ゆめのおわり 序章





 不意に寒気が肩口に走った。
 扉でも開け放していたかと後ろを思わず振り返り見る。だがやはりそんなことはなかった。観音開きの重い扉はぴたりと閉まり、何事もない顔でこの部屋の静寂を保っている。オレは咄嗟とはいえ取った行動に内心舌打ちした。この部屋に入る際キッチリと閉じたのは確かで、何かなければこのオレがそんな粗相をするはずもない。ならば掠めた冷気は何だったのかと思えば、風邪でも引いたのかというそれこそ一般的な、当たり前らしい考えが頭を過ぎる。オレは頭を否定に振った。いやこれも違うだろう……自己管理は万全だし、何しろオレは存外丈夫にできているのだ、病気らしい病気もなく今の今まで過ごしている。
 オレの気のせいならば情けない話だが、まあ別にそれはそれで構わない。たまにはそんなこともあるだろうとオレは思い直した――まるで誰かが部屋に入ってきたような、そんな感覚だったことは忘れよう。腰から上へと背筋を這い上がった、悪寒に近い何かもだ。
「……っ」
 耳に届いた微かな衣擦れと吐息の音に、オレはそちらの方へと視線を戻す。起こすつもりは毛の先ほどなかったのにと、オレはまたもや己の失態を舌打ちした。仕方なし――手に持つ燭台をそっとサイドチェストの上に置く。愚かなオレの動揺に夢の世界から呼び戻されたのか、寝具の中に大人しく埋まる主の閉じられた瞼がひくひくと微かに蠢いた。仄かな明かりに柔らかく浮かび上がるその表情は、しかし険しい。深くはないものの、永年襲われる発作と痛みに耐え忍んだ証は顔に皺として刻み込まれている。今のように続く発熱で体力が落ちたときにはてきめんに表れ、いつも傍にいて分かっているはずのオレでさえ圧倒されてしまう。寝具に沈み込み病の苦しみと闘いながら眠りに漂うさまは、一体何の罪科があってと時折思うほどにだ。
 そんな感傷めいたオレの心の呟きに呼応したかのように――もちろんオレの妄想にしか過ぎないが――痛々しさすら感じるその顔に強さが戻る。長い深呼吸と共に寄せられた眉間の皺が解かれ、呼気を求めてうっすら開かれた唇が引き締まった。ほんのりと頬に血色がのり、先ほどまでは見られなかった張りも表れる。苦悶のさまが消え失せて、目覚めたことにどことなく安堵しているようにオレには思えた。ふと、悪夢でも見ていたのだろうかと余計な妄想がオレの頭を過ぎる。たとえば疲れ果てるまで大地を走り駆け抜け、何のしがらみも重荷もない青空ばかりが広がる世界の夢を――柔らかい笑顔に囲まれ穏やかに未来を思う世界の夢を。
 オレはほんの少し唇を食んだ。夢の只中は楽しかろうが、そうして目覚めてしまえばそれは悪夢と変わりはしまい。出来もしないありもしないあろうはずもない滑稽な夢だ。……全てを持ち得ながらたったひとつ、それだけが叶わない辛さはいかほどのものなのか。そのたったひとつに、何の役にも立てない自分が正直恨めしい――そして、きっとその夢の世界ではオレという狂人なぞ必要もないだろうことにも。
「……直人か」
ああ……とオレはうっとりする。眼が見開かれる前に呼びかけられたのだ――いの一番に、オレの名前を呼んだのだ。これを恍惚として何と言おう。オレは下品にニヤける顔を、慌てていつもの笑みの表情へと戻す。紳一には常にイイ顔を見せていたい。
「はい、紳一さま」
 オレがそうであるように、紳一も気配だけでオレがオレと分かるようで――昨日今日の縁ではなし、まして紳一はこうしたことには非常に敏い。それも当然だろう……とはいえ、嬉しさに浮かべた笑みが深くなる。
 そうしてそんなオレの微笑みと比例するかのように、部屋の雰囲気が変わる。生気というか活気とでもいうのか――紳一の独特な存在感に圧され、何とも言えない重苦しさがたちこめてゆく。カリスマ性とか何とか、そんな一言では言い切れない何かだ。別にコレは今日このときだけのものではない。紳一のそのときの気分によって多少の差はあるものの、常日頃こんな感じだ。気の弱い者ならばこの澱みに堪え兼ねて平伏してしまうだろう。体格もしっかりとした大の大人が、恐怖に脂汗を浮かべガクガクと身を震わせる――そんな光景を事実、何べんともなくオレは見ている。おそらくは古手川の爺さんや木戸の親父を圧倒し、隷属させているのもコレだろう。でなければあの百戦錬磨の魑魅魍魎は操れまい。
 だがこの粘りもオレには心地好い。オレはこの男に囚われている訳で……澱みに身を囚われるのは、何だか向こうがオレを離すまいとしているかのようで、……まあ妄想するのは自由だろう。我ながら女々しいとは思うが。
「……今は」
 熱に痛められたひび割れるような声に、オレの胸が痛くなる。紳一は喉がひりつくのか、二、三回軽く咳き込んだ。ふうっと大きな吐息の後に、紳一がうっすらと瞼を開く。誰がどう見ても元気そうな風体ではない。この数日は近頃なかった熱を出してずっと床に伏せっていたのだ。それにどれだけオレが心を乱されたか、押しつぶされそうになったか、この男は全く知るまい。
 ああ、どうか。どうかお願いです、紳一様。お願いです……旅立たれないでください。死なないでください。オレを置いて行かないでください。オレを捨てないでください。
 どうか、どうか……どうかただひとつ、オレの願いを聞き入れてください。いつでもどこでもどこまでも、直人を紳一様の――あなたのお傍に置いてやってください。
 ……口からついて出そうな泣き言を、ぐっとオレは堪え置いた。考えたくもない、しかしそう遠くはないだろう先の話を……オレは努めて意識しないようにはしている。けれども……全ては無理だ。全て無視することは……愚かなオレには無理な話だ。
「夕餉時でございます――灯りを点してもよろしいでしょうか」
 オレは内心の動揺をひたすら抑えて、いつもの笑みを崩さぬまま、紳一へと微笑みかけた。
「……ああ」
 オレの言葉に、紳一が僅かに頷く。オレはサイドチェストの引き出しからリモコンを取り出すと、サッと素早くボタンを押した。おそらく今の紳一ならばと、主の好みの明るさに調節するのも忘れない。こんな気遣いは木戸や古手川には出来ないだろう。オレの全ては紳一のためにある……アイツらと一緒にされたくはない。
「水など、いかがですか」
 水差しを紳一の前に差し出し見せた。発熱に持って行かれた体力はそう易々と戻るものでもない。何より常に病の身体だ――少しずつでも栄養やら何やら摂らねばと、愚かに急く自分の心をグッと抑える。せめて水を飲めるほどに気持ちも快復していればいい。
「このまま」
 オレの内心の葛藤を知ってか知らずか、意外にすんなりと紳一が言葉を返した。ほっとしながらも、起き上がらないのか起き上がれないのか、その両方なのかとまた新たな悩みが浮ぶ。たまにへそを曲げたような事をしでかすのが紳一だ。たとえそれが己の命に関わろうが、そう易々と言いなりにはなりたくないという、奇妙なところで矜持を見せる。その可愛らしさもオレは大好きだ。――ああ、大好きだ。
「紳一さま……」
 身体を冷やさない、驚かせないほどのぬるい水を注ぎ入れた吸いのみの口を、その色の悪い唇の端に載せる。押し付けられ歪む唇が、それでもしかし確かに先を咥えたようだ。僅かな音と共に、充分に注ぎ入れた温水が少しずつ減っていく。紳一の、乾き皮膚が剥がれた唇に、そこはかとなく血色と精気が蘇ってきたようにもオレには見えた。いわゆる電解液を勧めれば良かったという後悔が湧き上がるものの……まあ水を飲んでもらえただけでも重畳だろう。
「……直人」
 ……満足したのか、紳一が吸いのみを離してオレの名を呼んだ。口の端についた水滴を柔らかなハンドタオルで拭うと――そのオレの所作をどう思ったのか、紳一がふっと笑った。と思えば、薄く開いたその瞼がまた閉じる。……ついぞ見ることのない表情が、紳一の面に浮かび上がっていた。



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