とこしえのくにへ 前編
何かが割れる音がした。 彼女から怯えるような悲鳴が上がる。その声がやたらに耳障りに感じられて、彼はまた腕を振るった。更に何かが大きな音を立てて壊れていく。 語気を強めて乱暴に語れば、震えて媚びる声が返される。あやすような機嫌取りの声色に、彼はますますその顔をひどく歪めた。 もう何もかもが必要なかった。 ……何かがまた、割れる音がする。 賢しらぶった自分、意味のない嫉妬、訳の分からない怒り。 ほんの少し腕を振るだけで、面白いほど簡単に『彼』は砕け散った。元からどうせ亀裂が入っていたのだ。そんながらくたを大事に抱え持って、本当の『僕』は一体どこに行こうとしてたのだろう。 居場所のない日常、消せない笑い声、汚せないモラル……壊せない世界、壊れない世界。虚構にしたかった現実は、崩れていく自分を嘲笑っている。 いちいち悩んでくだくだ唸って……そんなものが獣になれるはずもなかった。それこそただのちっぽけな人間にしか過ぎない。結局、他の何よりも誰よりも、自分が先ず『ヒト』だっただけだ。柔らかく脆い心をもつ、ただの少年だっただけ。ぼろぼろの心を、自分で壊している子供だっただけ。 だから、だからもう……もう何もかもが必要なかった。 ……言葉を搾り出すたび、皆全てが砕けて粉になっていくのを『僕』は感じていた。これまで積み重ね、築き上げてきた何もかもが、全部すべて、今までのすべてがなくなっていく。 ……ああ、何て気持ちいいんだろう。 内に閉じ込められるこの窮屈さに、いつ耐えられないと感じたのだろう。それを獣を閉じ込める、モラルの檻とでも間違えてしまったのか。 絡みつく鎖は『彼』を逃しはしない。彼女の鎖――――彼女の日常、彼女のモラル、彼女の慈愛。粘り外すことのできないそれが、世界の全てではないと……気づいたのは一体いつだったのだろう。 身の丈が育つように、心の丈も大きく広く、高く伸び上がっていくものだ。幼い子供の幼い世界の理論では、到底覆い尽くすことはできない――それは、やがてぱちんと弾けて穴も開く。 ああ……会いたい。 とある少年の笑顔を思い出して、『僕』はほんの少し心を温かくした。その穴が、空虚が、寂しさと悲しさだということに気づいた日、自分はその少年に出会ったのだ。 壊し残された自分という欠片の中、懸命に己を見直せば……何もかもに彼がきらきらと散りばめられていた。輝く彼だけが、今の『僕』を支えている――彼のいない思い出は暗く沈んで瞬きもしない。 ……ああ、こんなにも、こんなにも……彼が好きだった。 室内に、また甲高い金切り声が響き渡る。 幼かった頃はこれが悲しくてこれが辛くてこれが嫌で……出掛かった反論の言葉を何べん飲み込んだことか。『彼』は遠い世界を見ているような気持ちでそれを思い出した。 彼女、彼女、俺の彼女――――僕の母親。 どれだけ彼女が善行と思い施す仕打ちに、苛立ちや怒りや悲しみを感じたことだろう。だけれどもそれでも揺るがない好意が、憎しみの内を占めていた。……どうしても彼女を、嫌いにはなれなかった。 どうしても。 だから愛しているのだと……彼女こそ特別なひとなのだと思っていた。……彼に、出会うまでは。 何かが割れる音がした。 ……苛立ち昂ぶり、荒げる声がまるで自分のものではないように、もやのかかった耳に響き届いた。 ああ、一体これは誰なんだろう。 何故こんなことをしているのだろう――ここまでして彼女を愛していたはずの自分は、一体どこへ行ったのだろう。『僕』もどこへ行こうとしているのだろう。 ああ、もう……もう嫌だ。もう嫌だ、もう……こんなこと、嫌なんだ。 狂気の増す時間の中、これまでの思いの丈を吐き出し崩れゆく『彼』を感じながら、もう半分の『僕』はそう心で叫んでいた。 取り戻したい、やり直したい……もう一度、もう一度……もっと別の世界を、もう一度、彼と僕で。僕らで。もういちど、ぼくらで。 だけれども。だけれども、もう全ては遅い――過ぎたことなのだ。もう何もかも取り返しはつかない。 ……けれど、けれど。 『僕』は息を飲んだ。 僕は貴女のものじゃない。僕は貴女のものじゃない。 だけれど貴女の子供で、貴女の男でありたかった僕を……過去の僕を、今更ながら貴女にあげるよ。だいたい僕の半分さ。 ……そして『彼』はポケットのライターをまさぐった。驚愕に固まる少年の瞳をはっきりと『僕』が捕らえたまま。 けれど……けれど僕はこれしか知らない。だから僕はこれしかできない。けれど彼なら、キミなら僕の本当の心を解ってくれる――――解ってくれる―― 「正樹……」
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薄暗い室内の中、生白い肢体が魅惑的な稜線を描き見せている。ぐい、と引き寄せれば、シーツの波も美しい影を生んだ。 「ふぅ……っ」 無理を強いた体勢に、だが肢体の持ち主から甘い吐息が漏れ出た。何をされるか、容易に分かるこれに期待したのだろう。 正樹はまじまじとそれを見た。 鮮やかな色彩を失った闇の中で、それでも浮かび上がる女の肌の色は白く形を作り……まるでそれだけが目の前の自分に捧げられているようにも見える。 丸く、ふたつに割れた柔らかな肉の塊。その内には大人の女の股座が、大きな顔をして鎮座していた。 それしかなければいいのにと、正樹は内心で苦笑した。抱き締める腕も、絡みつく脚も、揺れる乳房も、喜悦に緩む顔もいらない。ただ尻だけでいい。尻があればそれでいい。 欲望だけを取り分けて、精を放つ際にだけ使えればいい。情も記憶も日常も何もかも、今はいらない――そうできたら、その方がどれだけ、彼女も自分も……気が楽になるだろうか。 「あっ……」 ……剛毛とは言えまいが、最近は手入れのされてないと思える草むらの中、指に吸い付くような柔らかな肉を広げてみれば、目にも鮮やかな女の中心が姿を現した。 自分で広げるよう提言すると、緩く抵抗しながらも易々とそれに従った。……黒く色づく肉びらの端を、白い指が引っ張り伸ばせば、赤い蜜壷がきらりと光る。陰核もてらてらと艶を生み、快楽の刺激を待ち望んで打ち震えているようにも思えた。 ……正樹はまじまじとそれ、を見た。 己を迎え入れる準備も出来つつある場所よりも、その少し下方にある、濃く色づく、それ。 柔らかい窪みは影を食い、薄闇でもその姿を隠している。ほのかな光でも捉え、欲情を惹きつける色彩を放つ女陰とは大違いだ。それだのに何故ここに囚われてしまうのか。正樹は乾いた唇を舐めた。 ああ……会いたい。 彼女のそれではないが、……自分はここの感触はよく知っている。ここを触ればどういう風な態度を示すのか、ここを弄ればどういう反応が返ってくるのか、ここを舐めればどんな声をあげるのか……。 正樹はたまらず、そこに舌を這わせた。 「えっ……! お願い、ま、待って……!!」 尻が慌てて言葉を紡ぐ。 ……どうでもいい。正樹は更に唾液をそこへ塗り込めた。筒に丸めた舌先で、皺のひとつひとつを確かめるように嬲り進める。円状にぐるりと囲んだそれらを外側から中心へと、唾液を集めながら舐めていく。たまに触れる陰毛の感触も面白い。ほんの少し固めで太いそれに触れると、何故か自然に笑みが出た――楽しくて仕方がなかった。 「あ、嫌、嫌、やっ……!!」 にちにちっと、窄んだ穴が喜びを歌った。 それに正樹はふっと我に返った。いつもの……自分が知るものとは違う反応だ。もう解れかかっている――味見も済んでおらず、ただ存在を舌で確かめただけの、前戯の前戯だというのに。 ……女はすでに指で広げてはいない。やめて欲しいとも恥辱に耐えられないとも、それよりは悦楽に興が増す自分を暗闇に隠すために、その顔を両の手で塞ぎ隠している。正樹は仕方ないとばかりに息を吐くと、揺れてもがく両の尻たぶを男の力で押さえつけた。 そうして伸ばした親指で尻穴を広げ――そこだけを見つめた。 元から濃く色づいた場所が、この薄闇で陰をはらんでいる。まして覗けるほどには、さすがに緩く解けてはいない。正樹の瞳に映るものは、窪んだそれが微かに蠢く陰だけだ。引き締められてはやがて弛緩する……息を吹きかければ、途端に身を竦めるかのように、きゅっと姿を消そうとする、それ。 けれどもこのすぼめられた小さな出口が、今は闇に紛れ息を潜めるそれが、色濃いそれが――入り口が、やがては鮮やかな、生々しい粘膜に変わっていくのだ。桃色にしては淫靡で、赤色にしては甘やかな……おそらくそれを肉欲の色というのだろう。蹂躙し喰らい尽くしたくなるその色が、肉々しくぬめる箇所が、熱く自分の分身を包み込むことを想像すれば――それだけで正樹は充分に果たされた気持ちになった。 もちろんその相手は――彼でしかない。 ……実際はそこまで覗き見るような無体もしたことがなければ、彼のその領域の中へ己を進めたことなど一度もない。全部が全部、想像と妄想の世界でしかない。何もかもが嘘の世界……虚構の世界。 正樹はそこまで思うと、目の前の穴に意識を戻した。 これが彼だったらいいのに。 ああ……彼だったら、彼だったらどんなにか。ああ、会いたい、会いたい。彼と会いたい。会って……会って……。 正樹はそのままゆっくりと、その口にくちづけた。小さな口に合うように己のそれも軽く窄めて、触れるだけのキスを数回繰り返すと、耐え切れずに――それでも優しくそっと、『彼』の『唇』を食んだ。 「きゃ……」 あ、あ、あ、と尻が喘いだ。 柔らかなそれを唇で食み、薄い皮をそっと引き伸ばす。やめてと言いたげな動きにそそられて、口の全てを一息に、歯を立てながら甘く咬んでやった。痛みと切なさにぴくぴく震える唇が愛しくて、有無を言わさず突き入れた舌で、口の中を様々に散々に嘗め尽くす。舌の伸ばせる限界までを突き入れて、食いついてくる口の中の感触も匂いも味わいもべろべろと楽しみながら、素早く引き抜き、また入れるを、何回もしつこくしつこく繰り返した。 舌と唇が触れる襞の柔らかさ、滑らかさ。何より口内の温かさに、正樹はまた思いを馳せた。唾液が、唾が、己の体液が彼の体液と交じり合い絡み合い、粘液のままに彼の体内にねとねととへばりつく。やがて彼の艶めかしい肉の壁から取り込まれ、いずれは彼の血肉となる。自分が、彼のものになる――彼とひとつになる。その思いに、正樹はゾクゾクと背筋を震わせた。 以前に無理矢理上の口から飲ませた精液は、結局彼は飲み下すことができなかった。口いっぱいに溜め込み、宥めてもすかしても怒っても脅しても、彼は頑なに飲み込もうとはしなかった。……ひとつになりたかったのにと、我慢できず口から吐き出した彼を抱えて、気が狂ったように泣いたことを正樹は思い出した。 キミとひとつになりたいんだ。キミとひとつになりたいんだ。キミがひとつに足らないのなら、俺がその分をあげるから。だからだからキミとひとつになりたいよ。 今から思えば、正直あのときの自分はどうにかしていたのだ。……けれど、あのときの自分が今の己を見たら、おそらくは同じことを思うだろう。昔も今もたぶんこれからも、自分はきっとどうにかしている。 「……ああぁぁっ……!」 穴から舌を引き上げると、ひときわ大きな声が上がった。暗い中でよくよく見れば、彼女はその顔を涙で濡らしていた。……それは多分おそらく、彼女の身体に染み付いた肉欲に火がついた証明だろうと正樹は感じた。 先ほどまで嬲っていたこの舌で、彼女のその頬に残る涙の跡筋を辿ってやろうかと思ったものの、結局はその妄想と想像の尻馬に乗った肉欲を、正樹は己の口内へと引っ込めた。拭いもしない。その躊躇いもない様子に、逆に彼女の肩が大きく揺れる。何を動揺しているのやらと、正樹はいささか滑稽に彼女を感じ見た。 ……彼女の味。 初めの内にこそ、おそらくは簡単に指一本の中ほどまで洗浄したのだろう無味に近い水の味と、ほのかに残る石鹸の香りがしていた。今はもう己自身の唾液の匂いと味しかしていない――はずだ。彼女ならば、まあ当然のことだろう――同衾にあれほど焦りを見せたにも関わらず、冷静なものだ――いや、それもまた彼女の計算なのかもしれない、そう正樹は思い直した。何もかもを己の快楽に。激しい獣に、ただただちっぽけで哀れな人間は怯えるばかりだ……その手に鞭を持ちながらと、軽く正樹から笑いが漏れる。しかし正樹の気持ちの半分は、彼女のその用意の良いことに残念な思いを訴えてもいた。 穴の臭いと味がしたならば、そら見たことかとひどく彼女を罵り興奮させて楽しめたのに――いや、いやそれもあるけれどもだからこそ……と正樹は眉を寄せた。そら見たことかと自分を罵れたのに。彼の代わりと理由をつけて、結局彼女と事に及んでいる、この現実を。 現実。その言葉が正樹に重く圧し掛かる。 「………………」 ……すんと、鼻から吸った息が音を立てた。鼻の頭から伝わった彼女の愛液が、その穴に滑り込んだようだ。口で舌で彼女の尻穴を弄りながら、己の鼻先は緩く開いた花弁の中心を捕らえていた。この独特の芳香、そして味――と、正樹は鼻の頭に絡む粘液を、そっと指の腹で拭い……舌先に迎え入れた。 もうすっかり華は開いている。 駄目だ、駄目だ、駄目だ。 あれだけ執拗に嬲った『彼』の入り口は、それでもまだ自分を迎え入れようとはしていない、してはくれない。それなのに、彼女の入り口はどうだろう――その腕は精一杯に広がり、溢れる愛で自分を待っている。その愛が嘘でも、虚構でも――それでも迎えられる、受け入れられることが、望んでも得られない者にとっては、どれだけ嬉しいものか。 駄目だ、駄目だ、駄目だ。そう思いながらも肉棒の角度が跳ね上がる。 駄目だ、駄目だ、駄目だ。 「……あ、あの」 「…………」 震える――尻ではない――女性の声に、彼はようやく全ての自分を取り戻した。……尻しかなかったあれだけ暗い世界はどこへ行ったのか。尻はもう語りはしない。『彼』も、もうどこにもいない。 「も、もう…………その、お願いよ……お願いだから」 いるのは、身勝手な愛撫に翻弄された女がひとり。彼女はしゃくりあげながら、何とか言葉を紡ぎだした。 愛が嘘と虚構でも、しかし現実はここにある。 「お願いだから――峰山くん…………挿れて……」 ……正樹の想像と妄想の――嘘と虚構の世界が現実に負けていく。欲望は媚肉を求めて猛り狂っている。 これが、現実だった。 「…………」 ……正樹は息を吐いた。 ああ、彼に会いたい。
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正樹は息を吐いた。 ……ああ、彼に会いたい。 あの時にペットボトルの一本でも買っておけば良かったと、今更ながらの後悔がまたしても頭を過ぎる。喉の渇きに応えるような自販機の類も見当たらず、正樹は仕方なくぬめる唾を飲み込んだ。 しょっぱなからこれだ。 これから始まる数週間の出張生活の、その出鼻を挫かれた気分で、正樹は大きく溜息を吐いた。出張を好まない己が、しかも週末を含んだ数週間もの期間と来る……ぐっと堪えて出かけた先で、こんな目に遭えば気もそげるというものだ。 彼に会えなくなってしまう。週末にも帰れそうもないのだ……それがそれだけが、唯一で大きな、正樹の不満だ。第一、ここは彼のいる場所とは遠くて、何かあってもすぐには駆けつけられそうもない。 「…………」 そこまで考えて、正樹は己を暗く笑った。……彼は今、命の灯火が潰えるような、そんな病にはかかってはいない。彼のいる場所は病院なのだ……駆けつけるような事態には陥るのならば、それしか理由がないだろう。 それとも何か他にあるのか。……それこそ愚の骨頂だと正樹は自嘲した。例えば、彼が名前を呼んで自分を恋しがったとか――正気に戻った、とか。 ――あり得ない。 正樹は眉を寄せてこめかみの痛みに耐えた。 どうしてこんなことを考えてしまうのだろう、と正樹は手の甲で額の汗を拭い捨てる。やはり、この暑さと……このひどく静かで、ひどく白いこの場所がいけないのだろう。 まるで物言えぬ患者の集う……彼がいるところのようだ。 仕事でなければ、このようなところには来なかっただろう。我慢ならずに脱いだ背広を鞄にかけ、正樹はシャツの襟元をぐいと緩める。 真昼のアーケード商店街、いやシャッター街といえば、そこがどんな場所かが誰にでも分かるというものだ。無機質なシャッターの連なりの長さは、往年の賑わいを皮肉にも証明している。真っ直ぐに商店街を抜ける出口は、まるで果ての向こうにあるかのようだ。 とはいえ屋根の天窓から差し込む陽の光のお陰か、こうたらしめた世相の世知辛さと切なさは、今に限って言えばさして感じられない。白を基調にした歩道のタイルも光に映え、あわせていっそ清々しいまでの静寂がそこにはあった。 しかしそれだからといって、これが良いものとは限らない。 今日この日は風がない。通り抜けるそれもなく、閉じられた天窓はただひたすらに明るさと熱さを天上から降り注ぐ。開いた店すらなければ人の囁き声もなく、緩やかな上り道が更に正樹の体力も、気力も奪ってゆく。 それでもしかし歩まねばこの終わりはない。 死への行軍に近い――――病院のイメージとあいまって、それこそ縁起でもないと、正樹は頭を振りつつハンカチで汗を拭った。 ……この道はどうにも人の心を波立たせる。初めは苦笑、次には怒り、また次には諦めにも似た何か。何かの苦行に臨んでいるような、奇妙に偏った喜びも生まれ始めていた。 正樹は立ち止まった。本来はそういうものでもないのだろうが、しかし今のこの道とこの状況は、とあるイメージを思い出させる。こんな熱さと辛さを引き摺りながら、それでも白く照らされた美しくも酷い道を、一心にと歩む姿。それがどんな代物なのか、ようやっと正樹は一言で表せる単語を思い出した。 これはまるで……。 「……峰山、くん?」 正樹の気づかなかった横手の小道から、一人の女性が飛び出してきた。不意に呼ばれた名前に……いや懐かしくも忘れたい声に、正樹は思わずそちらの方へと振り返る。 「…………」 ……記憶の彼方のその昔、彼女の波打つロングヘアは柔らかくひとつに纏められていた。まだまだ駆け出しといった歴ながらも仕事への覇気は高く、はつらつと明るく優しく厳しい女性だった。そのまさに大人への旬といった肢体は、かしこまったスーツの上からも強く匂い立っていた。 ……過去が、現在にやってくる。ぞろっと立った鳥肌に、正樹は飲み込まれた。 「……あの……あなた、峰山正樹君、じゃない?」 ……今ではその髪もかなり短く切り整えられている。落ち着いた衣服に閉じ込められているのは熟れに熟れた、熟れ落ち腐りそうな肉体だ……垣間見える首筋と鎖骨あたりの肌には、男の正樹にも分かるほどに弾力が見て取れない。そしてあれだけ未来への展望で輝いていた顔は、背徳に打ち震える悦楽にとうとう飲まれたのか、複雑な艶と底なしの倦怠感を載せている。少なくとも、あの頃よりは幸せではないといった容貌。この過去の亡霊……彼女を無視できなかったのはおそらくはそのせいだろう。正樹はぎこちなく唇を動かした。 「亜子先生……」
(後編へ)
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