きみにささげるあいのうた



 妹が近く結婚するという。
『……だから、一度ちゃんと帰ってきなさいよ。うちは三人家族じゃないんですからね』
 電話越しの母の声が僅かに非難じみている。それも仕方ないだろうと正樹は思った。就職してからというものの、彼は一度たりとも実家には帰っていない。離れているといっても隣県で、車をとばせばさして時間はかからない。
「……どんな人だった?俺の弟になる奴は」
 苦笑しながらのその言葉を、母は了解の証と受け取ったらしい。途端に明るくなる声色に、正樹は相変わらずだなと笑みを浮かべた。どうせ父の方が妹の結婚に衝撃を受けているだろう。まあ、それは男親は娘に甘い弱いという世の理なのかもしれない。
『……まあ80点ってところかしら。さすがは私の娘、いい眼をしてるわぁ』
 ……母は非常に分かり易い。が、存外に豪胆だ。
 正樹は当時を思い出した。一人暮らしを始めると決めた自分を、父と同じく竹を割るほどの潔さで認めてくれた。
 あんたの人生よ、好きになさいな。
「オフクロがそんな点数つけるんなら、あいつも幸せになれるだろ。……良かったよ」
『…………そうね』
 微かに母の声が沈んだ。その声色に秘められた意味を正樹は理解した。反論とも安心とも、口先から零れ出そうになる言葉をぐっと堪えて全てを飲み込む。
 俺は幸せです。俺は幸せです。俺は、俺は幸せなんです。
『それとね…………』
 努めて出したと思われる明るい声とその内容に、正樹は薄く微笑んだ。……母もたぶんに気づいていたのだろう、しかしだからといってどうすることもできないのだ。
 正樹はそれから二三曖昧な世間話をした後に、じゃあまた連絡するからと電話を切った。正樹の言葉に僅かの間の後、絶対にしなさいよと返した彼の母の声はほんの少し、己の発言に後悔の色を載せていた。
 ……ポリッツが大好きなのよ、その人。

◆◆◆◆◆

 お兄ちゃんばかり背負う事ないじゃない。
 自分の就職が決まり家を出ることが決まったとき、ごねにごねて絶交宣言までした妹は、そう言ってこの胸の中でしくしくと泣き募った。
 どうして、そこまで。……どうして、どうして……。
 その答えは明白だ。
 しかし正樹は沈黙を守った。己に縋りつくように抱きつく彼女に向けて、この口からそれを答える訳にはいかなかった。彼女も聞かずとも分かっていることだろうし、そして何よりその後に、待ち構えているだろう妹の言葉を避けたかった。
 ごめん。……ごめんな。
 それしか言えない。涙に震える彼女の肩を、そっと抱きしめてやることもできない、しない、する訳にはいかない。
 ずるい、ずるい、ずるい、ずるいよ……。
 何度も繰り返される非難の言葉は、おそらく自分だけへ向けて発せられたものではない。正樹は痛いほどに妹の慟哭を感じていた。
 自分も彼女も……そして彼も、気づかなければ良かったのに。

◆◆◆◆◆

 正樹は天井の白い壁紙をぼんやりと眺めた。鉄筋コンクリート造りのマンションはまだ新しく、実家の手狭な間取りは違い広々としている。物音が漏れにくく適度に広いという理由からここを選んだが、若い自分にとっては少々家賃が問題だ。また同世代の暮らしぶりから考えれば、余りに物のない、簡素というよりは質素という部屋の内容。
 それでも以前よりは余裕ができた。
 薄い布団に横たわりながら、正樹は片手を蛍光灯へかざし見る。
 この手だ……。
 正樹は唾を飲んだ。
 あれから……あれからだいぶ変わったものだ。自分を気遣う友を振り捨て、幾度となく来た同窓会の頼りも無視した。
 細くなったものだと、逆に厚い掌を見つつ正樹は自嘲する。
 ああ、細くなった、薄くなった。
 あの惨事のせいだと、もう忘れてしまえよと彼の周囲はそう語る。いや忘れなくてもいい、ただそう自分を追い詰めるなと訳知り顔でのたもう友も少なからずそばにいた。
 何を馬鹿な、何て馬鹿なことを。そう心の内で罵りながら、正樹は笑顔を振りまいた。ありがとう、ありがとう。いや大丈夫だよ、大丈夫だから。
 言外に拒否と拒絶を込めた笑顔を、親しい者が気づかぬ筈はない。疎遠になる友人たち、その繋がり……だからこそ何も尋ねない、何も問い詰めない……それでも必死に自分を守ろうと認めようと、優しく見守る両親がどれだけ救いになったことだろう。
 少ない味方だと、正樹は寂しく微笑んだ。理解しないでもいい、理解されなくてもいい。おそらく理解者などはこの先も出ることはないだろう。いいや、理解されなくていい。
 ……ただ、邪魔しないでくれればいい。
 蛍光灯のあかりがパチッと僅かに撥ねた。換え時かなと、奇妙に冷えた頭の片隅でそう思う。明日は無理だ、出かけられるとしたら今週末……と、正樹は掌を見つめ直した。
 あの出来事はうやむやの内に片付いた。おそらく秘密クラブの常連にでも、その筋の人間がいたのだろう。被害と損害を受けた病院側も、寛大とも思える処置と処遇をもって、その後始末を引き受けた。当然といえば当然なのかもしれない。そう、打ち捨てる訳にもゆかず、かといって眼に見える厚遇をする訳にもゆかず……まさにそれを人は厄介と呼ぶ。
 ひっそりと病室に閉じ込められたその厄介に、正樹は何度も何遍も、数え切れないほど会いに行った。その執着に眼をつけられたのだろう、身動きのままならない学生時代を終える時、彼は厄介の面倒を好条件で獲得した。それの一人分なら暮らしてゆける金銭と共に。
 今の施設に預けたのは正樹個人の決定だった。本人に聞くとも薄く笑むだけで、その意思は確かめようがない。それでも……あれでも彼にとっては思い出もあろう場所だ。いかなものであろうとも、突然に所縁もない見知らぬ場所に放り込まれれば、心細く感じるだろう。
 彼……いわば、いわゆる……狂人であっても。
 正樹はまた唾を飲み込んだ。
 彼はその後残された、クラブの経営だの会員名簿だの……そうしたものには一切関わらなかった。実際今どうなっているのかすら正樹は知らないし、また知りたいとも思ってはいない。
 だがそれらがもたらす利潤や利益を考えれば、何か手を打てば良かったのだろうかと考えるときはやはりある。
 自分の糊口を湿らせるには、どうしても働かなければならない。それにたまさか自分に何かが起きた時の、彼の保障をするものも欲しかった。
 それらは深く重く自分に圧し掛かる。
 しかしその都度それでも……いややはりこれでいいのだ、良かったのだと正樹は気を取り直す。もし働かないで済んだとしたら……健全に外界と繋がらずにいたら、きっと自分は彼にもっとのめり込んでしまうだろう。それも良いかもしれないが、己を気にかける友人や家族を思えば……生きたまま忘我と涅槃に遊ぶ訳にもいかないのだ。それが自分の最後の良心でもあり、限界でもあると正樹は考える。
 それに……それに、どうもがきあがこうが、逃れられないあれらは、己の心を苦くする。
 あれらは彼のそれが培い成したものなのだ。彼をそうたらしめた、思いの源……もう届かない、自分の恋敵。

◆◆◆◆◆

 正樹は荒く息を吐いた。手淫の証がべたりとその手を汚している。白く濁った興奮の証を、彼はそのままぐっと握り込んだ。
 ……転院のきっかけはこれだった。彼を世話するヘルパーが、何気に漏らした言葉の一つ。まだ年若い、身体だけは健康そのものだから……と、早口にまくし立てながら仕舞い込んでいた、彼の真白な下着のその多さ。
 元より正樹の他には反応を示さない彼だったが、自分の身体のあれそれまでに頓着しないというその事実に、正樹はたまらないものを感じた。
 試しに女を振舞ってみれば、彼はそれはそれは楽しげに腰を動かし、そして絶頂を幾度となく味わった。そうしてそこが何であるか、どういうものなのか、そしてどうすれば喜びに到達できるのか……理解させたその後でも同じことだった。彼は自ずからは手淫も行わない。
 あやふやで端的な会話の中、正樹は彼から夢精のあらましを聞き出した。何か感じたのか、どうだったのか。
 それに対して彼は瞬間呆けた表情を見せると、ああ……と息とも何ともとれるような声を出した。そうして告げたのはたった一言。
 ゆめをみたんだ。ゆめをみたんだ。
 優しく語る声色に、正樹は思い切り眉根を寄せた。そうか、そうか……彼女か、あの人か。あの女か。
 それから正樹は散財した。女を使えば金はかかる。特に口外の心配もない女なら。……それでも正樹は満足した。夢精はなくなり……つまりそれは彼がその夢を見ていない、その証だろうとそのときは思ったからだ。世話する看護師たちやヘルパーの、裏でのぼやきもどうでも良かった。
『大変ね』
 正樹は唇を噛み締めた。
 達した後の程良い疲れの中、頭内に不意に甦ったその言葉。甘く落ち着いた大人の女の声色だ。それは女へのチップを手渡したときに言われたものだ。派遣元の店に支払う代金とはまた別に、彼はいつも幾許かを用意していた。
 その日も至極当然に彼女にそれを渡そうとし、また当の本人も後の疲れと気だるげなそれに紛れ込ませながら、それをごくごく自然に受け取った。いつもと違うのはその後だった。封筒の厚みを指で感じ取りながら、その女は瞬間遠い顔を見せ、そしてふっと静かに微笑んだのだ。
『大変ね、あなたは。私なんかいらないのにね』
 ……女という生き物はこれだから。正樹は微かにその身を震わせた。
 例えば姉だの妹だの母だのと、そうした立場やら役割やらが授けられていなくとも、どうして女はこうも目敏く全てを……真実を見抜くことができるのだろう。
 しかも赤の他人が、たった一度の交合だけで。
 施設を移った今では女を呼んだことは一度もない。それが……彼女のその言葉が背中を押した。
 そしてそれは転院だけの話ではない。

◆◆◆◆◆

『あ……あ、あ……いい、いい、きもちいい……』
 緩く勃起した手の中のそれを、緩慢な速度で扱き上げる。裏筋にかかる指先に力をほんの少し込めてやれば、あからさまに快感を訴える声が上がった。
 仕事終わりの週末に、里帰りを果たす彼をこうして正樹は歓待する。適温の室内の中、裸に剥いた彼を正面から抱きしめる。奇跡的に薬肥りもない彼の身体は、あの学生時代に垣間見たそれとたいして変わりはない。
 逆にいえば、それは彼がいまだ青年と少年との境目をさまよっている証ともいえ、男然とした肉体への成長を遂げていないその事実でもあった。
 心も身体も時間が止まっている。
 ……掌の中で、彼の欲望がその膨らみと硬さをどんどん増してゆく。根元からその先を、まるで引き抜くばかりに力強く揺さぶれば、恐怖からか彼は小さく呻きを上げた。
 かといって快感がない訳ではないらしい。亀頭とその首周りを襲う遠慮ない圧迫感と程良い摩擦に、強引な手管への恐れよりもそれらの悦楽が勝ったようだ。
 掌に包んだままその動きを休めてみれば、己から腰を振って催促をし始めた。そしてまるで甘えるように、正樹の肩に顎を乗せる。
 正樹って呼んでくれたら続きをするよ、してあげる。
 耳元に息を吹きかけながら、正樹は無理を彼に言う。無論この要求はこれまで一度も叶えられたことはないし、おそらくこれから先もずっと実現することはないだろう。
 しかしそれが分かっていても、諦められないのが人の常だ。正樹は何度も何度も繰り返しそれを願う。
 やがて焦れた彼がその身を離す。非難じみた視線をも特別な何かに感じ、正樹が続きを始める……それもいつものことだった。
『う、あ、あ……く、ぅっ……』
 声の調子が少しずつ変わってゆく。興奮の終りが近いのだろう、彼は快楽だけを追い始めていた。媚びるような声は上がらず、また正樹も黙々と彼の頂点への手助けを続ける。正樹自身の雄の象徴も、その窮屈な衣服の下で涎を垂れ流していた。
『……っ!ぅ……っっ!!』
 正樹の動きに合わせ、彼が深く腰を前へと突き出した。それと同時に息の詰まる音が聞こえ、彼の手は正樹の肩肉部分を強く握り締めた。その痛みと共に、正樹の掌がじっとりと濡れ始める。欲望を包み込んだ手の内で、それが証を吐き出している……紛れもない、彼の射精だ。
 全てを出してやろうと、まだ萎えを見せないその肉を正樹は緩く扱き出した。悲鳴のような小さな声が上がり、彼は首を横に何度も振った。それでも精嚢から搾り出されるきつい快感を味わっているのか、嫌という意思表示に反してその腰は逃げを見せない。
 気持ち好かったかと囁くようにたずねると、ごくりと唾を飲み下す音で返事を返された。
 もっと気持ち好くなろう。
 正樹はそう告げると、ゆっくりと萎え始めた彼の中心から手を離した。頂点に達した彼はくったりと正樹に身を預けたままだ。
 濡れた掌から彼の精液がこれ以上垂れ落ちないよう気遣いつつ、正樹はそのまま彼の後ろへ腕を廻す。充分に湿り濡れた指で尾てい骨をくすぐれば、びくっと彼の身体が浮き上がった。
 その浮いた身体を自分の方へと更に寄せると、今度は増えた隙間から小さなすぼみへと指を走らせる。
『う、あ、あ!』
 嫌がり逃げようともがく身体が更に浮く。腰周りを抱き締めれば、かくんと、正樹の背にまるで覆い被さるように彼の身体が折れ曲がった。
 絶頂の疲れがまだ残っているらしい。無理に吐き出させたあの行為のせいだろうと正樹は思った。
 大丈夫だよ、前もその前もやったじゃないか。
 そう告げながら、殊更丁寧に優しくそこを撫で擦る。薄い皮膚の、幾重にも折られたような段の感触が、触る指の腹を介して正樹の興奮を煽ってゆく。当の彼はというと、掠めるような指の動きにむず痒いものを感じているらしく、しきりに正樹からそこを離そうと尻を振っていた。
 しかし数少なくなった彼の語彙の中にも未だにきちんと存在する、拒否と拒絶を一言で表すその言葉が今その口から発せられることはない。
 正樹は指を彼の最も恥ずかしい中へと忍び込ませた。
『う……あ、ぁ……』
 ひくんと彼が肩を揺らした。瞬間締め上げられたものの、じんわりとした圧迫感にすぐさま戻る。
 たかが指一本のことではあるし、また拒否し絞ったところで異物が出てゆく訳はない。彼もこれまでの経験からその答えが分かったようだ。ただその身体はやはり緊張にまみれている。
 指を奥手前と不埒にも動かせば、その異物を濡らす、彼が吐き出した液体の名残が、にちにちと音を立てた。
 同時に、んく、というような息を飲む音もし、正樹は可愛らしいその声にほんの少し唇を歪ませる。
 ……少しずつ、身体は微妙な快感を覚え始めている。
 彼の身体が更に揺れ、折られた身体がようやく立ち直りを見せた。その膝立ちに天を仰ぐ姿は、下からの小さく緩い突き上げにそれでも上下にふらふらと揺れ、まるで何かにトリップしているような、そんな印象を正樹に与える。
 その表情は残念ながら正樹には見ることが適わない。ぴたりと彼の身体に頬を寄せながら、正樹はゆっくりと言葉を紡いだ。
 ……なぁ、お前、俺が好きなんだろう。
 彼の首が大きく振られた。しかしそれは正樹の言葉に対する肯定でも否定でもなく、単なる動きのひとつでしかない。正樹は、青年は構わずその先を続けた。
 お前は俺が好きなんだよ。そうなんだ、俺はようやく分かったんだ。
 青年は痛いほどに興奮を主張している怒張をまろび出すと、それを彼の肌に擦りぶつけ始めた。
 お前は言ったよな、俺の中にいるお前、お前の中にいる俺と決着をつけるって。何で俺を選んだのかって。
 ……なあ、実験だの友情だの、そんなのは嘘だろう。
 お前は余りに急ぎ過ぎた。確かにお前とあの女は不安定な関係だった。けれどあそこまで急ぐことなんかなかったんじゃないのか。
 少年の季節が終わるのが、そんなに怖かったのか。母への慕情だけに頭を悩ませても良い、そんな子供の時代が終わるのが恐ろしかったのか。
 ……だけれどあんなに急ぐのならば、何でお前は数年も待ったんだ、なあ。
『ぐ……う、ううっ……う』
 正樹は彼の手を取った。そのまま導き誘うように、己の肉を握らせる。ほらと耳打ちすれば、驚くほどすんなりと、彼はそれを扱き始めた。
 俺の内に潜む暗い感情。血の繋がらない妹に対する、ほのかな恋慕と熱い肉欲。いい兄でありたいと願い続け、反面、ただの男として認められたかったその矛盾。
 俺の中に潜む非常識的なそれに気づいたから、認めたから俺を選び、そして実践させたとお前は語る。
 ……笑わせるな、馬鹿野郎。

◆◆◆◆◆

 正樹は蠢く指を更に増やした。内と外との指を使い器用にこじ開け、僅かにそこが口開いた瞬間を狙ってもう一本をねじ入れる。
 すると声にもならない悲鳴のような、長くか細い吐息が彼から上がった。
『いたい……いたい……』
 微かに彼の口から拒絶に近い言葉が紡がれた。
 指のべたつきがなくなり、微かといえど水音がしなくなったことに正樹は気づいた。これ以上続ければきっと痛みが先にたち、彼は怯えてしまうだろう。
 そうなれば全てが水の泡、ここまで慣らした甲斐もなくなる。せっかく二本まで入るようになったのにと、舌打ちしながら正樹はそれらを引き抜いた。ほっとしたのか、彼の身体が弛緩してゆく。
 正樹は青年の力をもって彼の身体をひっくり返した。
 獣だ、ほら獣の姿だ。
 彼によつんばいの体勢を取らせると、正樹は嬉しそうにそう囁いた。そして背後にゆっくり廻ると、天を突くほどに固く聳えた肉棒を彼の尻の割れ目に挟み沿わせる。
 びくんと、彼の肩が跳ね上がった。
 ……挿れないって。大丈夫、怖くないし、痛くもないって。
 正樹はそのまま素股のように、彼の尻肉を使い前後ろと起立を擦り始めた。彼の身体ももちろん律動に合わせ揺れている。
 熱と硬さと行為からの恐怖に、僅かに甲高い呻きが彼の口から上がってもいた。しかしそれを無視して正樹は行為を続ける、没頭する。
 時折彼の窄まりを亀頭が突付き押し上げると、正樹は快楽に彼は恐怖に、互いはそれぞれの情動をもって声を発した。
 ……俺の中にいたお前。
 俺の中のお前は幼い俺の理想だった。大人でもなく子供でもない葛藤……そんな誰しもが感じるジレンマの中に陥った先にいる、不可思議な存在だった。
 いつでも冷静で知的で、涼やかな笑顔を整った顔に載せ――しかし世界にひとつも楽しい物事など落ちてはいないというような、冷徹な視線で全てを見ていた。
 羨ましかった。俺はお前が羨ましかった。大人びているお前が羨ましかった。
 ――そうだ、お前は決して大人ではなかった。俺や同級生の皆と同じく、止められない時間の中で、加速し篭る熱を持て余す子供に過ぎなかった。
 誰もが背徳の響きに絡め取られるとは言い切れないが、心を震わせる出来事のひとつやふたつはあるだろう。だがそれを憧憬と恐れに留めおくことを、何故お前は嘘だと言い切るのか。
 獣のルールは激しく厳しい。お前は人間の心の内に獣を飼い慣らす、図書室の彼女の足元にも及ばない。悲嘆さえも悦楽と愛す、女教諭さえにも足らない。
 俺にはお前が、お前にはあの女が、その檻を壊し背を押した……それがなければ、獣の国になど行きはしなかったはずだろう。お前は結局動物に憧れる人間でしかない。お前は小さな、小さな普通の人間にしか過ぎないんだ。
『い、いっ……! ぃっ、ひ……ぃ!』
 また彼が声を上げた。正樹はまるで毛並みでも確かめるように、優しく彼の頭を撫ぜる。
 ……あの時と変わらない長さ、髪形。伸びたと感じる度に切り揃える、己の惨めさ。あの時の彼から、あの昔から、彼が自分は欲しかったのだ。
 理想として己が内に秘めたくもあり、……彼の唯一の存在にもなりたかった。
 そう……俺だってお前が好きだったんだ。だからこそ、お前は俺の日常を……俺を壊したんだろう。
 ……彼の闇に薄くとも気づきながら、それでも真っ直ぐに向けてくる慕情に、どれだけ彼は狼狽しただろうか。
 聞き分けの良い息子でなくとも鞭を振るわずとも、それでも付き従い寄り添おうと近寄る相手が、どれだけ愛しく……どれだけ奇妙に恐ろしかったことだろう。
 お前は怖かったんだ。己があの女ではない、他のものを欲するそのありように……変わる自分に。他の世界、他の考え方、他の感情に。
 ――だからこそ、お前は俺とあの、あの柔らかな少女を壊そうとしたんだ。
 愛しているのならという言葉は残酷だ。全てを受け入れられるはずだと柔らかな少女は踊らされ、望むものとは全く異なる、彼がそれしか知らないその愛の形を耐え忍び……疲れ果てた。
 ……俺の少年時代は粉と砕かれ、屈託なく笑う術も風に乗って消えてしまった。残された欠片を掻き集めて懸命に自分を形作れば、彼への憎しみ、怒り、悲しみ……そしてそれでも揺るがない好意が、身の内を占めていた。嫌いには……なれなかった。

◆◆◆◆◆

『う、う、あ……うっ……』
 彼の口から呻きが上がる。痛みと恐怖だけのものではない、ほんの少し艶が含まれたその声音。
 正樹の先端から滲み出た先走りが、僅かといえど潤滑の役目を果たしていた。そこを新たな快楽の場所と認識しつつある彼の身体は、いとも容易く導き手となるそのぬめりを受け入れる。正樹はくっと声を偲ばせ悲しく、しかし邪悪に笑んだ。
 ……お前は怖がりだ。
 お前は怖かったんだ。あの女の拠り所を、その哀れな期待を、どうしようもない虚勢を裏切ることが。愛されるために必要とされるために、……その存在を守ろうとお前は必死に頑張った。
 お前は気づいているはずだろう。本当はお前こそ、モラルのままに生きたかった。子の自分が男だと気づかされるのが嫌だった、母が女であることも知りたくなかった。
 お前は本当に怖がりだ。全てを否やと吐き出して、あの女の脆い心を壊すのが怖かった。母として、人間の有り様として良かれと思い振舞ったそのやり口を、お前は拒否することができなかった。あの女が得られなかった片翼の代わりになってまで、置いて行かれることを心の底から怖がった。
 お前はそれしか、それしか知らなかったんだ。その方法しか、知らなかったんだ。だからお前は選んだんだ、それしか知らない、その逆の選択を、方法を、手段を。母親であるという、その最後のモラルだけは壊さなかった、壊せなかったあの女と己を壊して、何もかも連れて行こうとしたんだ。
『んっ……ん、う、うっ』
 鼻にかかった声が上がり、正樹は彼の前へと手を伸ばした。触れた先は微妙な湿り気を生んでおり、またその形も変容を見せ始めている。
 手指で優しく弄びながら、正樹は腰の動きを更に早めた。彼のだらしなく開いた口から、はあっという悦楽にたゆたう吐息が零れ出でる。
 モラルの外側……妹への愛欲を見え隠れさせながら、だけれども普通の少年として健全にくだらなく過ごす俺の日常に、どれだけ彼は憧れただろう。
 彼の中で、おそらくきっと俺は理想の人間だったに違いない。自分がそうありたい、そうなりたいと願い……そして俺の理解者として、唯一の存在になりたかった、はずだ。
 ……お前は俺が好きだったんだ。
 そうでなければあんなに急いで結末を決めることはなかったはずだ。……同じクラスの近さになって、お前はどんどんと俺に惹かれてゆく自分が怖くなったんだ。
 お前は怖かっただけなんだ。自分が変わってしまうことが、あの女から遠ざかることが。……何よりモラルにまた反することが。
 ……そうだ。お前は気づいてしまったんだ、本当の、初めての恋に。
『う…………あ、あ、うっ……』
 正樹って読んでくれよ。正樹って、あの声で。
 泣きそうな声で正樹は懇願する。しかし当の彼は揺さぶられる快楽の波に揉まれたままだ。
 狂気の世界の中、僅かに残された己の居場所もこの瞬間だけは消え去っている。
 全てをあの女に捧げながら、それでも僅かに残してくれた……そして俺がもぎ取ったお前の残り。……正樹は低く唸りながら絶頂に向かった。
 なあ、正樹って、正樹って呼んでくれよ……守クン。




『……誰かは誰かのために存在している……』
『……誰かが俺を必要としている…………俺が必要とするのは、俺のことを必要としてくれる誰かだ』
『誰か、が問題ではない…………必要とされていることが重要なんだ』


「それが得られた答えなのか」
「それが、葛藤の決着なのか……精一杯の歩み寄りなのか」
「どうして……どうして分かりたがらないんだ、守クン、君は」


『…………』
『……キミは』
『キミは、僕が……俺が好きかい、正樹』





◆◆◆◆◆

 正樹はハッと目を開けた。あまりの息苦しさに、何度となく荒く短い呼気を繰り返す。
「……は、あ、あっ……う、うぅっ!」
 急いたその呼吸に、唾液を誤って気管へ吸い込んでしまったらしく、正樹は更に騒がしく咳を繰り返した。
 またその音に負けじと、心臓の鼓動が早鐘のように正樹の内で響き渡る。顔も身体もひどく緊張しており、じっとりとした嫌な汗が噴き出していた。
(……夢、か……?)
 正樹は部屋を見渡した。それはいつもと変わらない、白くそっけない一室だった。
 天井は高く寒々と正樹を見下ろし、垂れ下がる傘の中の蛍光灯は彼を嘲笑うかのように爆ぜる音を出す。額の汗を拭おうと手をかざせば、その内は紙でぞんざいに拭われた荒淫の跡が残されていた。
 正樹は息を吐いた。
 夢の中でもこの手を彼に差し伸べていた。彼を捉まえようと躍起になって手を開いた。あの彼の決意の瞬間と同じように……彼を自分のものとするために。
 ……瞬間、何も考えずに身体は動いた。
 縋りつくあの女の向こうから、彼は自分を見つめていた。その腕はだらりと下がり、彼女を抱くことはない。
 何かを訴える光を孕むその視線、突き飛ばされた自分の身体。
 ……よろけ倒れ込もうとする身体の、腕を伸ばして彼のそれを絡め取る。彼は己に引っ張られ、縋りつくといえど呆けた力は弱く、あの女はその手を離してへたり込んだ。
 その動きに彼のポケットからライターが転げ落ち……無我夢中で部屋から跳び出ると、彼を抱きこんで床に伏せた。それから後は覚えていない。
 生気の抜けたまま床にへたり込む彼女……それが記憶に残る最後の姿だ。投げ出され転がる彼女の靴。ストッキングに包まれた、意外に細く頼りない足首。けれども彼女の表情は思い出せない。
 彼女ごと何故引き寄せなかったのか。
 むろんそれは瞬間のこと、無理な体勢の中、あれが彼の精一杯の行動だったのかもしれない。いやおおよそならそれが精一杯であり、誰が話を聞いたとて、仕方ない、逆に良くやれたよと慰めよりは本意ままの言葉をかけてくるだろう。その疑問と罪悪感は常につきまとう問題とも。
 俺は彼女が憎い……憎かったんだ。
 彼女のそれに至った経緯を思えば理解も同情も全てと行かないまでもできようが、どの道彼女は元凶であり……何より彼を持って行ってしまったのだ。結果、その選択をさせた彼女が、だから憎い。
 だからこそ助けなかった、助けようとしなかった……自分はあのときから、いや初めから彼女を憎み、嫌っていたのだと正樹はそう考え……そう思い込もうともしている。
 ……彼女の存在なぞ、本当はどうでも良かったのだ。嫌い、憎いなどの気持ちも頭にはなかった。
 どうでもよかったのだ。
 己が助けたかったのは、欲しかったのは、必要としたのは、彼たった一人だけだ。
 彼女が力なく座り込む中、これからこの女はいなくなってしまうだろうと確かに思い……思っただけで、何の感動も感情もそこにはなかった。
 今もその感覚は拭い去れない。何も、ないのだ。
 それをふと感じる度に、自分はもうひとでないのだと、正樹は苦く己を思う。
 ……だからこそそれが精一杯の、そしてささやかな彼の償いでもあった。あれらを仕方ないとは考えない、己は望んで彼女を『殺した』……自分は逆恨みも甚だしい悪人なのだと、せめて。
 掛け間違えたボタンのままに、彼岸に逝ってしまった彼女と彼の半分。遺された半分は思い切り抱きしめるには脆過ぎる。正樹は呻いた。
 彼の決意をいわば台無しにした自分へ、今の彼のあの姿がせめてもの温情であり、贖罪でもあり――愛の形なのかもしれない。彼女を愛したその形ままに。
「好きだよ……」
 ……彼はその形でしか愛を表現できない……それしか知らないのだ。いたぶられ痛めつけられることを望む女性達を、満足させてあげる主人のように。サディストとマゾヒスト、スレイブとマスター。愛されたい、必要とされたい一心で彼は求められた役割に、加虐行為に走る。
 図書室の娘や傷を潜め持つ看護師が、彼を一時とはいえ己が『主人』と認めたのは、いびつながらもそうして懸命に彼なりの好意の表現をしていることに気づいたからだろう。あの女は分からなかったというのに。
 痛むこめかみを撫で擦り、正樹は眼を閉じた。
 あの看護師とあの女……求めても『もし』しか得られなかった彼女たちの、あまりにも物悲しい自己防衛。それは似た傷を持つ者たちにとっては救いの手ともなったようだが。……傷の舐め合いともいうものかもしれない。
 ……それでも彼女らはそうでない愛を知っている。彼とは違って。
「好きだよ」
 正樹は再度呟いた。むろん返事を返す者はいない。
 ……彼はこの気持ちが分からないのだろうか。今も分からないままなのだろうか。
 正樹は薄く笑った。
 己にも『もし』がある。『もし』あの断片的な会話の中、彼が真に望んでいたことを指摘していたら。『もし』モラルと様々な重みの狭間に悩んでいる彼を、ただただ抱きしめていたら。
 ――何より『もし』、あの底冷えのする放課後、誰もいない教室で彼を押し倒していたら。
 だけれども。だけれども、もう全ては遅い――過ぎたことなのだ。もう何もかも取り返しはつかない。
 ……日常を砕いても、俺のモラルは壊されなかった。お前は最後の最後で、俺のモラルを壊していった……お前の壊した心の半分で。
 正樹は僅かに泣いた。
 それでも、少しずつでも……分かってもらえればいい。彼にも分かるように、彼の境界線に合わせながら、僅かずつでも。……それでやってゆくしかないのだ。
 他の誰がああなっても、これほど傍にありたいとは思わないだろう。彼だからこそ……彼だからこそ。
「好きだよ……好きだよ、守。昔のキミも、今のキミも、これからのキミも」
 彼だからこそ。
 そうして正樹はまた少し泣いた。
 いや、この自分にこそ、分からないことがあろうということを……分かるときが来るのだろうか。



(Fin.)