子供を産むのか、産まないのか。
それだけを日々考え、それでも答えは出せなかった。
しかし、医者が発作も落ち着いただろうと診て、百合絵の退院が決まったのは、妊娠が発覚した一ヶ月半後の事だった。
結論は出さなくてはいけない。
それでもどうしても決めることが出来なくて、日々悶々とした毎日を過ごしていたが、退院の前日になって突然優吾に言われた一言は百合絵を絶句させるに相応しいものだった。
「・・・なんて言ったの、今?」
百合絵の引きつった顔を見て、優吾は不思議そうな顔をして微笑んだ。
「ん? だから、結婚しようって言ったんだよ?」
「飯島くん、それ、意味わかって言ってる?」
「・・・意味? うん、わかってるつもりだよ」
にこにこと無邪気な顔で、とても理解しているようには思えない。
一体彼は何を考えているんだろう?
百合絵には彼の事が全く理解できなかった。
「僕と先生が結婚したらさぁ、僕が、先生と赤ちゃん守ってあげるから安心していいよ」
「飯島くん?」
「だって、赤ちゃん産みたいでしょ?」
「・・・・・・あのね・・・」
「産めばいいじゃない。先生もきっと死なないよ? 大丈夫、辛いことはみんな終わっちゃったよ。僕は由比にはなれないけど、かわりにちゃんと守ってあげる」
「・・・・・・ね、自分が何を言っているかわかってる?」
百合絵は、優吾の羨ましいほどの楽天的な考えに戸惑いを隠せない。
彼が言ったことは、自分の子供ではないこの子を育てるということ。
そんなことをこれから未来のある彼にさせるなど、とても考えられないことだった。
「僕だってちゃんと考えて言ってるんだから、そんな顔しなくてもいいんだよ? いいじゃない、それとも赤ちゃんは産まないの?」
「・・・・・・それは・・・産みたいけど。飯島くんにそんな事をさせられるわけないでしょう?」
優吾はそれを聞くと、楽しそうに微笑んだ。
一体どうしてそこで笑えるのかちっとも理解できない。
「あのね、飯島くん・・・結婚っていうのは好き同士な男女がするものでね、それは世の中には政略結婚とかあるんでしょうけど、基本は恋愛があってするものでしょう? 飯島くんは今、自分の人生を犠牲にしようとしているの、それがわかる?」
「ねぇ、先生」
「何?」
「僕ねぇ、由比も先生も、それから産まれてくる赤ちゃんも大好きだよ」
「・・・・・・」
「二人の赤ちゃん、僕が育てたいって思うの変かなぁ?」
「変、だと思う・・・」
「そう? ふふふっ、何か楽しくなってきちゃった」
「何が?」
「赤ちゃん、カワイイね、きっと」
「・・・・・・っ・・・」
百合絵は、心臓を鷲掴みにされたような気分になった。
優吾はもう既に産まれてきてからの事を考えている。
自分は産むか産まないか、そればかり考えていたのに。
きっと、産まれてきたら、楽しいに違いない。
毎日幸せに違いない。
けれど・・・
「あなたは・・・悪い方には考えないの?」
百合絵の疑問に、優吾は首を傾げて微笑んだ。
何でそんな質問をされるのか理解できないとでも言うように・・・
「だって、赤ちゃんにも先生にも生きて欲しいから、それだけだよ?」
───真っ白な、
生まれたての心を、そのまま持ち続けているかのように思えた。
彼と話していると、それが現実になるんじゃないかって思えてくる。
死ぬか生きるか、それしかないのなら、生きる方だけに賭けるのはいけないこと?
「ね? 僕と結婚しようよ」
由比・・・・・・
あなたの親友、間違ってるわ、絶対
でも、
なぜあなたが彼だけに心を開いたのか、とてもよく分かるの
いつか言ってたわ、優吾には下心がないって
私もそう思う
彼は真っ白な、誰よりも大きな白い翼を持っている
由比・・・・・・ねぇ、私、とてもズルイ
彼の無邪気な顔を見ていたら、彼だったらって思ってしまった。
▽ ▽ ▽ ▽
百合絵は退院して、学校に戻っていた。
仕事をしなくては生きていくことは出来ない。
多恵の遺産など、手をつけるなどもってのほかだった。
それをしたら、彼女との思い出までなくなってしまうような気がしたから・・・
だから、働く。
働いて少しでも未来に繋げなければいけない。
なぜなら百合絵は、産むことを決心したのだから───
しかし、いずれお腹が膨れ、妊娠していることが周囲に知れ渡るのは時間の問題。
その時、この子が誰の子であるか、そういう憶測も飛び交うだろう。
誰にも話さなければ、相手が由比だということは発覚しない。
けれど、誰の子か言えないような子を身籠もったと知ったら、周囲はきっと黙ってはくれない。
この仕事は、続けられないかもしれない。
由比が始まりだった。
ならば、由比で終わるのだろうか?
そして、優吾の申し出には、当然の事ながら頷くことは出来なかった。
彼の犠牲があまりにも大きすぎる。
何も自ら荷物を背負い込む事はないのだ。
真っ白な心のままで、私のような人間に関わらず、そのままの彼でいて欲しい。
しかし、
百合絵の思いとはうらはらに、
優吾は何度断っても、屈することはなかった。
信じられないくらいの頑固さを彼は持っていて、思ったことは実行するまで諦めないつもりのようだった。
それでも、彼独特の柔らかな物腰と穏和な性格は百合絵の心にも少しずつ入り込み、彼の言葉を受け入れることはなかったけれど、その優しさに触れている間は限りなく彼女の心を安心させた。
───そして、
退院してから一月も経っていない、今。
百合絵は目の前にいる彼が、何故普通に自分のアパートに出入りしているのかよく分からなかった。
本当に、気がついたら、あまりにも自然に彼は百合絵の生活に入り込んできていた。
一緒に住むとかそう言うことではなく、気がつくと部屋にいて、話をしていつの間にか帰っていく。
あまりにも不思議な存在で、しかし、いるのが自然だと思い始めている自分が恐ろしくもあった。
「僕はねぇ、赤ちゃんは女の子だと思うなぁ」
「そう? 私は男の子がいいわ」
「ふふふっ、どっちでもカワイイね、きっと」
楽しそうに笑う優吾を見て、百合絵は苦笑せざるを得なかった。
「・・・・・・ねぇ、どうして諦めないの?」
「ん? またその話?」
「だって」
「・・・う〜ん・・・じゃあさ、こういうのはどう?」
「?」
「愛のある家庭を築こう」
とろけるような微笑み。
彼は、自分で何を言ったのか分かっているのだろうか?
百合絵は思わず赤面してしまった。
「・・・それは、飯島くんと私が、愛し合うということ?」
「僕はねぇ、最初から形だけの結婚なんてする気はないよ? だってさ、赤ちゃんは親を見て育つんだよ? 二人がよそよそしかったら、いい家庭は生まれないじゃない? だから、みんなで楽しく幸せに暮らせたら最高だよね」
彼は本気なのだろうか?
そもそも、そんな無邪気な顔で、愛だとか結婚だとか、何だかとても変なかんじだ。
「・・・・・・ねぇ、あなたは私をどう思っているの?」
こんな事を質問するなんて、自分で自分が信じられない。
だけど、とても気になるのだ。
彼が、自分のことをどう思っているのか・・・
どう思って、結婚などと口にだしているのか・・・
由比の親友だから?
一人の私を放っておけないから?
犬や猫を拾うみたいな、そんなかんじなの?
「好きだよ」
だけど、やはり無邪気に言われたその言葉に何が含まれるかなんて分からなかった。
どうしても、両親や兄弟に言っているかのように聞こえてしまって。
そういう感情のような気がして。
私は、何を期待しているの?
「そんな言葉じゃわからないわ」
「? どんな言葉ならわかるの?」
「・・・・・・それは・・・」
「・・・なぁに? 先生はむずかしいねぇ」
「あなたの方がむずかしいわ」
そんなことを言われて、優吾は面白そうにくすくすと笑っていた。
百合絵はちょっとだけ拗ねて、俯く。
それに、自分が今何を望んだのか、それがとても恥ずかしかった。
なんて都合がいいんだろう・・・
彼に、愛されたいなどと、少しでも思うなんて・・・
寂しさを、彼に求めるなんてあまりにも身勝手すぎる。
「ねぇ、先生、僕は赤ちゃんごと守りたいんだよ?」
テーブルに肘をつき、頬杖をしながら優吾は言う。
だから、その意味がわからないというのに、どうしてそれを理解してくれないんだろう。
百合絵は、何だか泣きたくなってしまった。
「う〜ん、先生は何が欲しいんだろうねぇ・・・むずかしいなぁ」
まるで子供をあやすかのように。
私は、彼よりも9つも年上なのに・・・
「じゃあさ、先生はどう? 僕のこと、どう思う?」
その質問には、心臓が飛び出るんじゃないかってくらい驚いた。
彼のことをどう思っているかなんて考えたことがなかったから。
「・・・好き、よ?」
それは、そう思う。
好きか嫌いかなら、好き。
だけど、彼に恋愛感情を持っているかと言ったら・・・・・・
だって私には由比がいるから
例え少しだとしても、他の人を好きになるなんて、そんなことが許されるはずがない。
「ふ〜ん、それなら、僕と一緒に暮らす生活って想像できる?」
「え?」
「例えばさぁ、一緒にごはん食べて、一緒に眠って、一緒に笑って・・・」
「・・・・・・」
「この先、百合絵先生の隣にいるのは誰だと思う?」
「・・・・・・・・・」
・・・・・・ちがう
いやだ、やめて。
「想像できたって顔してる。それが家族でしょう?」
どうして?
どうして目の前にいる彼といることを幸せだと想像してしまうの?
隣にいる人間が何故由比じゃないの?
いやだ、自分は最低だ。
私は何を考えてるの?
じゃあ、由比は?
「だって、わからない。それなら由比は? 彼はどこへ行ってしまうの? 私があなたを好きになったとしたら由比の居場所がなくなっちゃう」
そうでしょう?
私だけが彼の居場所をつくってあげられるのに。
できるわけがないじゃない、そんなこと。
優吾は、しかし、きょとんとした顔で、とても不思議そうに百合絵の言葉を聞いていた。
「ねぇ、好きって気持ちってさぁ、沢山あるんじゃないのかな? だって一個だけだったら溢れちゃってもったいないよ。何個も何個も増えていくんだよ。だから幸せもその分増えてくんだろうね、消えたりなんて絶対しないんだよ」
「・・・・・・・っ・・・・」
「えっ? ど、どうしたのっ? あぁ、ティッシュティッシュ」
彼はこんな時だけ慌てて、自分がどれだけ凄いことを言っているのかわかってない。
由比みたいな激しさはない。
けれど、彼には溢れるような愛情がある。
満たされるような愛情を持っている。
それは、きっと何よりも素晴らしいこと。
「先生?」
百合絵は、涙でぐしゃぐしゃになってしまった顔で、優吾を見つめた。
彼女から発せられた声は、消え入りそうなくらい小さいものだったけれど、しっかりと彼には届いたようで、やわらかく微笑んでくれた。
好きという気持ちは増えていくものだと言った。
ならば、私の気持ちももっと増えていいのだと、言ってくれた・・・・・・
この気持ちが何なのか、それはわからないけれど、
あまりにも居心地のいい彼の側を離れるのが辛いだけかもしれないけれど、
「・・・・・・一緒に・・・いて、ください・・・」
第12話へ続く
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