「彼が、伊勢 章太郎(いせ しょうたろう)くんだ。伊勢物産の跡取りで、現在26歳の若手最有望株、仕事はこなすし、誠実だ、申し分のない男だよ」
「初めまして、伊勢といいます。百合絵さんのお噂は、かねがねお聞きしています」
そう言って、挨拶をした男性が、私の将来の旦那様になる人物のようだった。
小麦色に灼けた肌は健康そのものといった雰囲気で、精悍な顔つきに真っ直ぐな瞳は、確かに誠実そうで、父の言うとおり。
父は湯河財閥の頂点に立つ人間、人物眼も鋭くて有名だ。
その父が勧める人物に何の間違いがあるだろうか。
「百合絵と申します、私も、伊勢さんのお噂は父からよく聞いています。とても信頼出来る人間だって」
照れたようにはにかみ、けれど、彼女を見つめる瞳はどこか力強く感じる。
百合絵は、かえって自分のような人間が、彼のような人間の妻になっても良いものか不安だった。
結婚した後、自分は彼を支える人間になれるだろうか、と・・・
けれど、この話を拒否する気など毛頭ない。
私には、選ぶ権利などありはしないのだから───
▽ ▽ ▽ ▽
胸をちくりと指すような痛み。
それは、急激に広がり、呼吸もままならないほどの激痛になっていく。
「お嬢様っ!! 大変、誰か、誰かっ、来てちょうだい! お嬢様がまた発作をっ」
廊下の端でうずくまるようにしていた百合絵に気づいた使用人の女性が大声で助けを呼ぶ。
彼女は、使用人頭で、名をフミと言った。
わらわらと人が集まり、百合絵を自室へと運び込み、苦しそうな彼女の背中を、祈るような気持ちでさする。
暫くして一通り発作も収まり、苦しそうな顔から元の穏やかな表情に戻った百合絵を見て、フミは安堵の溜息を漏らした。
「そうです、いつも笑っていてくれると、フミは安心です。お嬢様の笑顔はフミの活力の源ですからね。・・・それにしても、最近発作が多くてイヤですよ。・・・もう一度、検査に行かれた方がよろしいんじゃないですか?」
百合絵の発作は、今に始まったことではない。
ただ、今の彼女の心の不安、それが自然と頻繁な発作へと繋げてしまっているのかもしれない。
「そんなのこの前行ったばかりじゃない。一日がかりで検査なんだもの、そのほうが発作が起きてしまいそうだわ。それに、病院に行けばそれしか知らないみたいに入院入院って、私はここにいる方がずっと体調がいいのにね」
おどけて言う百合絵にフミは苦笑した。
確かに、医者は百合絵が病院に運ばれるたびに入院を勧める。
けれど、家にいるときの彼女の方が数段表情がよく、血色も良かった。軽い発作なら、フミや家族の人間が彼女の背中をさすっているうちに不思議と収まっていくのも事実なのだ。
フミは、この話題はとりあえず終わりにしようと、百合絵の布団をキレイに掛け直した。
「伊勢様でしたっけ? いい青年じゃありませんか。笑顔がキレイなのがいいです。フミはああ言う御方は大好きですよ」
「あら、フミの言うことなら確かね。それなら安心してお嫁に行けるわ」
にこりと笑う百合絵にフミはにんまりと頷いた。
その後も、フミの世間話は続き、百合絵の部屋からは、楽しそうな笑い声が絶えなかったという。
▽ ▽ ▽ ▽
「百合絵ちゃん、問題解けた?」
ぼうっとしていると、低くてよく通る声が百合絵を現実に引き戻した。
結婚の事が頭から離れない。
自分は果たしてちゃんと妻になれるだろうか?
そう思うと、伊勢に申し訳ない気持ちでいっぱいになって他のことに集中できないのだ。
「あ、はい。出来ました」
問題集ごと、家庭教師の緋色 薫(ひいろ かおる)に渡し、彼の採点を待つ。
彼は、姉の亜利沙(ありさ)の幼なじみだ。
姉は現在19歳で大学生、彼は24歳の社会人。二人が恋人同士である、というのは本人達が言うまでもないことだった。
薫は、亜利沙の妹である百合絵にも優しく接してくれた。
既に社会人の彼は、身体が弱く、学校を休みがちな百合絵の為に勉強の面倒をかってでてくれた心優しい青年だ。
仕事帰りに毎日のように湯河家に寄って、百合絵の勉強をこうして見ている。
百合絵は、優しく微笑む薫の笑顔が好きだった。
サラサラとペンを走らせ、真面目な顔で採点しているときの、彼の前髪がゆらゆら動き、それを見ているのが楽しかった。
「百合絵ちゃんさ、結婚するって本当?」
ついでのような聞き方。
だが、彼の目は問題集など目にしてはいない。
「ええ、父の紹介で。私が高校を卒業したら式を挙げるらしいです」
「その男が、好きなの?」
「え?」
真っ直ぐに自分を見つめる薫の瞳。
その中に讃える強い光は、時々目にすることがあったが、それが何なのかは分からなかった。
「好きで、結婚するの?」
「・・・それは・・・」
そんなことは考えたこともなかった。
百合絵にとって、結婚というものに好きか嫌いかの観点は置いていない。
結婚して、毎日顔を合わせていくうちに自然とそう言う気持ちが生まれてくるものだと思っていたから。
「いずれ、好きになっていくんだと思います」
彼女の答えに、信じられないといった表情になり、薫は立ち上がり、百合絵の手首を掴んだ。
あまりの細さに一瞬驚いた顔をしたが、直ぐに辛そうに眉をひそめた。
「あの、問題は・・・」
「そんなものはどうでもいいっ! 君は、全然わかってないっ、そんな適当な気持ちで結婚するのなら俺は諦めない」
「? 薫さん?」
「俺と結婚して欲しい」
「・・・・・・・・・え?」
彼は何を?
・・・結婚?
それは、私と・・・?
「俺は、ずっと君が好きだった」
「・・・姉のことは・・・・・・」
「亜利沙は単なる幼なじみだよ。それ以上の感情を持ったことはない。俺は、ずっと君を見てきたんだ・・・ずっと前から」
「薫さん・・・」
驚きのあまりそれ以上の言葉が見つからない。
彼が、私を好き?
考えたこともなかった。
勿論自分も薫のことは好きだが、種類が違うような気がする。
そもそも、百合絵は恋をしたことがない。
姉が薫の事を自分に話す姿は、普段の彼女よりも数段美しく、恋とは、女性を美しくするものなのだと、まるで他人事のように見てきた世界。
なのに・・・・・・
「結婚してくれ」
そう言って近づく薫の顔。
こんなに間近で人の顔を見ることなど、滅多にないかもしれない。
ぼんやりとそんな思いに捕らわれ、彼が何をしようとしているのか認識をする前に、薫の唇は百合絵のそれに重なっていた。
暫く温かくやわらかい感触を唇に感じ、やがてそれが離れると、今度は上半身がふわりと包まれる。
「百合絵ちゃん、ずっとこうしたかった」
耳元で聞こえる声を、どこか遠くの方で喋っているような錯覚に陥り、百合絵はただそれを受け流していた───
「なにやってるのっ!?」
そんな声が聞こえてきたのは、薫がもう一度百合絵にキスをしようとしたときだった。
声の方角には、姉の亜利沙がわなわなと震えながら、怒りを露わにしている姿。
百合絵は、その時になって自分が何をしていたのか、ようやく理解し始めた。
「これは・・・一体どういうこと!? 薫っ、あなた百合絵に何をしていたの!?」
「結婚の申し込みをしていたところだ。おいおい、そんなに恐い顔をするなよ、美人が台無しだ」
苦笑しながら発した薫の言葉によって、一気に顔が紅潮して、亜利沙の美しい顔が歪んだ。
苛烈な瞳は、薫だけではなく、百合絵までも射抜くような鋭さで、彼女の激しい胸の内を全身で現している。
こんな姉の姿を初めて見た百合絵は、彼女の様子を体中が震え上がるような気持ちで見ていた。
優しい大好きな姉。
なのに、こんなにも怒るなんて・・・
「薫、何を血迷っているの!? 百合絵にはもう決まった男性がいるわ。なのに、そんな後先考えないような行動、私は絶対に赦さない!! 百合絵も・・・・・・っ、私の気持ちを知りながら・・・こんな・・・っ」
一途に激しく薫を想う亜利沙の心。
自分は誰かをそんな風に思ったことがない。恋すらも知らない自分が思えるわけもない。
なのに、私は今何をした?
姉の想い人をかすめ取るような行動ではなかったか?
抵抗しなかったということは、何の言い訳も許されないのだ。
自責の念は時既に遅く、亜利沙の瞳からは大粒の涙と共に、自分への信頼も愛情も何もかも粉々に流し去っているかのように、百合絵には思えた。
第2話へ続く
Copyright 2003 桜井さくや. All rights reserved. Never reproduce or republicate without written permission.