『あなたの鼓動が聞こえる』

○第4話○ 身元不明の少女







 広い建物の中で、もう何日も眠り続けて一向に目を覚まさない少女。
 彼女の事は、病院関係者の間では有名になっていた。

 自分の身分証明になるような物を何一つ持たず、誰だか分からない身元不明の少女は、車に轢かれ、数メートル跳ね飛ばされた後、運転手の通報によって病院に運ばれた。
 打ち所が良かったのと、飛ばされた場所が植木でクッションになった為、奇跡的に捻挫や打撲程度で済み、大きな外傷も見あたらなかった。ただ、少し頭を強く打ったショックで意識不明の状態が続いているが、普通なら、目を覚ましてもおかしくない状況だった。


「あらあら、まだ目を覚まさないの? お寝坊なお嬢ちゃんねぇ」

 ナース姿のふくよかな中年女性が、朝食の時間には必ず部屋に来て、換気のために窓を開けたり、目の覚めない少女に話しかけたりしていた。
 交通事故の為、加害者の加入していた保険などから入院費は賄われるから、病院としては、少女をここに置いていても問題はなかったが、身元不明なのと、目が覚めないという事が頭を抱える要因だった。

「どこのお嬢ちゃんなんでしょうねぇ? 本当に・・・。誰かが言ってた話だと、どこかのお嬢様だって言うのよ? 着ている物は全部ブランドものだったって・・・私は何だかよく分からないけど、ナントカっていうので、統一されていたとか」

 女性は、微笑みながら、少女の前髪を掻き上げた。

「お人形さんみたいな子ねぇ。色が真っ白で。目を開けたらもっと可愛いでしょうに。でも、ちょっと痩せ過ぎよ? もっと太らなくちゃだめね」


 その時、思わぬ強風が吹き込んできた。
 風は、少女の髪の毛をゆらゆらと揺らし、女性は一瞬であるがその姿に見惚れてしまった。しかし、直ぐに我に返り、慌てて窓に駆け寄る。

 だが、

 窓を閉めようと、手をかけたとき、何か違和感を憶えた。



 何か・・・・・・


 そう、

 声、だ。


 驚いて振り返り、少女を見ると、瞼が開き眠りから覚めているではないか。


「ちょっと、あなた、大丈夫? 意識はしっかりしている!?」

 問いかけに、少女は不思議そうな顔をして、窓の外を見つめた。

「あの、におい・・・・・・なぁに?」


 におい?

 何か、においがするだろうか?
 女性は疑問に思ったが、やがて思い当たることがあり、大きく頷いた。

「潮の香りね。ここは海のある町だから」

 女性の答えに、少女は目を丸くして微笑んだ。

「そうなの。海・・・初めてだわ、見てみたい・・・・・・」
「そうね、目を覚ましていればいくらでも見られるわよ。今、先生呼んでくるから。すぐに戻ってくるから、大丈夫よね?」

 小さく頷いたのを見て、女性は急いで部屋を出ていった。
 それから、言ったとおり数秒もしないうちに彼女は医者を連れて部屋に戻り、状況を理解しないまま様々な質問を浴びせていく。

 見た目、落ち着いた少女の様子に皆一様に安心していた。
 だが、質問が始まると次第に表情が硬くなり、部屋の中にピンとした空気が張り巡らされる。尋常ではない事が起きてしまったことは、容易に想像出来た。



 最初は記憶の混乱だと思った。

 名前を尋ねると、

「・・・・・・ユリ・・・・・・確かそんなような名前だったわ・・・・・・そう、百合絵・・・・・・・・・ええ、私の名前は百合絵です」

 年齢を尋ねても、

「じゅうろく・・・・・・違うわ、・・・17歳・・・? あぁ、そうだった、私あと半年で高校を卒業するはずなんです、誕生日はまだ来てないの、だから17歳だわ」

 だが、極めつけは、どこから来たか? という質問。


「・・・どこ・・・・・・・・・さあ・・・それは、知りません」

 ただ首を横に振るだけ───


 名前は百合絵、年齢は17歳。
 そして、自分の体のことはとても詳しく、抱えている病気についてもちゃんと説明する彼女に皆顔を見合わせる。
 周囲にある物を見ても、それが何であるかちゃんと理解しているようなので、日常生活レベルで困るようなことは、とりあえずはないようだった。


 だが、名字も住所もわからず、身元不明のまま。
 海が初めてだと言っていたことから、やはりこの土地の人間ではないのだろう。

 つまり、頭を打った事による、記憶の喪失だった。
 この場合、一時的なものなのか、一生なのかそれは医師に判断は出来ない。
 何か、記憶をなくす前の自分の生活の一部や、大切なもの、人、言葉、現象などで思い出すケースもある。
 だが、彼女の場合身近な人間がいない。

 それと、不思議だったのが、記憶喪失だとわかっても百合絵と名乗った少女が非常に落ち着いているということ。
 混乱や、不安感を表に出すということをしない。
 穏やかな性格で、どこか浮世離れしたような雰囲気を持ち、彼女が笑うと自然と周囲が微笑みを浮かべてしまう。

 一体どんな環境で育ってきたのか、全く想像できなかった。








▽  ▽  ▽  ▽


 湯河家では、その頃大変な騒ぎになっていた。
 百合絵がいなくなって、既に数日経過している。

 友人の水無月桜の話では、電車に乗りたいと言う百合絵に、現金を貸し与えたという。
 洋服を百合絵にあげると、その服のまま、桜の家に制服や鞄を残して出かけていったらしい。

 百合絵と思われる少女が電車に乗り込んだのを記憶していた人間は何人かいた。
 向かった方角を徹底的に捜索し、駅一つ一つに彼女が降車したかどうか確認をとったが、どの場所でも百合絵が駅から出てきたという情報は得られなかった。




 そう、

 途中で彼女は電車を乗り換えていた。

 それが、特急列車だったこともあり、百合絵の辿り着いた町は、湯河の家のある場所からは余りにも離れすぎていた。

 結局居場所を掴むことの出来ないまま、ただ、時間だけが虚しく流れていったのである───











▽  ▽  ▽  ▽


「ユリちゃん、熱を測る時間よ」
「はい」

 百合絵は、ここの所微熱が続いていた。
 けれど、発作などを起こす気配がないので、これでも体調がいいのだと言う。
 他の記憶は抜け落ちても、自分の体の事はとても詳しいのがとても不思議だった。もしかしたら、病気のことを忘れるということは自分の命を左右する事にも繋がるため、一種の防衛本能のようなものが働いた結果だったのかもしれない。


「みんな、不思議がってるわ。自分の病気の事は詳しいし、慌てたりしないって。そんなに変なことなのかしら?」
「・・・そうねぇ、不思議な子ではあるわねぇ・・・」
「多恵さんまでそんな事を言って」

 百合絵は苦笑した。
 多恵と呼んだナースは、意識不明の間、ずっと彼女に語りかけていた中年女性のことだ。
 彼女はこの病院の婦長を努め、充実した毎日を過ごしている。
 目が覚めてから、百合絵と多恵は随分仲が良くなった。

「でも・・・ユリちゃん、あなた不安にはならないの?」
「・・・わからないけど、何となく私は、今まで色々な流れに逆らわずに生きてきた気がするの。だから、何が起きても身を任せているだけなんだわ」

 そうは言っても、簡単に割り切れるものではないはずだ。
 穏やかに微笑む百合絵を見て、やはり、この子は普通の感覚では生きていないような気がする。多恵は、そう思ったが、それを口にすることはなかった。

 それよりも、百合絵のこの先の行き場所が問題だと思っていた。

 このままでは、養護施設に入れられるだろう。
 そこでは、里親制度などもあるが、施設内や里親先でこの子が生きていくには、あまりにも現実は厳しいだろう。勿論、心優しい人に巡り会えればそれに越したことはない。

 けれど・・・・・・


「ユリちゃん、体調が万全になったらウチに来るかい?」

「え? 多恵さんのお家?」

 ビックリしたような百合絵の顔を見て、多恵はにんまりと笑った。
 口に出したことによって、覚悟が出来たようだった。

「ウチの子になっちゃいなさい。ユリちゃんいると、家が華やかになって楽しそうだわ」

 ウチの子、という言葉は、百合絵の胸の奥深くまで染み渡り、何だか心がじんと暖まったような気がした。

 誰にも迷惑などかけたくはない。

 けれど、多恵のあたたかい体温をこの先も感じることが出来たら・・・
 そんな夢をみるのはいけないことだろうか。

 困ったように、返事に詰まる百合絵を見て、多恵は顔をくしゃくしゃにして笑い、百合絵の頭をぽんぽんと優しく撫でた。

「子供なんだから、我慢なんて似合わないよ。それに遠慮なんてしてたら、幸せは一生掴めないからね」

 多恵の言葉に、全身から何かがこみ上げてくるような気がした。
 同時に、ふたつの瞳からはポロンと、音をたてそうなくらいの大きな粒がこぼれ落ち、立て続けに溢れてくるそれに戸惑いつつも全くとまる気配を見せない。

 それが、涙だと気づいたとき、感情が溢れだし、しゃくり上げるようにして多恵に抱きついた。

「多恵さん、多恵さんっ」
「あらあら、やっぱり子供じゃないか。我慢してたんだねぇ、ばかだねぇ」

 ふっくらとした両腕に抱きかかえられ、あまりにあたたかい温もりは百合絵の心を優しく溶かした。
 その後も、あふれ出す感情のまま、記憶をなくす前には滅多に見せたことのないその姿を隠すこともせず、まるで母親に甘える子供のように、ただひたすら泣き続けた───






第5話へ続く

<<BACK  HOME  NEXT>>



Copyright 2003 桜井さくや. All rights reserved. Never reproduce or republicate without written permission.