緋色薫が百合絵に初めて出会ったのは、まだ彼女が中学生にあがったばかりの頃だった。
亜利沙とは幼なじみで、幼少の頃から仲が良かったのだが、百合絵は幼い頃は今よりも身体が弱く、家の外に出ることは殆ど無かったらしい。
その為に、湯河邸に遊びに行っても、病弱な妹がまた床にふせっていると苦笑いする亜利沙の言葉を聞くだけで、実際の彼女を見たことはなかった。
百合絵を見る機会を得たのは彼が大学生の時。
亜利沙に、どうしても欲しいものがあるからつき合って欲しいと頼まれ、一緒に出かける約束をしていたので、いつものように彼女を家まで迎えに行った。
だが、家の中はいつもと違い、使用人達がざわざわと行き交い、慌ただしく落ち着きがない。
一体どうした事だと思いつつも、亜利沙がまた我が儘をやって皆を困らせているんだろうと考えていると、奥から本人がやってきた。
「薫、ごめんね。ちょっと待って欲しいの、今取り込んでいて」
困ったような表情。
それは、彼女が妹の事を話すときによく見せる顔で、案の定、病弱な妹の事で家中が落ち着きがなかったらしい。
「静養のために暫く別荘の方にいたのだけど、さっき帰ってきたの。最近あまり体調がすぐれなかったから帰るのは来週だと思ってたのに」
そう言うと、亜利沙はまた奥の部屋へと引っ込んでしまった。
薫は少々考えた末、噂の妹にも興味があったので、勝手に上がらせてもらうことにした。
亜利沙が入っていった部屋の前まで来ると、そこからは使用人の笑い声や、母親のジュリアが涙ぐんでいる声などが聞こえてくる。
そして、その中に混じった聞き慣れない声。
小さな声だが、よく響く、鈴のような可愛らしい声。
「今日は凄く調子がいいの、それに、本当は別荘よりここが一番落ち着くのよ」
「でも、百合絵、もし倒れたら・・・」
「お母様、私皆の顔が早く見たくて帰ってきたの。だから、絶対倒れるわけがなかったのよ」
娘の言葉にむせび泣く母親、余程無事に帰ってきたことが嬉しいのだろう。
薫はドアを開け、中の様子を直接伺うことにした。
目に飛び込んできたのは、この世のものとも思えないような美少女。
透けるような白さを持つ肌の色、髪の色はフランス人だという母親に似て、薄茶でゆるくカールしている。
唇は桜色に色づき、その瞳も髪の色と同じで、吸い込まれそうな綺麗な色だった。
呆然と立ち尽くす薫に百合絵が気づき、首を傾げる。
その様子も愛らしく、彼の胸を高鳴らせた。
「お姉さまのお友達ですか?」
百合絵の言葉で薫に気づいた亜利沙が彼を紹介し、彼女も自己紹介をした。
ふわりと微笑んだ百合絵の顔が脳裏に焼き付いて、その日一日ずっと上の空で過ごした事は今でも忘れない。
深窓の令嬢とは良く言ったものだと思う。
亜利沙も相当な美人だと思っていた。誰の目をも自分に向けてしまうような華やかさ。当時14歳にして彼女に憧れる男など、既に数え切れないほどいた。
だが、
百合絵・・・彼女は、何もしなくても、ただそこにいるだけでいいと思わせるような存在感。可憐で、儚く、それなのに、笑顔を見るとこっちが幸せになるような・・・とても不思議な魅力を持つ少女だった。
薫は、7つも年下の少女に呆気なく恋に落ちた。
そして、初めて見た日から幾度となく彼女を探すように湯河邸へと赴き、段々と親しく話すことが出来るようになり、勉強が遅れがちな彼女の家庭教師も自ら積極的に申し出ることで百合絵との距離も少しずつ縮めていった。
元々頭のいい彼女は、コツさえ掴めばあっという間に問題を解き、授業の遅れなど直ぐに取り戻し、今では人より先を進んでいるくらいにまでなっている。
自分が社会人になっても、彼女との唯一と言って良いほどの繋がりを無くすことなど出来るはずもなく、そのまま家庭教師を続けた。
勿論、学力が上がっていく彼女のために、自分も必死で勉強したのは言うまでもない。
誉めれば嬉しそうにはにかんで笑うものの、決して自分の努力のたまものだなどと思ってはいない様子の百合絵。
素直な笑顔にどれだけ心が揺さぶられたか分からない。
あまり外の世界を知らず、まるで無菌室の中で育ってきたような彼女は、人と争うことや感情を剥き出しにすることなどが全くなく、ただ穏やかに可憐に咲き続ける花の如く存在した。
彼女は、そんな自分の価値など全く理解していないのだろう。
だから、結婚なども、そんな簡単に決めてしまえるのだ。
自分の気持ちなど全て後回しで。
「百合絵ちゃん、俺と結婚しよう」
その言葉は、あれから何度も彼女に囁いた。
薫は、百合絵の家庭教師をしていることもあって、二人きりになるチャンスはいくらでもある。
彼女に触れるだけでも罪になるのではないかと思えて、今まで気持ちを伝えることも出来ずに過ごしてきたが、この状況では薫も黙っていることなど出来ない。
あれから、会う度に彼女に求婚している。
一度もいい返事を聞くことは出来ていないけれど・・・・・・
「どうして駄目なんだ? 俺は、本気なんだよ?」
「・・・・・・私・・・困ります。伊勢さんと結婚するんです。ゆるして・・・」
「好きじゃないのに? だったら俺と結婚しても同じじゃないか」
「そんなっ・・・私、それだけは出来ません・・・」
ふるふると首を横に振ると、やわらかくカールした彼女の髪がフワフワと流れ、シャンプーのいい香りがした。
それと、彼女から発せられる甘い香りも。
「姉が、薫さんの事をどう思っているのかおわかりでしょう?」
「それが、俺と結婚できない理由?」
「・・・・・・はい」
薫にとって、そんなもので百合絵を諦める理由になるはずもなかった───
▽ ▽ ▽ ▽
好き、とは一体どういうものなのだろう?
百合絵は、初めてそういう感情について考え始めていた。
気持ちのない結婚はするべきではないのだろうか?
分からなくなってしまった。
「百合絵さん、左手をだして」
「え?」
伊勢から差し出されたのは、婚約指輪だった。
百合絵が迷いはじめても、別段世の中どうなるというわけでもなく、結婚の話は順調に進んでいった。だからといって、彼女が逆らう事などなく、その流れに身を任せていたのは言うまでもないが。
「キレイ。ありがとうございます」
左手の薬指にはめられた指輪を見て微笑んだ彼女に、照れながら笑う伊勢には好感が持てた。
しかし、恋をしているのか? と言われれば、恋ではないだろうと言うことは自分でもよく分かっている。
ただ、一人の人間としていい人だ、と思えるだけ。
恋というのは、亜利沙のように誰かのことを泣くほど思えるような気持ちなのだ、きっと。
けれど、このように身体が弱く、皆に迷惑をかける人生を送ってきた自分に何の我が儘が言えるだろう?
恋をしていないから結婚できないなど、断る理由になど成り得るはずがないではないか。
▽ ▽ ▽ ▽
その日、左手の薬指に指輪をはめたまま、百合絵は薫が来るのを自室で待っていた。
さすがにこれを見れば、彼も身を退くのではないかと思ったから・・・
けれど、彼女の左手を見た薫は、それを鼻で笑い、身を退くどころか益々百合絵を求めようとした。
「そんな事で、俺が動揺すると思ったの?」
「・・・私、結婚するんです、だから困ります」
「君はいつもそればかりだね」
百合絵の細い腕を取り、自分に引き寄せ、抱きしめる。
いやいやをする百合絵の口に自分のを無理矢理押しつけた。
ガクガクと震える百合絵は、またしても犯した自分の罪に目の前が真っ暗になるようだった。
また、姉を裏切る行為をしてしまった。
もっと、姉の心が自分から離れてしまう。
あれから、姉は自分に微笑みかけるどころか、目を合わせてくれることすらしてくれない。
極端に会話の減ってしまった私たち。
どうしよう、どうしよう
けれど、力のない彼女に男の力に抗う事など不可能だった。
自分の口を無理矢理こじ開け、侵入してくるもの。
それは、彼女の舌を追い回し、捕まえ執拗に絡みついてくる。
熱っぽい薫の瞳、行動、全てが怖かった。
「本当に、百合絵ちゃんを愛してるんだ」
熱い吐息混じりの声。
それが首筋にかかり、身体がビクリと震えた。
───それと同時に、胸にかすかな痛み。
「・・・・・・百合絵ちゃん?」
「・・・ひくっ・・・」
薫が気付き、彼女の顔を覗き込んだときは、既に遅すぎた。
目の前が霞むほどの激痛は、ここしばらく無かったもの。
油断していた、家に住む者以外にこのような自分を見せてしまうなど・・・
だが、制御できないほどの苦しみは、彼女に気を失わせることも許さず、心身共に痛めつけていく。
「百合絵ちゃん!!!」
───薫の声は、あまりにも遠い。
第3話へ続く
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