次の週の日曜日、多恵に会いに行くため、午前9時には二人は電車に揺られていた。
手を握りながらシートに座り、寄り添う二人の姿は恋人同士以外の何ものにも見えなかっただろう。
「・・・多恵さんの家からは海が見えてね、良く波打ち際を散歩したわ」
「泳がなかったの?」
「・・・・・・泳げないの・・・」
くすくす笑う由比を見て頬を膨らませた百合絵は、彼の腕を軽くつねった。
「じゃあ、由比は泳げるの!?」
「オレは泳ぎ上手だよ」
「え〜?」
とてもじゃないが水泳をしている由比など想像できない。
本当なのだろうか、と顔を覗き込むと彼に苦笑される。
「昔はオレも健康そのものって感じだったんだよ、これでも」
「・・・へぇ・・・・・・ごめん、ね」
すまなそうに謝る百合絵の肩を抱きしめ、自分の方に引き寄せた。
彼の鼓動がゆっくりと聞こえる。
とくん、とくん・・・・・・
無性に安心させる音。
「・・・百合絵?」
「・・・・・・・・・ん・・・・・・」
とくん、とくん
百合絵は、その音を聞いているうちに、睡魔に引きずり込まれ、いつの間にかウトウトと眠り込んでしまった。
由比は、そんな彼女を愛おしそうに見つめ、いつまでも抱きしめる腕を緩めることをしなかった。
それから、どれだけの時間が経ったのか、
耳元で由比の声がして目が覚めた。
「百合絵、着いたよ。降りよう」
「・・・あ、・・・う、うん」
慌てて車両を降りて、改めて外を眺める。
見知った空の色。
大好きな潮の香り。
変わらない町の風景。
そのどれもがとても懐かしくて目を細めていると、由比に手を引かれた。
「行こう」
「うん」
彼の笑顔と共に、階段をゆっくりと登り、多恵の住む町へと久々に戻ってきた実感で胸が躍る思いだった。
▽ ▽ ▽ ▽
「あらあら、ユリちゃんお帰りなさい! さぁ、あなたもお入りなさいな、いらっしゃいどうぞどうぞ」
挨拶する間もなく多恵の賑やかな出迎えにあい、二人とも家の中に早々に押し込められ、百合絵も由比も顔を見合わせて笑った。
居間に座ると、用意していたお茶と、茶菓子を持ってにこにことした多恵がやってくる。
「はじめまして、本郷多恵と申します。ユリちゃんがいつもお世話になっているようで」
「日向由比と言います。あ、あの・・・お世話になっているのはオレの方ですから・・・」
頬を赤らめた由比を見て、多恵は益々にこにこと表情を崩した。
「ユリちゃんの学校の生徒さんなんですって? 最初聞いたときは驚いちゃったものだけど、ユリちゃんがこうして男の人を連れてくるのは初めてなのよ。奥手でねぇ・・・恋がわからないってずっと悩んでたから、本当に良かった」
「多恵さん、そんな恥ずかしいこと・・・っ」
「あら、ホントのことじゃないの。全くねぇ・・・こんな日をどれだけ夢見てきたことか」
やわらかい微笑みは、二人を包み込むようで、百合絵は改めて多恵の元に由比を連れてきて良かったと思った。
隣の由比を見ると、彼もいつになく微笑みを浮かべ、百合絵と同じ気持ちでいるようだ。
「ねぇ、ユリちゃん、発作の方は最近はどうなの? 顔色はいいみたいだけど」
「あ・・・うん、・・・たまに苦しくなる程度で、熱も殆ど出ないし凄く調子はいいの」
「それはよかった。でも、無理は禁物だよ」
「多恵さん、相変わらず心配性ね」
くすくす笑う百合絵の横で、由比が不思議そうに二人の話を聞いていた。
「・・・発作って・・・?」
「え? 何、ユリちゃん、日向くんに何も話してないの?」
「・・・あ、だって発作なんて全然起きないし・・・」
「ダメだよ、こういうことはちゃんと彼にも知ってもらわないと」
渋る百合絵を余所に、多恵は由比に向き直り、先程とはうって変わって真面目な顔になる。
「ユリちゃんはね、ちょっと身体に難しい病気を持っててねぇ・・・無理をしたらいけないんだよ。手術が出来ない体だから、一生この病気と闘っていかなきゃならない」
「・・・手術が出来ない体・・・?」
「麻酔がねぇ、効きにくいんだよ。勿論、他の薬もねぇ・・・」
「・・・・・・」
「無理に手術したって、地獄の苦しみに耐えられる体じゃない。手術中に発作を起こしてそれこそ一環の終わりだろうね・・・」
「で、でもっ、今は発作って全然起こらないのっ! それは、私が多恵さんと出会って、幸せを手に入れたからなんだわ」
「日向くんとも出会ったしね。病は気からって良く言ったもんだけど」
百合絵は話を聞いた由比の反応がどんなものか気になって、彼の顔色を窺った。
けれど、別段驚いた顔をしているわけでもなく、そんな百合絵に気づくいた彼は、むしろ優しく微笑んだ。
それっきりその話は終わりにして、彼にここにいた頃の百合絵の話をしたり、多恵には学校での事など多くのことを語って楽しく過ごした。
由比は、それを眩しいものでも見るかのように、穏やかに、時折珍しく笑い声を立てたりしている。
多恵は彼のことを非常に気に入ったようで、帰る頃にはとても名残惜しそうな顔をしながら、二人を見送った。
「多恵さんって、あったかい人だね」
家を出て少し歩いたところで由比が言う。
「でしょう? 大好きなヒトなのっ!」
多恵を誉められて余程嬉しかったのか、顔を紅潮させて由比の腕にしがみついた。
彼は、優しく微笑み、突然何かを思いついたかのように立ち止まった。
「海、歩こうか」
「えっ」
「30分くらいなら大丈夫だよ。行こう」
何だかそんな事を急に言い出す彼が、とても由比らしいと思い、百合絵は微笑みながら頷き、二人はすぐ近くの砂浜へと歩いていった。
相変わらず海がキレイで、空気も綺麗だ。
随分暖かくはなったけれど、シーズン前なので誰も泳いでいる人間はいない。
二人は波打ち際を歩き、笑い声をあげながらこのひとときを楽しんでいた。
やがて、
由比が海を見つめたまま立ち止まり、百合絵もその隣で足を止めた。
彼の顔は夕日に染まり、吸い込まれそうなほど綺麗な横顔に胸が高鳴る。
「・・・・・・オレさ、昔この町に住んでたんだ」
突然の告白。
だが、彼の顔は穏やかで、自然とその雰囲気にのまれていく。
「・・・小学生の高学年くらいから、体の調子が悪くなって、大きな病院のある今住んでる町に引っ越したんだ」
「・・・・・・そう、だったの・・・」
由比は百合絵を見つめ、小さく微笑んだ。
そして、彼女を優しく抱きしめ、触れるだけのキスをする。
「百合絵に、オレの秘密教えてあげる」
「・・・由比の秘密?」
彼は頷くと、再び海に顔をむけ、昔話でも話すかの口調で、懐かしげにゆっくりと語り始めた・・・・・・
「まだオレがこの町にいて、元気に飛び回ってたガキの頃。
放課後、学校でドッジボールをしてたら、ボールがコートの外を大きく超えて飛んでいっちゃったんだ。
追いかけて行くと、綺麗な女の人が立っていて、ボールを拾い上げてくれた。だけど、お礼を言いながら駆け寄っていく途中、オレは勢い良く転んでしまったんだ。
それを見た彼女が慌てて駆け寄ってきて。
泣き叫ぶオレを水飲み場まで連れて、真っ白なハンカチを濡らすと、ケガをした部分をキレイにしてくれた。・・・傷口は痛かったけれど、彼女の事が気になっていつの間にか涙はおさまっていた。
それから、彼女は保健室までついてきてくれて・・・なのに、オレは傷の手当てをしてもらうと、舞い上がってそのまま一人で校舎をでてしまったんだ。
だけど、彼女が持っていた買い物かごが校庭に置き忘れていることに気がついて、それを持ったまま校門前で彼女が来るのを待っていると、思った通りやってきた。
彼女はオレに気づくと、優しく微笑んで話しかけてきてくれたよ。
そのまま学校から出ていく彼女の後ろ姿を見えなくなるまでずっと見送ってた。
その後もたまに彼女の姿を見かけることはあったけれど、どうしても話しかけることが出来なかった・・・今考えると、アレがオレにとっての初恋なんだろうね」
由比は、愛おしそうに百合絵を見つめ、彼女の頬に優しく触れた。
「彼女はね、・・・そう、こんなふうに、色が白くて、髪の毛がゆるくカールしてて、目も、口も、笑った顔も・・・・・・」
「・・・由比・・・・・・・・・」
「どう? オレの秘密。喋ったのは百合絵がはじめて」
百合絵は、こんな信じられない運命のイタズラに目を疑うようだった。
だって、あの事があったから、自分は養護教諭になったのだから。
由比が・・・・・・あの少年だった・・・・・・
百合絵が微笑むと真っ赤になってはにかんだ、あの可愛らしい少年だったのだ。
「由比、由比っ!!」
彼に抱きつき、何度も何度も名前を呼ぶ。
「高校に入学して、百合絵を初めて見たとき、どうしようかと思った。でも、あんまりにも変わっちゃった自分があの時のガキだなんて知られたくなくて、黙ってたんだ」
「いいのっ、由比、嬉しいの。私、由比がいたから今の私があるのっ、あの時出逢ってなかったら、やりたい事なんて一生見つからなかったわ。由比、由比っ、大好き由比っ!」
「百合絵・・・・・・」
由比は、静かに微笑み、百合絵を優しく抱きしめると、耳元で小さく囁いた。
「オレは・・・永遠に百合絵と共にあるから・・・・・・それを忘れないで」
私の始まりはいつも彼だった。
いつもいつも、そうだったのだ。
「帰ろうか」
ゆっくりと頷いて、微笑みを交わしてから、二人は駅に向かった。
百合絵は、帰りの電車に揺られるときも、由比の胸の中で彼の鼓動を聞きながら、ウトウトと眠りについていった。
そこには、幸せそうな彼女の寝顔を見つめ、微笑みを浮かべる由比の姿があったという。
ただ、時折見せる表情があまりにも寂しそうで、それが妙に印象的だった。
第9話へ続く
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