目を開けると白い天井が広がって、妙に納得してしまう。
ここが病院だと言うことを理解したからだった。
体には点滴の管が巻き付けられ、その様子をぼうっと眺めていると自分を呼ぶ声が聞こえた。
「百合絵先生! 目が覚めた!?」
「・・・・・・」
声の主に視線をずらすと、心配そうな優吾が彼女の手を握りながら話しかけている。
百合絵は、自分がまだ生きているという現実に全てを呪いたくなった。
「・・・・・・なぜ、生きているの・・・?」
「何言っているの!? 生きている方がいいに決まってるじゃないっ!!」
だが、優吾の言葉は彼女の心に届かなかった。
彼は辛そうに顔を歪め、必死で涙を堪えて彼女を励ました。
自分だって親友を失っているのだ。泣きたくて、叫びたくて仕方がないはずなのに。
けれど、焦点の定まらないような瞳の百合絵を見て、優吾は小さく息を吐き出し、静かな、けれど心に良く響く声で彼女に語りかけた。
「・・・・・・・・僕、由比に前、聞いたことがあって・・・・・・」
百合絵は、由比、と言う言葉に反応して、ビクリと震えた。
「彼女が出来たって・・・嬉しそうに話して・・・・・・誰かは結局教えてもらえなかったんだけど・・・・・・由比、スゴク幸せそうで・・・あんな風に由比を笑わすことが出来るんだから、きっと素敵な人なんだって・・・ずっと、思ってた・・・・・」
「・・・・・・・・・」
「それで・・・・・・・・・由比が・・・逝く寸前・・・声にはならなかったんだけどね・・・・・・・・・『ユリエ』って・・・・・・言った気が、して・・・・・・」
優吾は、百合絵の目を真っ直ぐに見つめたまま、泣き笑いのような表情を浮かべた。
「百合絵先生、だったんだね」
優吾には確信があった。
例え百合絵が頷かなくても、それは絶対にそうなのだという確信を持っていた。
彼以外には決して心を開かなかった由比が、百合絵の前では目を見て話し、笑いかけ、時折頬を染めることすらあったこと。
それを見たときは、ちょっとした疑問でしかなかったが、今ならわかる。
由比の事を聞いて、発作を起こし倒れた彼女。
学校では、日向くんと名字で呼んでいたのに、優吾が部屋の前で待っていたら、由比と呼んで駆け寄ってきた。
つまり、由比が彼女のアパートまで行くほど、二人の関係は進んでいたと言うことだろう。
由比が最期に呼びかけた相手は彼女だったのだ。
百合絵は、唇を小刻みに揺らしながら、小さく頷いた。
「・・・・・・そっか・・・」
そう、由比を愛してた
多恵さんを愛してた
かけがえのない二人だったの・・・・・・
絶対になくしたくない存在だった
「由比は・・・・・・こうなることを、知ってたの・・・?」
消え入りそうな声で発した百合絵の言葉に、優吾は悲しそうな瞳でこたえた。
百合絵はその表情ひとつで、全てを理解しなければならなかった。
由比は・・・知ってた
こうなることを、
いつか、近い将来自分が消えてしまうことを・・・
それで、あの日、無理にでも思いを遂げようとしたの?
由比には時間がなかったから・・・?
こんなに、あなたを好きになってしまった私を置いて・・・・・・?
目の前が霞むほど涙を流し、だが目の前に広がる絶望には為すすべがない。
本当に、死んでしまえば良かったのに。
どうして生き残っているの?
自分には一欠片の希望も見あたらない。
なのに・・・
「・・・・・・大丈夫、大丈夫だよ、百合絵先生。僕がずっとついててあげるからね、一人なんかじゃないんだよ。生きてる方がずっといい。ほら、僕の手あったかいでしょう? これが生きてるってことなんだよ」
あまりにも彼が優しい顔をみせるものだから・・・
あまりにも、優しく手を握ってくれているものだから・・・・・・
あまりにも、その手が温かくて───
そんなわけはないのに、
彼に出来る筈などないのに、
全てを包んでくれそうな、そんな微笑みを、たった17歳の男の子にさせている。
自分がこんなにも弱いから・・・彼にこんな顔をさせている。
それはわかってる。
だけど、なにかに縋り付いていないと、足下から崩れていって、とてもじゃないけれど正気を保つことなんて出来なかった・・・
▽ ▽ ▽ ▽
百合絵が発作で入院している間に、多恵の葬儀も由比の葬儀も全て終わっていた。
だからといって彼らの死を実感できるようなものではなかったが、多恵が百合絵を受取人とした保険に加入していたり、土地や建物の名義も彼女のものにしていたことで、それらのことが現実味をもって百合絵に知らせているかのようだった。
百合絵はそれを欲しいとも思わなかったが、多恵の残した気持ちを無駄にしたくなかったので、受け取ることを決めた。
しかし、その事が不服な多恵の親戚連中は、相続を放棄するよう言ってきたが、法律的には彼女が受け取ることに何の問題もなかった。
その時、協力してくれたのは優吾だった。
彼の家は有名な資産家で、数年後には東京に本社ビルを建てる計画も持ち上がっているほどの上場企業だ。
百合絵が法律のことなどよく分からなくて困っていると、彼が法律関係者を紹介してくれて、色々と間に立って解決してくれた。
普段にこにこと穏やかな笑みを讃えている彼の意外な一面に、驚きの連続だった。
結局、入院したままで、殆ど全ての事を片づけられたのは優吾のおかげだった。
「妊娠?」
「そう、妊娠だって。先生のお腹、赤ちゃんいるんだよ?」
発作を起こしてから、少しして告げられた優吾の言葉は、青天の霹靂だった。
自分のお腹の中に、赤ちゃんがいる。
それは、間違いなく由比の・・・・
「・・・本当に・・・?」
「ん、まだ二ヶ月目だって。ホントはねぇ、倒れたときに分かってたんだけど、もっと落ち着いてからちゃんと言おうと思って」
百合絵は、自分のお腹を触ってみた。
まだとてもその事が実感できる筈もなかったが、この中に彼の子がいるのだ、と思うと存在を確かめずにいられなかった。
「・・・赤ちゃん・・・・・・」
一縷の望み。
それに賭けることすら許されないだろうか?
私が子供を産むことは許されないだろうか?
だが、
医者から返された言葉は、そんな考えなど簡単に打ち砕いてしまうようなものだった。
「医者の目から言わせていただきますと、賛成できません」
「・・・・・・」
「このような体で、出産時にもしも発作が起こった場合、母体だけではなく、胎児にも影響を及ぼします。それは、つまり母子共に非常に危険な状態になるということです」
「けれど、絶対に不可能なものなのですか、1%も?」
「・・・それは・・・勿論母子共に無事なこともあるでしょうが・・・」
「私、産みたいんです。絶対この子をこの世に誕生させたいんですっ! お願いします、先生、産ませてください!」
「・・・・・・しかし・・・あなたには旦那さんがいませんよね? 親兄弟もいないと聞きました。出産までには精神的安定も必要となります。あなたの心の支えになるような人間もなく出産するということがどういうことかわかりますか?」
「・・・・・・・・・」
「・・・確かにあなたのお腹の中には新しい命が芽生えています。だからこそ最終的にはあなたの意志一つですが、あなたにとっても、お腹の中の赤ちゃんにとっても、これから生きていく上でとても大事なことなのだということを、もう一度よく考えてみてください」
「・・・・・・は・・・、い・・・」
そうだった。
この子は・・・産まれてきても父親がいないのだ。
もしかしたら、母親もなく過ごさなければならないかもしれない。
最悪、産まれてくることすら・・・・・・
産みたい、という気持ちだけで乗り越えられる問題じゃない。
なんて浅はかだったんだろう。
もっとちゃんと考えなくちゃいけなかったのに・・・
赤ちゃんのこと、
今後、起こりうるかもしれない最悪の状況のこと。
とにかく、考えられる全てのことを。
日々繰り返す葛藤の中、時間だけが刻々と過ぎていった。
けれど、何度考えてみても答えは出せない。
しかし、タイムリミットは目の前まで迫っている。
どうしたらいい?
私は産みたい
・・・・・・けれど・・・
あぁ、どうして私はこんな体をもって産まれてきたのだろう・・・
百合絵が思い悩んでいる横では、常に優吾が側にいた。
彼は自分で言ったとおりに本当にいつも隣にいてくれる。
相談にのるとかいうわけでもないのだが、とても自然に百合絵の周りで過ごしているのだ。
けれど、苦しい中でも彼の優しげな笑顔を見ると、自然と心が和んでしまう自分がいた。
その度に思う。
大丈夫、私はまだ笑える
けれど、確実に迫る足音に百合絵は怯えきっていた。
第11話へ続く
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