「さぁ、今日からここがユリちゃんの家だよ。結構古いから汚いけどね、それは文句言わない。雨風しのげて、食べてくことが出来れば人間幸せなんだから」
多恵は慣れた動作で3DKの一戸建ての自分の家の中に入り、百合絵を誘導した。
低い天井や、狭い部屋は、なんだか物珍しいような気がして、きょろきょろと辺りを見回してしまう。
「何か面白いものでもあった?」
あまりにも不思議そうな顔をした百合絵に多恵が苦笑しながら聞いてきた。
百合絵は、頬を染めて首を振ったが、すぐにまた部屋中を見渡して呆けた顔をしている。
と、タンスの上に飾られている写真立てに視線がとまる。
今よりもちょっと若い多恵と、男性の写真。
「あの写真、旦那様ですか? そう言えば、家の人がいないようだけど・・・」
多恵はその写真立てを手に取り、百合絵にもよく見えるようにテーブルの上に置いた。
「この人が、私の長年連れ添った亭主。3年前に他界したけどね。いいダンナだった、私が子供を産めない体だったからずっと二人だったけど、楽しく暮らしたよ」
「・・・・・・ごめんなさい・・・私、失礼なことを聞いちゃって・・・」
「なぁに言ってるの! 私は幸せだったんだからちっとも不幸じゃないよ。ユリちゃんは今日からウチの子になるんだから、それくらい知ってたって当たり前の事。私に遠慮は要らないからね、堅苦しいのは大嫌いなんだから」
ふっくらした多恵の顔がにこにこ笑って、つられて百合絵も微笑んだ。
「多恵さん」
「なぁに?」
「旦那様、優しそうで素敵ね」
「あら〜、聞いたかい、アンタ。こんな若い子に誉められちゃって。この人今頃天国で鼻の下伸ばしてるよ、きっと」
嬉しそうに話す多恵を見て、百合絵は少し羨ましいと思った。
存在がなくなっても愛せるくらい多恵さんと旦那様には深い絆があるんだわ
私にもそんな人が出来るかしら?
そこまで思い、何となく自分の過去に疑問をもった。
記憶があったときの私には、そういう人はいたのかしら?
ドキドキするような、そんな気持ちを誰かに思い抱いていたのかしら・・・
けれど、考えてもどうしようもないことだ。
百合絵は思い直して、多恵に一つの提案を出した。
「私、何もしないで家にいさせてもらうわけにはいかないわ。働きたいと思うの」
だが、多恵は驚いた顔をしただけで、頷くことはしなかった。
「なぜ? 私、恩返しがしたいの」
「ユリちゃん、あんたはね、病人なんだよ。退院したとはいっても、あんたの病気はいつ発作が起きたり倒れたりするかわからない。麻酔が効かない体質じゃ、手術も不可能でしょう、メスを入れた瞬間ショック死しちゃうよ。何かがあったとき、苦しい思いをするのはユリちゃんだよ」
「・・・・・・でも・・・」
「気持ちだけもらっておく。だけど、家にずっといるのも体にはよくないからね、何かやりたいことをみつけなさい。これからの女性は、自分のやりたい道に進むべきだよ」
「・・・・・・やりたいこと・・・?」
「そう、私みたいにね。・・・って、働くことをすすめてるんじゃなくて、趣味とかそういうものの事だからね、そう、お稽古ごとをするとか」
やりたいこと。
確かに、ナースをしている多恵の姿はとても生き生きして輝いている。
自分も多恵のようになりたい
・・・けれど、多恵の仕事が自分に出来るはずがない。
人の命をあずかる看護婦が発作で倒れたなんて、絶対にあってはならないこと。
なにか、やりたいことと言われても、とてもすぐには見つかりそうもなかった。
▽ ▽ ▽ ▽
その日、百合絵は近くのスーパーへ買い物に出かけていた。
はじめは店の雰囲気や、物の買い方がわからなくて、オロオロするばかりだったが、慣れるとその全てが物珍しく楽しかった。
今では店員と仲良く話せるまでになっている。
料理も少しずつだが出来るようになって、自分の作ったものを多恵が美味しそうに食べて誉めてくれると、嬉しくてしかたがなかった。
帰り際、百合絵は小学校の前を通りかかった。
外から見る学校の風景は、何となく懐かしい気分にさせる。
グラウンドの中で走り回る子供達、遊具で遊ぶ小さい姿。
その風景に引きずられるようにして、校門をゆっくりとくぐり抜けていく。
入ってみると外から見たときよりも、子供達はずっと活発で、顔や体操着が汚れようとお構いなしにかけずり回っている。
百合絵は、眩しいものでも見るように、その情景を熱心に見つめていた。
その時、
コロコロと大きな黄色いボールが転がってきて、百合絵の足下でとまった。
買い物かごを地面に置き、ボールを拾い上げるととても元気な声が百合絵の近くから聞こえてきた。
「ありがとうござい、ますっっ!!」
声の方向を見ると、小さな泥んこの少年が楽しそうに百合絵の方に駆け寄ってきた。
だが、
その途中で少年は何もない地面に蹴躓き、まるでスライディングをしたかのように威勢良く転んでしまった。
「あっ!」
慌てて少年の方に駆け寄ると、膝小僧をすりむき、見れば手のひらや肘などもすりむけて、真っ赤になって血を流している。
「わあああんっ!!!」
「まぁ、大変! 痛いのね、困ったわ・・・・・・」
きょろきょろと辺りを見回し、泣きながらびっこをひく少年の手を引きながら、外にある手洗い所まで連れて行く。そして、ポーチからハンカチを取りだし、それを水で浸した。
「ちょっとしみるかもしれないけど、我慢してね」
傷口にハンカチを軽く何回も押しあてて、汚れを取り除いていく。
けれど、赤い傷口は痛々しくて、どうしたものかと困ってしまう。
「あ、そうだわ。坊や、もうちょっと歩ける?」
「ん〜・・・ぐず、あるけ、っる」
しゃくり上げながら頑張る姿がとても可愛らしい。
こんなに背が小さいのだから、まだ低学年なのだろう。
百合絵は少年の手を取り、保健室へと歩き出した。
「あらぁ〜、派手にやったね〜」
保健室の先生の第一声だった。
しかし、テキパキと傷口に消毒薬をかけ、真四角の大きな絆創膏をペタッと膝に張り、肘や手のひらも同様にしてテキパキと処置していく。
一通り終わると、彼女はにっこり笑って、
「はい終わり〜、遊んどいで〜」
そう言って、少年の肩をぽん、と叩いた。
少年はさっきまであんなにぐずっていたのに、嬉しそうに笑って大きな声でお礼を言った後、元気良く出ていった。
取り残された百合絵は、彼女の手際の良さに感心して拍手をしたい気分だった。
あんなに泣いていたのに・・・
「すごい、魔法みたい」
すごいすごい!!
本当に、なんてステキなの!?
「外部の人かな? 連れてきてくれてありがとう。子供は元気だから、痛いのなんてお風呂に入るまで忘れちゃうのよ」
「なるほど、お湯に浸かって傷口がしみたとき思い出すんですね」
うんうん頷く百合絵を女性は楽しそうに眺めていた。
百合絵は、もう頭の中が興奮して興奮してどうしようもなかった。
「それでは失礼します! お仕事がんばって下さいね」
「ありがとう」
彼女に挨拶し、笑顔で保健室から出ていく。
そのまま駆け出したい気分なのを堪えるのが大変だった。
すごかった、あの人、すごかった!
全身の細胞が踊り出したいような気分
そのまま、あまりの興奮で顔を紅潮させながらグランドを颯爽と通り過ぎる姿は、昔の彼女を知る者が見たらどう思うだろうか。
と、
校門まで歩いてきたところで、さっきの少年が門の前に立っている。
百合絵を見つけると、彼女が置き忘れた買い物かごを手に持ち、よろよろと駆け寄ってきた。
「まぁ、ありがとう。傷はもう平気?」
「うんっ」
「よかった」
百合絵が微笑むと、少年は顔を真っ赤に染めてはにかんだ。
買い物かごを受け取り、百合絵は少年にもう一度礼をのべ、手を振って校門を出た。
何歩か歩いたとき、少年が、
「おねえちゃん、ありがと〜」
ばいばい、と両手を上に高くあげて大きく振りながら笑っている。
少しだけだけど、自分も人のために役に立てた、そう思うと嬉しくて仕方なかった。
その思いは、百合絵の心に決定的に響き渡り、初めて自分のやりたいことを見つけた気がした。
私は保健の先生になる!!!
彼女の、生まれて初めての主張だった。
後編へ続く
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