○第2話○ 社長の弟(前編)





「湯河くん」
「はい」

 書類をまとめていると、社長室から出てきた社長から声がかかった。

 まりえは日本屈指の大企業である飯島グループの総合本社の社長秘書をしている。
 飯島グループは自動車・家電・ホテル・不動産・ゲーム・アニメ・IT関連その他諸々、とにかくありとあらゆるものを手がけている。

 会長は目の付け所が非凡で、また、人を動かすのもうまかった。彼と、その義弟によって『飯島』がここまで成長したのは周知の事実だった。
 その息子である飯島秀一は若干33歳であったが、彼もまた類い希な資質をもっていて、充分世界を渡り合える人物であった。
 周囲は会長の息子という目でしか見ていなかったが、まりえは秀一を尊敬し、彼と仕事が出来ることを誇りに思っていた。

 自分が飯島秀一の秘書になれたのは、まりえの祖父のコネではあったが・・・。

 秀一の秘書は全部で5人いるが、まりえは3カ国語をマスターし、尚かつ仕事をそつなくこなす上、見目も美しく華やかであったために、事あるごとに秀一はまりえを同席させた。


「なんでしょうか」
「7時からのフランス大使との会食、君も一緒に行ってくれないかな」
「私が、ですか」

 意外。

 今日の会食は殆ど社長のプライベートみたいなもので、秘書を同行させる程のものではなかったはずだ。フランス大使は日本びいきで日本語が話せたし、また、社長も少しならフランス語を話すことが出来た。


「勤務時間外にこういう事で君に仕事をさせると君のお祖父様に怒られそうなんだが、弟と食事するのをすっかり忘れていて大使との予定をいれてしまったんだ。日程をずらそうと言ったら誰か別の人物をよこせって言うんだよ。前に湯河君と会ったことがあるらしくてね。弟のご指名なんだ」
「そういうことでしたら喜んでお引き受けしますわ」
「ありがとう、明日は午後からの出社でいいから」


 社長の弟・・・

 そういえば高校生の弟がいるんだっけ。

 前に会ったことなんてあった?
 会社に来ていたところを会ったとか?
 憶えていないけれどそうかもしれない、他に会う接点が見つからないから。

 たしか、高校三年生。
 社長とは随分年が離れている。

 でも、高校生か・・・なんの話をすればいいものか・・・いまどきの高校生が話題にする会話などわからない。



 けど、まぁ・・・

 なんとかなるかな





▽  ▽  ▽  ▽


「弟の怜二だよ」

 紹介された社長の弟、怜二は秀一よりやや背が高く容姿は似ていたが、笑うと秀一よりも柔和な印象を受けた。

 整いすぎた容姿というのはどこか冷たい印象を受けるものだが、怜二からはそういうものをあまり感じない。
 秀一と始めて会ったときは実際どこか冷酷なものを感じたのだ。
 まぁ、大企業のトップとはそういう部分がないと生き残れないのかもしれないが。


 だけど・・・・・・・・・

 本当に会ったことがある?
 これだけ目立つ人間を忘れるなんてあるのだろうか・・・


「こんばんは、湯河・・・」
「まりえさんでしょ? 知ってるよ」
「光栄です、怜二君」
「こっちこそ会えて嬉しい。兄さん、オレまりえさんと居ていいんだよね?」
「ああ、湯河君、すまないね。怜二を頼む」
「わかりました」

 秀一は怜二が可愛くて仕方がないようだ。
 いつもはとても見られないような優しい笑みで怜二を見ている。

 それから、挨拶もそこそこに、社長はその場を足早に去っていった。


「じゃあさ、とりあえず何か食べよ、オレ腹ぺこ」
「ええ、食事にしましょう、何が食べたいですか?」
「まりえさん〜〜、敬語は勘弁してよ〜、オレ年下じゃん」

 怜二は本気でイヤそうな顔をしたが、どうしても社長の弟という目で見てしまうから、年下とは言え敬語になってしまう。

「でも・・・」
「いずれはオレも管理職なんだろうけどさぁ、今は単なる高校生のガキだよ。普通に話してよ」

「・・・・・・ええ・・・そのほうがいいなら・・・」


 私たちは近場のフランス料理店で、食事を摂ることにした。
 怜二との会話は、高校生だからと言って別段話についていけないと言うこともなく、むしろ楽しく過ごすことが出来た。
 柔和な微笑みと、低いけれど澄んだ声はとても心地よかったから。

 彼の持つ優しげな雰囲気と、高校生だということだけで警戒することなく過ごしていた私は、時折見せる視線の意味にも全く気づかなかった。


 食事も殆ど終わり、ワインを飲みはじめたときから、怜二の計画は既に実行されていたのに・・・・・・



「まりえさん、オレのこと憶えてないでしょ」
「う、ん・・・会社で会ったのかしら・・・」

 それを聞いて、ふふふっと楽しそうに笑う怜二。
 本当に人なつこい笑みをする少年だった。

「はずれだよ」
「じゃあ・・・・・・?」

「ヒントは公園」

 だが、公園と言っても思い当たるコトは全くなかった。
 怜二は誰かと勘違いしているのではないだろうか?

「わからないわ、公園に思い出になるようなコトなんて思いつかない」

 小さく首を振って否定すると、怜二はほんの少しだけ悲しそうな表情をした。それを見て心が痛んだが、考えを巡らせても、やはり何も思い出すことが出来ない・・・。


「ごめん、ね」

「いっとくけど人違いとかじゃないよ。名前聞いたら『湯河まりえ』って名乗ったんだから。まりえさんにとっては日常のヒトコマだったんだね・・・」

 それを聞いてまりえは少し考え込む。

「その時の話をしてくれれば思い出すかもしれない、教えて?」

 すると怜二はにっこりと微笑んで首を横に振った。


「まりえさんが自分で思い出すんだよ」




 ぐらり。


 ・・・・・・・・・・あれ?


「・・・どうしたの? 気分悪い?」


 そう言ってくる怜二の声が段々遠くなる。


「・・・・・・・・・う、・・・ん・・・なんでも・・・だいじょ・・ぶ・・・」


 まぶたが重い、頭が、重い・・・
 なんだろう、これくらいの酒で?
















「今日までホントに長かった」

 そんな言葉が頭の中に響いたような気がした。









第2話の後編へつづく


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