テレビの方へと釘付けられている。何をと見遣れば例によって例の、くだんのニュースだ。莉菜はほんの少し苦笑した。 ……その画面には、濃い色のサングラスをかけたがっしりした体格の男性と、どことなく妖怪めいたせむしの老人が連れ立ち歩く姿が映されていた。そのぼやけ震える映像から、これは正面を切って堂々と撮影されたものでなく、拙い機材で隠し撮りされたものだということが、子供たる莉菜にも理解できた。聞き取れたキャスターの言葉からは、云々の元後見人であり、今の新しい総帥とその側近だとか何だとか……。少女は小さくため息を吐いた。 それを肴に何か話でもしているのだろうか、二人の表情は微妙に乾いている。 『……まぁ、好きにやるがいい』 名前に課せられたものは置いて来た。欲しければくれてやるさ――倍に返してもらうがな。 それを聞く運転手の口元も、奇妙な形に歪んでいた。 『はい――』 くくっという、おそらくは教師からの忍び笑いがそれに被さる。続きがあったはずだろうに、その笑いでかき消され、莉菜の耳には届かなかった。 ――あれは誰? ……莉菜は背筋を震わせた。あんな表情と声色の男は知らない、見たことがない。姿形は教師のままなのに、何だか知らない人みたい。 いや、いいや知らない人そのものだ――
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「莉菜ちゃん?」 ……僅かな休憩時間、もう機会は今だけだ。すぐにでも近寄りたい、そのうずうずする気持ちを抑えきれず、絵理香は莉菜に呼びかけた。いきなり凍りついた友達に、許しを請うような……そして心配する声色で。 「先生がいるから、運転手さんも嫌がらないかな?」 絵理香の言葉に、やや遅れて莉菜は頷いた。顔色は何故か良くなく――しかし浮かれる絵理香はそれを気づくことはない。行こうよと、繋ぎ直したその手を強く引っ張る。 「先生!……写真、撮りませんか?」 絵理香の声に、はっと二人がこちらを向く。莉菜は絵理香の影に隠れるように、こっそりそれを覗った。 「……俺が撮るのかな? それとも撮ってくれるのかな」 先ほどまでの剣呑さが嘘のようだ。莉菜は己が眼を疑った。いつものにこやかな笑顔、そして優しく穏やかな言葉。……運転手は紙コップを口元に運び、我関せずとその中身を味わっていた。 どうやら自分がその対象とは思ってもいないらしい。その表情に今し方見たはずのいやらしさは欠片もない。 ――思い違いだったのかな、聞き間違いだったのかな。 ――他の誰かの内緒話を間違えちゃったのかもしれない、多分そう……きっとそう。やっぱり人の話を盗み聞きするだなんて良くないこと、だから罰が当たったんだ。 絵理香の後ろでほっと莉菜は安堵の息を漏らした。 「えぇと、私が撮りますから……先ずは三人で」 安心すれば話は早い。莉菜は持ち前の明るさを取り戻すと、戸惑いを見せる絵理香の背中をポンと叩いた。頑張ってと小声で声をかければ、うん、と可愛らしい返事が返った。 きっとお似合い、だから、だから――私の分まで写ってね。莉菜は大きく微笑んだ。 ……同じ人をと騒ぐには、自分の気持ちは重過ぎる。
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「最後に一枚、いいですか?」 絵理香を挟んで教師と運転手、絵理香と教師……絵理香と運転手。……被写体は素直にカメラマンの指示に従ってくれた。もっともっとと、絵理香に寄るよう茶目っ気混じりに叱りつければ、全くお前はお調子者だと笑いながらも受けてくれた。教師がいる手前、おいそれと否とも応え辛いだろう、そう計算の内に入れ運転手にも無理を言った。……お陰でいい写真が撮れた。きっと絵理香は満足するだろう。淡い慕情の思い出の、小さな小さな証として。 「莉菜の分かい?」 教師の言葉に、莉菜は慌てて首を横に振った。 「先生と、運転手さんのお二人で」 運転手の写真なら、他の皆も欲しがるはずだ。 教師の手前、彼一人だけを願うことはできないが――これなら別に構わないだろう。 ……莉菜は心の内で暗く微笑んだ。 いいえ違う、これが私の分なんです。もし明日があるのなら、友を押し退けてまで一緒の写真を願っただろう。だけれど恋は今日で終わりだ。見る度切なくなる思い出を、残せるほどに頑丈ではない。臆病者のこの自分は。 「は〜い、寄って寄って、寄ってくださ〜い」 くすくすと絵理香の笑い声が響き渡った。 もう二人はくっつくほどに近くに寄っている。それでも止めない構図の指示に、こら、遊ぶなと、教師のだが変わらぬ優しい声の叱責が飛んだ。 「…………」 ……運転手にも多少は面白いと思われたようだ。 ファインダー越し、ほんの僅かに表情が緩むのを見て、莉菜は胸が熱くなった。 綺麗な人。 すらりとした長身の、その脚は長い。細い身体だが、痩せぎすという印象はない。金の髪に美麗な色の瞳は、薄い色の肌に良く合っていた。睫毛も長い……顔の彫りの深さはちょうどいい。これ以上深ければ、きっともっと男臭くなっただろう――少女を脅かす獣の気配も予兆もそこにはない。 なんて綺麗な、なんて夢のような人なのだろう。 …………こんなところでなければ、もっと近くに寄れたかな。こんな出会いでなかったなら、もっと別の関係にもなれたかな。泣きたくなる気持ちを抑え込み、莉菜はカメラを持ち直した。 「笑って、笑ってください……。もっと笑顔で、運転手さん――椎名さん」
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駐車場の端、お粗末ながらも植えつけられた木々の間を、一頭の蝶がひらひらと頼りなく舞っていた。 元は暖かい地方の生まれなのだろう、肌寒い日も続く日々の中で、ここまで育ったのは稀ともいえる。 暖気運転を始めたバスのその温かさが愛しいのか、蝶はひとしきりその周りを覗っていたが、やがて雲間から降り注いだ一条の光に導かれるように、そちらへと天高く舞い上がっていった。まるで晴れの日を求めるように。 『はい――お供いたします。……いつまでも、どこまでも』 少女の聞き取れなかった言葉の先を、蝶は何遍も反芻していた。
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